エルセアが世界創造を宣った、その次の瞬間だった。
テーブルの上にある『世界創生地図』に、ぶわっ、と鮮やかな色が広がった。それは、深海の底を思わせるような、とても深く、神秘的な青。
まるでインクを垂らしたように、その青色がゆっくりと、しかし確実に地図全体を侵食していき、みるみるうちに真っ白だった紙面が、一面の深い青に染め上げられた。
「おぉ……なんか、凄いな。色が、青く……」
俺は思わず声に出した。古びたカードゲームで、場のカードの色が変わるのを眺めているような気分だ。
というか、本当にまるで手品のようだった。パッと色が変わる。なるほど、神様のやることはスケールがデカいのか地味なのか、よく分からんな。
地図が完全に青く染まったのを確認して、エルセアは満足そうに頷いた。
「これで『エルノヴァ』の世界は創造されたでちゅ」
「……は? これで終わり?」
俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
終わり? 世界創造が こんな、紙の色が変わっただけで?
随分と呆気ないもんだな! なんて簡単なんだ!もっとこう、雷鳴轟いて、大地が隆起して、光と闇がせめぎ合って……みたいな壮大なイベントがあるもんだと思ったんだが
……拍子抜けにも程がある。ぶっちゃけ、これならエルセア一人でできたんじゃないか?俺のサポート、必要あんのか?
俺がやる気満々で腕組みして待ってたのに、まさか色が変わって終わりとは。
俺が内心でツッコミを連発していると、エルセアは再びパチン、と指を鳴らした。今度は何だ? と思っていると、フワリ、と俺たちの横の空間に、何かが現れた。
それは──扉だった。
突然、何もない真っ白い空間に、一本の扉が出現したのだ。白く、そして無駄に絢爛豪華な装飾が施された、まるでお城の正門にでもありそうな、デカくて立派な扉だ。
壁もなければ、それを支える壁も柱もない。ただ、扉だけが、そこにポツン、と、居心地悪そうに佇んでいる。
「えっと、あの扉は?」
「エルノヴァ世界に行くには、あの扉を通って行くでちゅ」
なるほど、あれが入り口か。
「あの扉はエルノヴァの創造と共に現れたでちゅ。これは神域と世界を繋ぐ唯一の門……言わば『異世界への架け橋』ってやつでちゅ」
へぇ、『異世界への架け橋』ねぇ。なんか、ラノベのタイトルみたいだな。
まあ、名前はどうでもいいか。とにかく、あの扉の向こうに、さっき概念図とやらが青く染まった世界があるってことか。
「さぁ行くでちゅよ!」
エルセアはそう言い放つと、俺の手を掴んで、有無を言わさず立ち上がった。そしてそのまま、細い腕からは想像もできない怪力で、俺の腕をグイグイと引っ張り始めた。
や、止めろ引っ張るな! 思わずよろめきそうになる体を、どうにかこうにか耐える。くそぅ、このクソガキ、見た目と違って化け物みたいな力してやがる!
エルセアは俺の手をグイグイ引っ張ったまま、迷いなく目の前の絢爛豪華な扉へと向かう。
そして、ドアノブに手をかけた。
ギィッ……と重い音を立てて扉が開かれた。そして、その向こうに広がっていたのは──
青。
いや、青というより、深い、深い、闇のような、底なしの空間……。
「え、あ、おい。ちょっ……や、やめろ! 待てって、クソガキ!」
何か、とてつもなく嫌な予感が全身を駆け巡った俺は、必死にエルセアを制止しようとする。
だが、彼女はそんな俺の抵抗など歯牙にもかけない。俺の手を力強く掴んだまま、躊躇なくその闇のような空間に、俺ごと飛び込みんだ──。
「がぼぉっ!?!?」
体が、尋常じゃない水圧に締め付けられる。肺から、無理やり空気が押し出される感覚。
く、苦しい! 息が、息ができねぇ!
なんだこれは!?どうなってやがる!?俺は溺れてるのか!?ここはどこなんだ!?
「がぼ……ごぼぼぼぼぼぼ!!」
上も下も分からない。ただただ、深い、深い青……いや、黒に近い闇が広がっているだけだ。光なんて一切届かない。
このままだと肺が潰れるか、窒息死だ!
「……!?」
その中で、俺は必死にもがきながら、ふと目の前の光景に気が付いた。
エルセアが、闇の中で、ぷかぷかと浮いている。
しかも、全く苦しそうじゃない。水を得た魚のように、いや神だから水なんて関係ないのか。
とにかく、平然と、まるで公園を散歩でもしているかのように、悠然と浮いている。そして、何かを考え込んでいる様子だ。
「う~ん、この辺りに生命の元をばら撒くでちゅかねぇ。でもちょっと水圧と水温が低すぎるでちゅ……」
……あぁ。なるほど。そういうことか。
──ここは、海の底だ。
つまり、あの地図が青く染まったのは、この世界の『海』ができたってことか。
そして、この幼児は、出来立てホヤホヤの世界の、海のド真ん中、それも深淵に、水着も何もなしで、いきなり俺様を突き落としやがったってことか。
なるほどね。これは流石の俺も予想出来なかったぜ。ふふ……。
「がぼぉおおおっ……!!! ごぼぼぼぼぼ!!!」
もはや言葉にならない悲鳴を上げながら、俺は必死に水面を目指してもがく。だが、水圧が凄すぎて体が動かない。
このままでは本当に溺死だ!神様のジジィは、俺様を清廉潔白な聖人って言ってくれたくせに、こんな理不尽な死に方をさせるのか!?
