神域と世界を繋ぐ『異世界への架け橋』を潜った、その瞬間。
「お……おぉ……!なんて綺麗な世界なんだ……!」
俺の目の前に広がったのは──息を呑むほどに、美しく、そして雄大な光景だった。
青い……どこまでも続く、抜けるような青い空。そこには、絵に描いたようにのどかな白い雲が浮かんでいる。
遥か彼方、地平線の彼方まで、広がる雄大な大地。新鮮な、美味い空気が肺を満たす。
ああ、これだ。これこそが、俺が創りたかった世界!
そして俺のような聖人に相応しい、美しく、平和な世界だ!
「ん……?」
──と、思った、次の瞬間。
俺の視界の端に、およそその美しい光景に似つかわしくない、とある光景が飛び込んできた。
「──!?」
そこで見たのは。
大量のドラゴンと巨人の群れが、文字通り、殺し合っている光景であった──。
「えっ……えっ?」
俺の目の前に広がるのは、あまりにも凄惨な光景だった。それはまるで、血と炎と絶叫で描かれた、狂気に満ちた壮大な歴史絵巻……。
ただし、それはただの記録ではなく、現在進行形で行われている。
「グォォォ!!!」
ドラゴンの、刃物のように鋭い爪がキラリ、と光る度に、巨人の肉片が音を立てて宙を舞う。
巨人の巨大な拳が振り下ろされる度に、ドラゴンの分厚い骨が、嫌な音を立てて砕けるのが響く。
ブレスの炎が大地を焼き、悲鳴と咆哮が、美しかったはずの空気を切り裂く。
「……」
そこに『物語』なんて、欠片もなかった。あるのはただ、破壊と殺戮だけだ。
知性も理性もなく、ただ衝動のままに互いを排除しようとする、生まれたての獣たちの争いだ。
──ああ、そうか。エルセアは粘土みたいにこねくり回して、こいつらを作ってたな。
きっと、形だけ創って、ロクに知性も社会性も、そして生きる目的も与えなかったんだ。
ただ強い力だけを与えられた意思疎通もできない赤ん坊たちが、持て余した力で──
幼稚園児のお遊戯会で、役も筋書きも分からず、ただ衝動のままにお互いを八つ裂きにしているんだ──
その光景を見て、俺は思わず、声にならない悲鳴を上げた。
「やだ……なにこれ……」
これが……俺が、熱く語った、色んな種族が織りなす、壮大で面白いファンタジー世界の、最初の姿なのか?
血と肉片と絶叫と咆哮しかねぇ、混沌とした地獄絵図が?
グロテスクな肉屋の店先に迷い込んだんじゃねぇよな?
あまりの光景に、吐きそうになった。
その時、俺の頭の中で、先ほどエルセアが言っていた言葉が、エコーのように木霊した。
『誕生したばっかの生命体なんて、面倒くさいだけでちゅからねぇ』
『面倒くさいだけでちゅからねぇ』
『でちゅからねぇ』
……あぁ。なるほど。そういうことか。
この、何もかも理解した瞬間の絶望感。
エルセアは、最初からこの光景が見えていたんだ。だから「面倒くさい」と言ったんだ。
物語を生むどころか、ただ殺し合うだけの、文字通り『混沌』しか生み出さないであろう、生まれたての生命体たち。
それは俺を絶望の淵に追いやるのには、十分な光景であった。
そうして、俺が立ち尽くしていた、その時。
「ぎゃぎゃおー!!!」
凄まじい咆哮が、俺の耳を劈いた。見ると、一体の巨大な……茶色っぽい、鱗に覆われた、俺がさっき要望したドラゴンが、血に濡れた顎から肉片をぶら下げながら、俺の方を向いていた。
周りの仲間(?)を蹴散らして、俺だけに視線を定めている。
燃えるような紅い瞳には、一切の知性や物語など宿っておらず、あるのはただ、純粋な闘争本能と破壊衝動だけだ。
その目は、まるで「お前、そこに突っ立ってねぇで、こっちの楽しい殺し合いに早く混ざれよ!」とでも言っているかのように、俺を挑発している……。
そして、巨大な顎がカパッと開き、ゴオオオオ、という不気味な音と共に、喉の奥でオレンジ色の、灼熱の光が、禍々しく踊り始めた。
(へぇ~、あれか。噂に聞く、ファンタジー世界の代名詞たる、ドラゴンブレスってやつか。初めて実物を見たぜ。ヤベェけど……ちょっと、カッコイイね)
……なんて思っている場合じゃねぇ!!!
