「なんてことしてくれるんだ、キーラン……」
宙に浮いて燃え上がったシャツは、跡形もなく消えてしまった。そして後には小さな白い光の粒が残り、すぅっとキーランの掌に吸い寄せられる。
彼は私の言葉など気にする様子もなく、光の粒をじっと観察している。
「ずいぶん古いな。古すぎてよく分からない」
「それは魔力の残滓?」
「どうだろう、魔力とは違うなにかを感じる」
キーランの言葉に、レタルの空気を思い出す。
初めて転移したときから、レタルにはまるで聖域のような澄んだ空気を感じた。なにかに守られているような、聖なるものが存在するような気配。
それはまるで、店を、あかりを守っているようだった。
店全体を離れて見たときに、それは確信に変わった。
レタルは、なにかに守られている、と。
「魔力は分からなかったけど、あの場所はなにかに守られていたよ」
「なにか?」
「うーん、なんて言うのかな……。神聖な感じだよ。具体的な魔法ではなくて、大きくて、すべてを守るような」
特定の誰かを、ということではなく、その場すべてを包み込むように守るなにか。
「なるほど。それは、まじないかもしれないな」
「まじないって、あの古の魔法って言われる?」
「そうだ。精霊や神の力を少しだけ借りて、悪いことが起こらないように願う、昔、民間で流行ったものだ。今では見られなくなったが、昔は広く使われていた守護魔法だ」
守護、という言葉がしっくりきた。
あの店が、守られている。誰かの手によって、まじないをかけられている。
「お前の転移する異世界にも同じようなものがあるんだろうな。これはどうも、こちらの世界のものではない」
「特定できるか?」
「いや、無理だな……少ないし、なにより古い。もう消えてしまいそうだ」
キーランがそう言っている間にも、光の粒は小さく点滅して、やがて静かに消えた。
(――あかりの祖母殿だろうか)
祖父殿かもしれない。
家族を、大切な人を守りたいと願った誰かによって、レタルを守るように願いを込めたのかもしれない。そしてそれは今も聖域のように、あかりを守っているのだ。
(教えてあげたいな。次はいつ行けるだろう)
私がいなくなって、がっかりしていないだろうか。
外へ出てレタルの全景を確認したとき、焦って外に出てきた姿を思い出す。
いつも突然いなくなることを寂しいと思ってくれたのかと、嬉しくなった。
寂しかったか聞くと慌てて否定するところも、かわいらしいと思う。
(初めて会ったときは、子どもかと思った)
黒髪と黒い瞳かと思ったが、明るい日の光の下で見た彼女はやや茶色の髪に琥珀色の瞳をしていた。切れ長で大きな瞳はびっしりと長い睫毛に囲まれていて印象的だ。
化粧っけはなく、料理をするためかいつもシンプルな服装の彼女は、二十一歳という年齢よりも若く見えた。
あんな時間に知らない人間を招き入れるなんて、と、私が言うことではないが、一人で暮らしていると知ってから彼女を心配している。立ち入ったことを聞くべきではないし、私にできることなどほとんどないだろう。
けれど、どうしてもときどき考えてしまう。
今、なにをしているだろう、あの静かな森の中で、一人、なにを考えているのだろうか、と。
「――なんだ、まるで想い人のことを考えているような風情だな」
じっとあかりのことを考えていると、キーランのそんな言葉に我に返った。
「え?」
「魔力がにじみ出ている。なるほど、あちらの世界について強く考えると扉が開くのかもしれないな。でも、戻ってくるのに使ったのだろう、いつもより魔力が少ない」
キーランは一人納得したような顔で私を観察し、手元の紙になにかを記した。
「キーラン、今なんて」
「魔力が減っている。恐らく足りないんだろうな、だから今は転移できない」
違うそこじゃない。
だが、それ以上はなにを言われるか分からないと、そのまま口を噤んだ。
彼の発言は、いつも裏がない。思ったことをそのまま伝えてくるだけだ。
煩わしい駆け引きや、相手を値踏みするような応酬、なにかを探ろうとどん欲にこちらを見つめる目。
私自身が身を置く世界は、人々の猜疑心に溢れている。
だが、キーランは学園時代からの学友で、私という人間を気にしない、魔術にしか興味のない友人だ。
(それは、あかりも同じだ)
