「今日はもう、お客さんは来ないかな」
時刻は十九時。
普段はまだ明るい時間だけれど、朝からずっと分厚い雲に覆われていて、外は薄暗い。
今にも雨が降り出しそうなどんよりした空と、肌で感じる湿度に雨の予感を感じて、今日はもう片付けを始めることにした。
――イサイアスさんが突然消えてから一週間が経った。
珈琲のお代わりが欲しそうな彼に、新しく淹れなおそうとカウンターへ向かい、振り返ったそこに、すぐ後ろにいたはずの彼がいなかったのだ。
(扉を開けたり、くぐったわけでもなかったのに)
小太郎だけが不思議そうな顔でこちらを見上げていた。
「精霊って、気まぐれすぎよね」
一人で声に出してみると、床で横になっている小太郎が顔を上げた。
――祖母のことを誰かに話したことは今までなかった。
話してみて、自分がどう思っていたのか少し分かった気がする。言葉にして初めて、自分の気持ちを客観的に見た気がした。胸に残るわだかまりが、少しだけ晴れた。
(イサイアスさんは、話を聞くのが上手なのよね)
あんな話を聞かせてしまって、凄く申し訳なかったなと思うけれど、彼の程よい距離感と優しさに救われた。
「――次に会えたら、好きなものを作ってあげなくちゃ」
次はいつ会えるだろう。
あんなふうにおいしそうに、幸せな表情で食べる彼に会いたい。
喜んでくれる彼に、会いたい。
ガタン、と外で物音がした。
はっと顔を上げて窓の外を見ると、雨が降り出して風が出ている。強い風に黒板ボードが倒れたのだろう。
「もう片付けちゃおう」
カウンターから出て扉へ向かい、ドアノブに手をかけた途端、いつもの席で寝ていたはずのマルが、突然飛びついてきた。
「きゃ、マル!?」
慌てて抱き留めた私に、マルが小さく「ナァ」と、鳴く。
「ダメだよ、雨だからマルは中で待ってて。ほら、濡れちゃうよ」
それでも離れようとしないマルに、外の様子を見せようと扉を開けると、今度は小太郎が「ワン!」と吠える。
その声に視線を向けると、ぐらりと一瞬だけ眩暈がした。
「――あぶない!」
突然、頭上から大きな声が響いてきた。
(誰!?)
その声に驚いて、慌てて後ろへ下がる。
目の前ぎりぎりを、馬と大きな荷物を積んだ馬車が通り過ぎていった。
雨が降っていて、通り過ぎる際に泥水が体にかかった。夏だと言うのに、その冷たさに、体が震える。
「馬鹿野郎! なにやってんだ!」
馬を操る人物が、振り返りながら怒鳴り声を上げた。馬車は止まることなく、ガラガラと音を立てて立ち去った。
(――
驚いて周囲を見渡すと、そこには見たことのない街並みが広がっていた。
石畳の道に、石造りの建物、見慣れない鉄製の街灯が道を照らしている。
傘をさしている道行く人々の服装も、女性はほとんどが地面まである長いスカートで、男性もジャケット姿の人が多い。そんな彼らが立ち止まり、怪訝な顔で私を見ていることに気が付いた。
自分が往来の真ん中で傘もささずに立っていることに気が付いて、慌てて歩道へ移動する。そんな私を追ってくる人々の視線が痛い。
身を隠せないかと建物の間にある細い路地に移動した。
(なに、どういうこと……? ここはどこ?)
バクバクと心臓がうるさい。
胸に抱きしめたままのマルが身を捩った。雨に濡れるのがいやなのだろう。慌てて着けていたエプロンでマルの身体を包む。
「マル、お願い暴れないで」
腕の中の温もりを縋るように抱きしめると、諦めたのか大人しくなった。
そうだ、小太郎はどうしただろう。外に出ようとしたらマルが突然飛びついてきて、小太郎が突然吠えた。
驚いて、それで……?
扉を開けたら、ここに立っていた。
見知らぬ、ヨーロッパのような街に。
(まさか、もしかして……)
ここは、イサイアスさんの世界……?
私が、異世界に転移したっていうこと?
雨と薄暗い路地ではあまり周囲が見えない。冷たい雨にだんだん体が冷えてくる。
(どうしよう、どうしたら……)
「おい、なにをしている」
突然声をかけられて、顔に光を照らされた。眩しさに目を瞑って顔を逸らす。
「子どもか? こんな時間に一人でなにをしている」
「こんなところで
目の前には、傘を差さずに外套を頭から被った大きな男性が二人、手に懐中電灯のようなものを持って立っている。
暗くて顔はよく見えないけれど、揃いの制服のようなものを着ていた。その姿に、見覚えがある。
(以前、イサイアスさんが着ていた隊服と似てる……。もしかして、騎士の人?)
彼らに助けを求めるべきか考えていると、腕の中で大人しくしていたマルが、暴れ出した。
ぐにぐにと動く布の塊に、騎士たちがぎょっとする。
「なんだ?」
「あ、ね、猫です! 濡れるのを嫌がっているので、それで……」
「見せてみろ」
「あっ、待って!」
腕の中からマルを取り上げられて、慌てて奪い返そうと手を伸ばすと、もう一人に腕を掴まれた。
エプロンをはぎ取られたマルは、フーッ! と唸り声を上げて騎士の手から身を捩って逃れた。そして、そのまま暗い路地へと逃げていった。
「マル!」
追いかけようとしても腕を掴まれて動けない。
どうしよう、こんな知らない土地で、マルが迷子になってしまう!
「お願いです、離してください!」
「ダメだ。お前、家出か? 商売のようには見えんな」
「とりあえず詰め所へ連れて行こう」
「待って、せめてあの子を……!」
騎士たちは私の話など聞く耳を持たず、私の腕を掴んだままその場を後にした。