「――イサイアス? なんだその服は」
先ほど訪ねた「ばいせん・こーひー」の店で、サービスでもらったというこーひー。
あまりのおいしさに感動している私に、あかりはお代わりを淹れてくれると立ち上がった。
彼女に過去の話をさせてしまって後悔していたのもあって、そばを離れたくなかった。つい、彼女の後をついて歩いたのだ。
扉はないから大丈夫、と思ったのも甘かったのだろう。
店のスペースからカウンターへ足を踏み入れた、ただそれだけだというのに、なぜか何度か訪れたことがある友人の研究室に立っていた。
雑多に積み上げられた本や書類、あちこちに転がる瓶、薬草の香り。うず高く積まれた本の向こうから、知った顔がこちらを見て怪訝な顔をした。
「下着姿でどうやってここまで来たんだ」
「――いや、下着ではないよ」
「ふうん」
部屋の主であるキーランは一瞬だけ興味を持ったらしいが、研究以外に興味のない彼らしく、すぐに手元の本へ視線を落とした。
(――戻った場所が違う?)
今回の転移は、湯浴みを終えて自室へ戻ろうと扉を開けたときだった。
そしていつもなら、あの瞬間にまた戻っているはずだ。ほぼ同時刻、同じ場所に戻るはずが、今は薄暗い魔術師棟の一角にある、キーランの研究室にいる。
「キーラン、今日は何日だ?」
「――は?」
「時間は何時だろう」
今度こそ顔を上げた彼は、まじまじと私を見た。
「なぜカップを持っているんだ?」
そう言われて初めて、手にレタルのカップを持っていることに気が付いた。
*
「ふうん、興味深いな」
キーランから聞いた話では、時刻は変わらず、ただ戻った場所が違うだけのようだった。
私の話を聞いて流石に興味を持ったらしい彼に、一通りいきさつを説明する。
書物を読みながら聞いていた彼は、いつの間にか顔を上げて聞き入っていた。
「精霊の気まぐれにしては回数が多いし、一人に対して短い期間で何度も起こるなんて、聞いたことがない」
「そうだね」
「異世界ではなにか特別なことをしてるのか?」
「特別なこと?」
「こちらではありえないようなこと」
「いや、特に……」
あかりの操る「クルマ」に乗ったことは特別なことだろうか。文化が違うと言えばそれで済む話のような気もする。食文化も、「デンキ」も、こちらにはない特別なことと言えばそうだ。
考えながら、手に持ったままのカップへ視線を落とした。
あまり見かけたことのない、肌触りが優しい土のカップ。素朴で、けれど洗練された美しさがある。
「――『こーひー』と出会ったこと、かな」
「こーひー?」
「素晴らしい飲み物だよ。あぁ、もう一杯飲みたかったな」
あの素晴らしい香りを思い出して、思わずため息を吐く。
キーランは、そんな私を緑の瞳でじっと見つめて首をかしげた。長い黒髪が、薄暗い部屋では魔術師の黒いローブと一体となり、全身を闇で覆っているように見える。
「きっかけは精霊の気まぐれだろうが、その後も続いているのはお前の魔力によるものだろうな」
「やっぱりそうなのかな」
「人よりもはるかに魔力量が多いわりに、あまり活用できていなかった。よかったじゃないか」
「それは褒められている気がしないなぁ」
「なぜ褒める必要があるんだ」
立ち上がったキーランは、天井まである本棚の中から一冊の本を手に取った。
深緑のそれは金色の箔押しがされていて、だいぶ古いものだ。
「精霊の気まぐれ、と呼ばれるようになったのは何百年も前の話だが、実際に確認されたのはごく最近だ。昨日までいた人物がいなくなるなど、昔はただの事件だと思われていたからな」
「戻ってきた人物が話しても、信じてもらえなかったというからね」
「そう。だが実際に異世界の存在が知られるようになったのは、こちらでは作ることができないようなものを持ち込まれるようになったからだ」
そう言って、緑の本を手渡される。
そこには異世界へ行ったという人物の証言が、年代ごとに分かれて記されていた。
「教会の奥深くに保管されていると言われるその異世界の『モノ』は、普段我々は目にすることができない。こうした文献でしか知らされないが、それでも研究を進めている」
