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第二章 異世界カフェ・レタル

第1話 激しい雨


「今日はもう、お客さんは来ないかな」


 時刻は十九時。

 普段はまだ明るい時間だけれど、朝からずっと分厚い雲に覆われていて、外は薄暗い。

 今にも雨が降り出しそうなどんよりした空と、肌で感じる湿度に雨の予感を感じて、今日はもう片付けを始めることにした。


 ――イサイアスさんが突然消えてから一週間が経った。

 珈琲のお代わりが欲しそうな彼に、新しく淹れなおそうとカウンターへ向かい、振り返ったそこに、すぐ後ろにいたはずの彼がいなかったのだ。


(扉を開けたり、くぐったわけでもなかったのに)


 小太郎だけが不思議そうな顔でこちらを見上げていた。


「精霊って、気まぐれすぎよね」


 一人で声に出してみると、床で横になっている小太郎が顔を上げた。


 ――祖母のことを誰かに話したことは今までなかった。

 話してみて、自分がどう思っていたのか少し分かった気がする。言葉にして初めて、自分の気持ちを客観的に見た気がした。胸に残るわだかまりが、少しだけ晴れた。


(イサイアスさんは、話を聞くのが上手なのよね)


 あんな話を聞かせてしまって、凄く申し訳なかったなと思うけれど、彼の程よい距離感と優しさに救われた。


「――次に会えたら、好きなものを作ってあげなくちゃ」


 次はいつ会えるだろう。

 あんなふうにおいしそうに、幸せな表情で食べる彼に会いたい。

 喜んでくれる彼に、会いたい。


 ガタン、と外で物音がした。

 はっと顔を上げて窓の外を見ると、雨が降り出して風が出ている。強い風に黒板ボードが倒れたのだろう。


「もう片付けちゃおう」


 カウンターから出て扉へ向かい、ドアノブに手をかけた途端、いつもの席で寝ていたはずのマルが、突然飛びついてきた。


「きゃ、マル!?」


 慌てて抱き留めた私に、マルが小さく「ナァ」と、鳴く。


「ダメだよ、雨だからマルは中で待ってて。ほら、濡れちゃうよ」


 それでも離れようとしないマルに、外の様子を見せようと扉を開けると、今度は小太郎が「ワン!」と吠える。

 その声に視線を向けると、ぐらりと一瞬だけ眩暈がした。


「――あぶない!」


 突然、頭上から大きな声が響いてきた。


(誰!?)


 その声に驚いて、慌てて後ろへ下がる。

 目の前ぎりぎりを、馬と大きな荷物を積んだ馬車が通り過ぎていった。

 雨が降っていて、通り過ぎる際に泥水が体にかかった。夏だと言うのに、その冷たさに、体が震える。


「馬鹿野郎! なにやってんだ!」


 馬を操る人物が、振り返りながら怒鳴り声を上げた。馬車は止まることなく、ガラガラと音を立てて立ち去った。


(――?)


 驚いて周囲を見渡すと、そこには見たことのない街並みが広がっていた。

 石畳の道に、石造りの建物、見慣れない鉄製の街灯が道を照らしている。

 傘をさしている道行く人々の服装も、女性はほとんどが地面まである長いスカートで、男性もジャケット姿の人が多い。そんな彼らが立ち止まり、怪訝な顔で私を見ていることに気が付いた。

 自分が往来の真ん中で傘もささずに立っていることに気が付いて、慌てて歩道へ移動する。そんな私を追ってくる人々の視線が痛い。

 身を隠せないかと建物の間にある細い路地に移動した。


(なに、どういうこと……? ここはどこ?)


 バクバクと心臓がうるさい。

 胸に抱きしめたままのマルが身を捩った。雨に濡れるのがいやなのだろう。慌てて着けていたエプロンでマルの身体を包む。


「マル、お願い暴れないで」


 腕の中の温もりを縋るように抱きしめると、諦めたのか大人しくなった。

 そうだ、小太郎はどうしただろう。外に出ようとしたらマルが突然飛びついてきて、小太郎が突然吠えた。

 驚いて、それで……?

 扉を開けたら、ここに立っていた。

 見知らぬ、ヨーロッパのような街に。


(まさか、もしかして……)


 ここは、イサイアスさんの世界……?

 私が、異世界に転移したっていうこと?

 雨と薄暗い路地ではあまり周囲が見えない。冷たい雨にだんだん体が冷えてくる。


(どうしよう、どうしたら……)

「おい、なにをしている」


 突然声をかけられて、顔に光を照らされた。眩しさに目を瞑って顔を逸らす。


「子どもか? こんな時間に一人でなにをしている」

「こんなところでじゃないだろうな」


 目の前には、傘を差さずに外套を頭から被った大きな男性が二人、手に懐中電灯のようなものを持って立っている。

 暗くて顔はよく見えないけれど、揃いの制服のようなものを着ていた。その姿に、見覚えがある。


(以前、イサイアスさんが着ていた隊服と似てる……。もしかして、騎士の人?)


 彼らに助けを求めるべきか考えていると、腕の中で大人しくしていたマルが、暴れ出した。

 ぐにぐにと動く布の塊に、騎士たちがぎょっとする。


「なんだ?」

「あ、ね、猫です! 濡れるのを嫌がっているので、それで……」

「見せてみろ」

「あっ、待って!」


 腕の中からマルを取り上げられて、慌てて奪い返そうと手を伸ばすと、もう一人に腕を掴まれた。

 エプロンをはぎ取られたマルは、フーッ! と唸り声を上げて騎士の手から身を捩って逃れた。そして、そのまま暗い路地へと逃げていった。


「マル!」


 追いかけようとしても腕を掴まれて動けない。

 どうしよう、こんな知らない土地で、マルが迷子になってしまう!


「お願いです、離してください!」

「ダメだ。お前、家出か? 商売のようには見えんな」

「とりあえず詰め所へ連れて行こう」

「待って、せめてあの子を……!」


 騎士たちは私の話など聞く耳を持たず、私の腕を掴んだままその場を後にした。


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