「ありがとうございました、お気を付けて!」
ランチの時間、最後のお客さまが帰って、扉の札を「CLOSED」に裏返す。
季節が急に進み、前庭の新緑が色濃く輝き始めた。
「そろそろ、ウッドデッキにテーブルと椅子を出そうかな」
前庭のハーブや花も少しづつ花を咲かせ始めている。森から吹く気持ちのいい風に揺れて、アオダモの木が落とす木陰が気持ちいい。
SNSを始めてからというもの、遠方からもお客さんが来るようになった。
町のお客さんからは、夕方に取りに来るからと焼き菓子の予約も入るようになった。最近はスコーンの売れ行きがいい。お店で出す時は手作りのクロテッドクリームも出している。
営業時間をランチ後に一度閉店してから夕方に再開するスタイルに変えてからというもの、身体的に楽になった。
ゆっくり仕事に向き合えるし、休憩も取れる。
そして、あまり多くの人に触られたくないマルの、リラックスできる時間を作ることもできる。
営業中はめったに姿を現さないマルは、たまに現れるとお客さんにとても喜ばれる、レアキャラ看板猫になっていた。
小太郎は、お客さんが来るたびに尻尾を振って人懐っこく絡むので、立派に看板犬として活躍していた。
店内へ戻ると、入り口横の椅子にはいつの間にか戻ったマルが丸くなって眠っていた。頭をひと撫ですると、尻尾をふわりと一度だけ揺らす。
「さて、やるかな!」
今日も焼き菓子の注文が入っている。休んでいる暇はない。軽く自分の昼食も取って、私は材料の確認のため、店奥のパントリーへ向かった。
「――わっ」
足元の袋に脚を引っ掻けて転びそうになる。
「いたた、蹴っちゃった。大丈夫かな」
中身を見て、大丈夫そうなのを確認してまた袋を棚の下へ戻す。
これは、イサイアスさんの忘れ物の甲冑だ。
あの夜、甲冑を持ち帰ると言った彼を、パントリーへ案内した。重たいので二階へ運ぶのを躊躇していた私は、カウンターの奥にあるパントリーにしまっていたのだ。扉を開けて、背後にいる彼へ袋を示す。
「イサイアスさん、あの布の袋に……」
そう言って振り返ったそこに彼の姿はなく、小太郎がお行儀よく座って私を見ていたのだった。
(本人が扉を開けたら移動するわけじゃないみたい)
扉を開けるというより、場所を変えると戻ってしまうんだろうか。それとも入り口をくぐる、とか? 戻る瞬間はいつも視線を外しているので、どんなふうに帰っていくのか、その瞬間を見ていない。
パッと消えるのかな?
(きっと、また来ると思うんだ)
あれから、十日ほど経った。
少しずつ忙しい日が増えてきたけれど、そんな日々の中でも、まだ手元にある、この大きくてちょっとだけ邪魔な甲冑が、イサイアスさんをここへ呼び寄せる気がしている。
次に来るのはいつだろう。そのときにまた、彼が喜びそうなものを出せたらいいな。
ポンポン、となんとなく甲冑の入った袋を叩いて、私は焼き菓子の準備を始めることにした。
*
「さ、そろそろ上に戻ろうか」
片付けを終わらせて自分の食事も済ませ、SNSをチェックして今日の投稿をする。明日の定休日のお知らせと、今週の焼き菓子の情報を載せると、すぐにリアクションが付いた。
(ふふ、反応があるって嬉しいな)
今日の小太郎とマルの写真も人気だ。
口を開けて笑ったようなアップの写真が多い小太郎と、いつもむっつり目が座っているマルの対比が面白いみたい。
「小太郎、マル、上に行くよ」
いつものお気に入りの椅子で寝ているマルと床に寝そべる小太郎に声を掛けて、店内の明かりをひとつ消す。カウンター上のガラスのシェードだけが店内をオレンジ色に染めて、濃い影を落とした。
(明日は珈琲豆の買い付けと、少し足を伸ばして食材の買い出しに行かなくちゃ)
頭の中で明日の予定を組み立てていると、床で寝そべっていた小太郎が起き上がり、二階の居室へ向かう入口の前へ向かった。それに続くようにマルも起き上がり、けれどそのまま耳を立てて外へ視線を向けた。
「マル? どうし――」
マルに声を掛けると同時に、ガチャリ、と店の扉がゆっくりと開いた。
「――どっ」
入ってきた人物は、私を見て大きく目を開き、固まった。
(ど……?)