「キーランは見たことがあるの?」
「ない。魔術師団長クラスじゃないと無理だ」
パラパラとめくっていると、最後の方には持ち込まれたという異世界の「モノ」の図が掲載されていた。
「――あぁ、これは見たよ」
「どれだ」
「これ」
いくつか描かれた図の中に、四角い箱にタイヤが付いている乗り物の絵があった。これは「クルマ」だ。
キーランはそれを見て、フン、と鼻を鳴らした。
「馬もいないのに動くわけがない。転移者の観察眼が問われるな。そういうものがあるから、異世界などおとぎ話だ、などという者もいるんだ」
「馬はいないよ。これだけで走るんだ」
「――は?」
「しかも単騎で駆けるよりも早い」
「は?」
「乗せてもらったんだ。女性でも操れるんだよ」
キーランはそこまで聞いて、ぽかんと口を開いた。
彼のこんな表情は珍しい。
「調べよう」
「え」
「ちょうどいい、精霊の気まぐれについては分からないことだらけなんだ。ここに実際に被験者がいて、しかも身元もはっきりした信用のおける人物だ。調べない手はないだろう」
「被験者って言い方はなんだか不穏だな」
「それを脱げ、イサイアス」
「なんで」
「いやならそのカップを渡せ」
「いやだよ」
渋々、あかりが貸してくれたシャツを脱ぐ。このままでいるのも気が引けたので、椅子の背もたれに掛けてあったマントを羽織ると、薬草の香りがした。
(あのカレーの薬草とは違う匂いだな)
たった今、あかりと昼食を食べていたというのに。から揚げも、あの緑色のスープもおいしかった。
(――辛いことを思い出させてしまった)
あかりがときどき話す祖母殿の話は、彼女は気が付いていないかもしれないが、相当辛い出来事のようだった。
話しているときの彼女は淡々としているが、どこか不安定だ。
きっと、お互いを思い合うがゆえに行き違ったのだろうが、それでも彼女は心に傷を負っている。
優しさゆえに、いつまでも胸に祖母殿のことが燻ぶっているのだろう。
(その傷を、表に出させてしまった)
いつも突然の転移でここに戻ってくるが、後悔はさほど感じたことはない。だが、今回は違った。
あの傷に触れたままの彼女を一人、残してしまったことを後悔している。
転移を繰り返すうちに、あの森で、一人で暮らしているという彼女を無意識に考えるようになった。
こちらに戻っても、ときどき思い出すのだ。
彼女のこと、こーひーのこと。そしてそれを考えているときに、気が付くとレタルの扉が開いているのだ。
だが今は、こんなにもあの場所を思い出して考えているというのに、転移できる気配がない。
今、まさにあの瞬間に、何事もなかったように戻りたいのに。
指先を擦り合わせる。じわり、と金色の光が滲む、これは私の魔力だ。
普通は体内を巡っている魔力が、私の場合は過剰なほど溢れていて、意識しないと漏れ出る。
だがこれは、高位魔術者や魔力の高い人間にしか見えないもので、漏れているからと不都合なことがあるわけではないし、ほとんどの人間には見えない。
「――でも、彼女には見えた」
「彼女?」
キーランの反応に、声にしていたことに気が付く。
「女性と会っているのか」
言い方がなにか違う気がするが、間違ってはいない。
「会っているというか、いるんだ。彼女のいる場所にいつも転移する」
「その女性はなにが見えたんだ?」
「私の魔力」
「それは珍しいな。高位魔術士か? 異世界にも魔法があるなんてどこにも書かれていないぞ」
「ないよ。魔法のようなものはあったけど、それは作られたものだったし、彼女に魔力はなかった」
「魔力がない? へぇ、興味深いな」
キーランはバサバサといろんな書物を広げては、シャツを観察している。そして、掌をシャツにかざした彼は「ふむ」と、ひとつ頷いた。
「――魔力を感じる」
「え?」
「いや、魔力とも違うか? 古い、願いのようななにかだ」
そう言って、不意にシャツをふわりと空に浮かべた。
「あっ、待てキーラン、それは……」
気が付いたときにはもう遅く。
あかりが貸してくれた白いシャツは、宙に浮かんで青い炎に包まれた。