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第4話 お客さまと珈琲


「う……、す、すまない」


 顔を赤くした彼は、怪我をしていないほうの手で口元を覆った。


「あ、お腹空いてます?」

「ああ、いや……、うん。昼から食べていないんだ。ここはいい匂いがするから、空腹なのを思い出してしまって」

「食欲があるなら食べましょう。その後のことは、落ち着いてから決めませんか?」


 悪い人ではないと思う。

 そんなふうに簡単に思うものではないのだろうけれど、小太郎の警戒も全くないし、なにより彼の雰囲気がとても穏やかで優しいのだ。すごく痛そうな怪我をしているのに。


(怪我をしている人を追い出すこともできないし……)


 そうだ、食事を提供している間に派出所へ連絡しよう。駐在さんが病院へ連れて行ってくれるかもしれない。なんなら私が車を出してもいいし。


「――このいい香りは、なんの香りかな」


 少しずつ冷静さを取り戻してきた頭で、どうしたらいいかあれこれ考えていると、ふいに声を掛けられた。


「香り? 香りって、珈琲のことですか?」

「こーひー?」

「さっき飲もうと思って淹れたんですけど、冷めてしまったかな」

「その黒いのが、こーひー? とてもいい香りだね」

「え?」

「紅茶よりもとても黒いし、なんだか不思議な香りだ」


 彼は興味深そうに、カウンターに置かれたままのネルドリップがセットされたグラスポッドを見つめた。


「淹れ直しましょうか?」

「すまない、催促したわけではないんだ」


 慌てて片手を上げる彼に、せっかくだからと勧めてみる。


「気にしないでください。でも、それはもう冷めているかも」

「いや、うん、それじゃあ厚かましくて大変申し訳ないが……、そのまま、少しだけ頂いてもいいかな。なんだかとても興味があるんだ」


 まさかだけれど、珈琲を飲んだことがないのかな? 珈琲が生活に根付いた文化圏で暮らしていそうな容姿なのに……?

 カウンターへ戻ってカップへ珈琲を注ぐ。

 彼にとって初めて飲むかもしれない珈琲が、ぬるくなったものでいいのだろうか。

 カップを手渡しながら、やっぱり淹れなおした方がいいと思い直す。


「あの、やっぱり温かいものをご用意します」

「温かいほうがいいのなら、自分でするよ」

「え?」


 そう言って、彼はそっと両手でカップを包み込んだ。

 その途端、ふわり、と彼の前髪が風に煽られたように舞い、手元がぼんやりと光る。


「!?」


 そうして彼の手元から、珈琲の香りと湯気がゆらりと立ち昇った。


(え? えっ!?)


 混乱する私をよそに、彼は目を瞑って香りを吸い込み、感じ入るように珈琲をひと口飲む。


「――ああ、なんておいしいんだ」


 目を開けた彼は、呆然とする私を見上げて、とても美しく、けれどなんだか、かわいらしい笑顔を見せた。


「ありがとう、こんなにおいしい飲み物は初めて飲んだよ」

「そ……ですか……?」


 両手で包み込むようにカップを持つ彼に背を向けて、混乱した頭のまま、とりあえずカウンターへ戻る。


(今のはなに? 勝手に温まった?)


 確かにぬるい珈琲を渡した。けれど今彼が飲んでいるのは、湯気が立っている。


(とにかく、ええと、今は食事。そう、彼に食事を出そう。うん、ランチが残っていてよかった)


 考えても答えは出ない。私はとりあえず、彼に食事を出すことにした。


 *


「ああ、なんてお礼を言ったらいいんだろう」


 彼はテーブルに置いた料理を前に、感嘆の声を上げた。


「そんな、ありもので申し訳ないですが」

「とんでもない。突然の訪問なのに、こんな素敵なもてなしを受けるのは初めてだよ。ありがとう」

 今日のランチはチキンサラダプレートだった。

 近所の農家さんから仕入れた新鮮な色とりどりの野菜にハーブ液につけ込んだ鶏肉をソテーして、食べやすくカットしたものを乗せて、レーズンパンにクリームチーズ、スープを付け合わせで出している。カフェなのでそれっぽいメニューなのだけれど、怪我をして空腹の彼には物足りないかもしれない。もっとお肉を多くした方がよかったかな。


「あの、お代わりはありますから、遠慮せず召し上がってください」

「ありがとう」


 そう言って彼はふと手を止めた。


「これは?」

「それは、お箸です」

「おはし」


 黒い箸を持ち上げて首を傾げる彼に、うん、やっぱりそういう反応をすると思った、と段々冷静になっていく私。


「この国のカトラリーです。使いにくいと思うので、ナイフとフォークをどうぞ」

「ああ、ありがとう。そうなんだ、初めて見たよ」


 カトラリーを入れた小さな籠を差し出せば、彼はそこからナイフとフォークを取り出した。それでも珍しいのか、箸を見ている。


「ここは私の国からだいぶ離れているのかな。知らないものばかりだ」

「そうかもしれませんね……」

「そうだ、大切なことを失念していた」


 彼は料理に手を付ける前に、カトラリーを置いて私に向き直った。正面から目が合い、ドキリと胸が鳴る。なんだか改まった様子に緊張してしまい、つられるように私も背筋を伸ばした。


「名乗りもせず、大変失礼した。私は、イサイアス。イサイアス・フォン・デ・ハーヴィスト。この度はあなたに救われてとても助かりました。心からお礼を申し上げます」


 そう言って彼、イサイアスさんは小さく頭を下げた。


「そ、ご、ご丁寧に……っ」


 なんて返していいのか分からず、頭を上げるように言うと、顔を上げた彼は楽しそうに笑った。


「精霊の気まぐれなんて、だいたい碌なものではないことが多いけれど、今回はよかった。素晴らしい飲み物を飲むこともできたし、なによりあなたに親切にしてもらったから。本当にありがとう」

「い、いえ……! とんでもないです……」

「お名前を聞いても? レディ」

(レディ!)


 なんだか段々、彼のことが見えてくる。

 甲冑姿に、物腰の柔らかな上品な語り口、そしてあれは……きっと、魔法。なんの仕掛けもない、本当に、本当の、魔法だと思う。


(きっと、異世界からやって来た人、なのかな)


 そう思うとなにもかもが、すとんと腑に落ちた。


「あ、あかりです、白波瀬あかり」

「あかり。かわいらしい名前だね」

「あ、ありがとうございます」

「では、遠慮せずいただくね」

「はい、どうぞ」


 上半身の甲冑をすべて脱いでシャツ姿になった彼は、嬉しそうに目の前のプレートに視線を向けた。多めによそったけれど、もう少し持ってこよう。パンも追加してあげた方がよさそうだ。

 イサイアスさんの足元で、なぜかすっかり懐いて寛ぐ小太郎がパタリ、と尻尾を振った。そう言えばマルはどこに隠れたんだろう。

 人が苦手なマルは毛を逆立ててイサイアスさんを威嚇したきり、どこかへ隠れてしまった。


(熊じゃなくてよかったけど)


 駐在さんへ連絡するのはやめた方がよさそうだな、なんて、おいしそうに食べる彼を見つめながら思った。


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