そんな俺の様子を見て、エルセアはまるで面白いモノでも発見したかのように、首を傾げた。
「ん? なに、そんなに見苦しくもがいて苦しそうにしてるでちゅか?」
テメェのせぇだろうが!!
「あのさぁ……見苦しい顔がもっと見苦しくなるから、そういうの割とマジでやめて欲しいでちゅ」
なんだと? この期に及んで、俺様のイケメン面が崩れるのを気にしてんのか? いや違うな。ただ単に、不快だからやめろって言ってるだけだ。
神様の美意識は俺とちょっとズレてるらしい。そして、全く悪びれる様子がない。ナチュラルド外道すぎるだろ、このガキ。
「がぼぉ……!! (くそっ……! ぶっ殺してやる……!!)」
俺は、水と怒りを一緒に飲み込みながら、心の中でド外道幼児に誓った。
この屈辱、絶対に忘れねぇぞ。お前を、神だろうがなんだろうが、いつか必ず、このド腐れ天使様が地獄の底まで叩き落としてやる……!
生涯、海の底に沈めてやる……!
──俺が、窒息寸前の状態からようやく神域という名の安全地帯に戻って来れたのは、それから優に数十分は経過してからだった。
あのド外道幼児、海の底の地形を見ては「う~ん、なんかイマイチでちゅねぇ」とか「ここはもうちょっとこう……なんていうか、違うんでちゅよなぁ」とかブツブツ言いながら、全然場所を決めやしない。
おかげでこっちはずっと水の中でゲコゲコしてたんだぞ。
「げほっ! げほっ! ゲホゴホッ!」
固形物も出てきそうな勢いで咳き込みながら、肺に酸素を取り込む。あぁ、空気が美味い!神域とやらに空気が存在するのか分からないが、生き返った心地だ。
ていうか、普通、海の底から戻ってきたら身体中濡れてそうだが、俺の服は一切濡れてねぇ。天使補正か?なら海でも溺れさせるな。
そして、息を整えるのもそこそこに、目の前で涼しい顔をしている元凶を、この世のありったけの憎しみを込めて睨みつけた。
「おいコラ、ド外道幼児!! いきなり人の手ぇ引っ張っていきなり海のど真ん中に放り込みやがって、テメェ本気で殺す気だったのか!!」
俺の、怒りと恐怖が入り混じった叫びを聞いて、エルセアはまるで今思い出したかのように、気の抜けた声を上げた。
「ん~?……あぁ、そうか」
そして、俺を観察するようにジロリと見つめる。
「お前、まだ天使になりたてだから、少し人間の虚弱な部分が残ってたでちゅね。呼吸とか、水圧への耐性とか」
……なんだ、その悠長な分析は?
神様はお前が補佐をできるか心配してたが、俺はテメェが神としてまともに機能するのか心配になってきたぞ。
そして、エルセアは俺の言葉を肯定する、とんでもない一言を放った。
「あ、そうか。なるほど。それを利用すれば、手っ取り早く始末できたでちゅか。でも、もう適応したみたいでちゅね。残念。遅かったか……チッ」
なんだそのナチュラルボーンサイコパスっぷりは。こいつ、マジで俺のこと始末しようとしてたの?
もう神じゃなくて、深淵に住まう邪神の幼体にしか見えねぇよ。まぁ似たようなもんなんだろうな
俺が怒りで全身を震わせていると、エルセアは「まぁいいでちゅ」と、またしても興味を失ったかのように話題を切り上げた。
そして、何をするかと思えば、俺の目を真正面から、グイ、と顔を近づけて覗き込んできた
その碧い瞳には、先ほどの殺意は消え失せ、代わりに、神としての歪んだ威厳のようなものが宿っている。
そして、さも有り難いお言葉とでも言うかのように、宣った。
「いいでちゅか? お前はこれから、ワタチの補佐として働く天使なんでちゅから、もっと天使らしく、清く正しく美しく、そして強くありなさい」
そして、ドヤ顔で締めくくる。
「これはエルセア様からの、ありがた〜いお言葉でちゅよ? 感謝するでちゅ」
「うぜぇ……」
俺は、もはや抵抗する気力も失せ、げんなりした声で、誰に聞かせるともなく呟いた
てめぇにだけは言われたくねぇよ、そんな綺麗事。清く正しく美しく強く?テメェはどこが該当するんだ?、このド外道が。
さっきまで平然と他人を溺死させようとしてた奴の台詞じゃねぇだろ。
ああ、もうダメだ。このクソガキ……いや、ド外道女神相手にしてると、物理的な苦痛だけでなく、精神的な疲労が半端ねぇ。
なんだか、前世で一番ヤバい取引相手と徹夜で交渉した後のような疲労感だ。寿命が縮みそうだ。……あぁ、もう死んでたか、俺は。
俺はご満悦のエルセアを見ながら心の中で、そう悪態を吐いたのだった。