なにを言おうとしたんだろう。気になるのはそこで、もうそれほど驚かない自分に後からおかしくなった。
「ふふっ、こんばんは、イサイアスさん」
「――こんばんは、あかり」
なんだか少しだけ恥ずかしそうに頬を掻く。そんなイサイアスさんをマルは椅子の上からじっと見つめ、小太郎はおもいっきり、彼に向かってダイブした。
*
「すまない、もう休むところだったんだろう?」
「大丈夫です、居室に戻ろうと思っていただけなので。イサイアスさんは特別なお客さまだから、いつでも歓迎ですよ」
「私が特別? それは嬉しいな」
私の言葉に目を細めて笑う彼を視界の端に留めて、ちょっと意味深だったかと恥ずかしくなる。
(特別なのは間違いないんだけどね? 変な意味じゃないのよ!)
自分の発言に顔を熱くしながら、珈琲を落とす。今日の珈琲はグアテマラの深煎り珈琲。重みのある香りが店内に広がった。
「ああ……、いい香りだ」
目の前に置いたカップを優雅に持ち上げて、イサイアスさんは目を瞑った。
「ふふっ! イサイアスさん、すっかり中毒ですね」
「ああ、否定しないよ。本当に夢中なんだ。あまり飲めない、というのも恋しさに拍車をかけていると思うな」
「恋しさ」
あはは、と笑う私に視線だけ向けた彼は、ふっと優しく目を細めた。青い瞳が、いつもより暗い照明の下では濃い色に見える。
「この香りと、あかりに会うというのは私の中で特別なことだよ」
「!」
(ま、またそういうこと言って!)
人たらしってこういう人のことを言うのかな。意味深に捉えてしまいそうになるから、やめてほしい!
「こ、今夜はイサイアスさんも、もうお休みの時間だったんですか?」
「うん、そうなんだ」
今日の彼は、白いシャツに黒いパンツスタイル、上には上質なガウンを羽織っている。完全にリラックスしていて、お風呂にも入ったのだろう、髪が少しだけしっとりと濡れている。
イサイアスさんの足元では、すっかり懐いた小太郎が安心したように目を瞑って寝ている。こちらも番犬としての業務は終了したらしい。
「自室にいたんだ。浴室から出たところだったんだけど……、まさかこんな無防備な姿で、ここの扉を開けると思わなかった」
笑いながら珈琲を飲んで、彼はほぅっと息を吐き出す。
「――きっかけは、一体なんだろうなぁ」
「本当に。共通しているのは時間くらいですね」
「うん、そうだね」
いつもイサイアスさんがレタルの扉を開けるのは、二十三時。
片付けを終えて一息つく時間だ。
「もうひとつ、共通していることがあるよ」
「え、なんですか?」
「私がこーひーを恋しく思っているとき」
「あは、なるほど!」
リラックスしているときに、ふと思い出す珈琲の香り、ゆったり流れる時間。この時間を恋しいと思ってくれるのは、なんだか嬉しい。
「なにかがひと段落したときに、特に強く思うんだ。ああ、あかりのこーひーが飲みたいって」
「ふふ、それは嬉しいです。私としては、いつでも歓迎です」
そもそも、ここへ初めて来たきっかけも不思議なものなのだから、タイミングなんて、私たちには理解できないことなのかもしれない。
「精霊のいたずらって、こんなにしょっちゅう起こるものなんですか?」
「いや、実はそんなことはないんだ。私もちょっと不思議に思っていて」
イサイアスさんはカップに視線を落として、考えるように睫毛を伏せた。長い睫毛の影が目元に落ちる。
「一度来てしまったために、簡単に出入りできるようになったのかもしれないな」
「でも、自分では意識して来ることができないんですよね?」
「うん。でもなにか……、きっかけを知ればできるようになるかもしれない」
そう言って、自分の掌を見つめる。ぼんやりと、滲むように指先が光った。
「魔法、ですか」
「うん。私の魔力はちょっと人より多いんだ。それも影響があるのかなって」
「もし自由に行き来ができるようになったら、いつでも来てくださいね。今度は明るい時間にも」
「そうだね。外にも出てみたいな」
「それは素敵! お店の外にウッドデッキがあるんですけど、そこに席を設けようと思ってるので、是非利用してほしいな」
「外で飲む珈琲か! いいね、楽しみだなぁ」
イサイアスさんはそう言って、楽しそうに笑った。