初対面の男の怪我を真剣に手当てをしてくれた彼女。
突然の訪問でも、慣れてきたころには笑って受け入れてくれるようになった。
いつも自然で、親切、そして心根の優しい彼女にはなんの下心もない。まっすぐにそのまま、私を見てくれる数少ない人物だ。
その居心地の良さが、私をあの世界へ引き寄せるのかもしれない。
夜会や晩餐会で出会う令嬢たちの視線にうんざりしている私には、レタルはかけがえのない場所なのだ。
立場上仕方ないとはいえ、私に近付いてくる女性は皆、婚約者になりたい、なれと家族に言われている令嬢ばかりだ。
自分が適齢期であることは十分承知しているし、家同士の繋がりや血脈のために必要なことも分かっている。
だが素直に、受け入れられないこともまた事実だ。
今の任務に責任もあり、いつ命を落としてもおかしくないだろう。そんな男を夫に迎える女性はかわいそうだとも思う。
ならば、家同士のためと割り切った女性の方がよほど家のことをうまくやってくれるかもしれない。
(だがそこに、少しだけ……求めてしまう)
夫婦としての関係、ほんの少しでいい、互いへの敬意、そして愛情。
女々しいなどと言われても仕方ないが、もし短い夫婦生活となる可能性があるのなら、せめてその短い期間だけでも、夫婦として絆を深めたいと思ってしまうのだ。
独りよがりの願いだ。
こんなこと、他人に言えるわけがない。
だから今も婚約者はいないし、これからもいないだろう。
「――キーラン、私の魔力を補充したら今すぐ転移できると思うか?」
もう一度指先を擦り合わせてみる。じわりと滲む魔力はいつもより少ないかもしれないが、自分では分からない。
有り余る魔力のお陰で、魔力切れを起こしたことがないので、魔力量の減少がどんな感覚か分からないのだ。
「できるだろうが、緊急時でもないのに回復薬なんて渡せないぞ。そもそもお前に必要ないだろう」
「でも、できるなら目の前で見てみたくないか?」
私の言葉に、彼はぐっと言葉に詰まった。だがすぐに、首を振る。
「――いや、ダメだ。お前が魔力をすり減らしていて転移ができないということは、今そのタイミングではないからだ」
そこでふっと、キーランは表情を和らげた。
「魔術師の好奇心は底知れないが、そのことで世界の調和を崩してはならない。我々はその大切さをよく分かっている。今お前が異世界へ行くことでなにが起こるか、俺はそのことに責任を持てない」
「ふふ、そういうところが、君が私の友人たる所以だよね」
彼の言葉に思わず笑うと、彼は訝しげに眉をしかめた。
「どういう意味だ」
「なにも。そのままだよ」
それでも首をかしげていた彼は、思考を切り替えたのか書物をバサバサと漁り出した。これから研究に没頭するのだろう。
「それじゃあ今後は被験者として、転移したらキーランに報告するよ。私もこのことについて、調査が必要だと思ってるから」
「ぜひそうしてくれ。俺も文献を調べて情報をまとめておこう」
「――報告はどうする?」
「まだだ。分からないことが多すぎる。もう少し調べて、報告が必要か考えよう」
「分かった。助かるよ」
「助かる? なぜ?」
顔を上げずに視線を落としたままの彼に、ぽつりと答える。
「私も、調和を乱したくないからね」
精霊の気まぐれではないのなら、いったいなにか。
転移によって、世界のなにかが乱れる可能性があるのだろうか。
あかりに迷惑がかかるかもしれない。
(それだけはいやだな)
あの、穏やかで美しい世界に暮らす彼女を乱したくはない。
心に傷を負っている彼女は、意識せずその傷を癒そうと、あの場所で懸命に暮らしているのだ。
「あぁ、そうだイサイアス。次に戻ってくるときはなにか持ち帰って来てくれ」
「持ち帰るって、どのタイミングで戻るか分からないのに」
「なんでもいい、さっきの下着のように身に着けていればいいだろう」
「だから下着じゃないんだよ……」
そうだ、あかりから借りた服をだめにしてしまった。
(どうやってお詫びをしたらいいだろう)
次に転移するときのために、彼女へ贈るものを考えよう。あまり高価なものでは受け取ってくれないだろうな。
そう考えながら、手元の空になったカップを見下ろした。
――ああ、もう一杯、こーひーが飲みたかったな。
あの香りを思い出して、私は深くため息を吐いた。