あれは間違いなく、俺の命を奪う攻撃だ!このままでは、文字通り灰になってしまう!
「ま、待て! 待て待て待て!待つんだドラゴンさん!!落ち着け!ストップだ!冷静になるんだ!」
俺は必死に訴える。
「俺は! 俺は、お前たちを創った、神様……の補佐なんだぞ!?神の代理人だぞ!?言わば、お前たちの親だ!」
頼む、聞いてくれ!俺はただの通りすがりだ!
面白いファンタジー世界が見たくて来ただけなんだ!親子で殺し合いなんて、倫理的におかしいだろうが!
「親を殺すなんて、とんでもないことだ!それは重罪だ!神殺し、親殺しは、どの世界の法律でも、きっと重罪だぞ!そんなことしたら、お前たちの経歴に傷がつくだけだ!後でエルセアに怒られるぞ!やめてくれ!」
しかし俺の必死の懇願も、命乞いも、どこかの法律を持ち出した脅迫も、ドラゴンの闘争しか知らない耳には一切届かなかったらしい。
創造主だの親だの重罪だの、そんな概念は生まれたばかりの彼らには理解できないのだ。
「グオオオオオオッッッ!!!」
灼熱の、純粋な破壊の炎がドラゴンの口から一点の迷いもなく俺に向かって放たれた。
地面を焼き、空気を焦がし、全てを消し炭にする炎の奔流が瞬時に俺を包み込んだ。
「うぎゃあああ!!!」
凄まじい熱。肌が、肉が、骨が、一瞬にして炭になる感覚。
痛み、というよりも先に、「ああ、なるほど。これが、全身を焼かれて死ぬ、ってやつなのか」という、奇妙に冷静な感想が、思考回路が焼き切れる寸前の脳裏に浮かんだ。
どこか遠い場所で、他人事を見ているような感覚だ。
「ごべぇぇぇぇん゛!お゛れ゛ぇ゛、ご、ごろざれだぐないぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
魂が焼き尽くされる激痛の中で俺は意味不明な叫びを上げた。
純粋な「死にたくない!」という断末魔だ。
意識が朦朧とする中で、最後の抵抗として魂の叫びを世界に放った。
そんな俺の、魂の底からの人語ですらない叫びを奇跡的に運命が聞き取ったのか。
それともただの偶然、気まぐれ、あるいは新しい獲物を見つけただけだったのか。
「ぐぎゃお……!?」
──ドラゴンの、断末魔にも似た奇妙な悲鳴が響いた、次の瞬間。
血と肉片が舞う戦場の片隅で、一体の巨大な影が動いた。それは、俺が要望した巨人だった。
巨人の、山のような拳が振り下ろされ、ドラゴンの首が、グニャリ、と嫌な音を立てて刎ねられた。
ドラゴンは、首のないまま、ゴオオオオ、と最期の炎を吐き出し、崩れ落ちていった。
その燃え尽きかけの炎が、炭になりかけの俺の体に降りかかる。熱い、まだ熱いぞ!
(おぉ……!奇跡だ!なんという親思いの種族なんだ、巨人は……!)
邪悪なドラゴンから俺を助けてくれたのか……!? 感動で、全身の炭になりかけの毛穴が震える。
そうだ、そうに違いない。俺を親だと認識しているんだ!
やはり、人類に似ているからか。体格は規格外でも、心には『情』というものがあるらしい。
素晴らしい!これこそ、俺様が創りたかった生命体だ!よしよし、巨人ども、お前らは合格だ!
それに比べて、やはりドラゴンはクソ下等生物だな。創造主たる俺様を躊躇なく焼き殺そうとするなんて。
さっきエルセアが「単なる巨大な爬虫類」って言ってたけど、まさにその通りだ。知性なんて欠片もねぇ。ただの暴力装置だ。クソ爬虫類めが!
後でエルセアに言って、ドラゴンという種族は絶滅させておこう。害悪でしかない。世界創造に失敗した欠陥生物だ。
世界創造の補佐官たる大天使様を焼き尽くした罪は万死に値するぞ、ゴミ爬虫類如きが。
俺が、焼かれた痛みと巨人の親思いに感動しながら、そんな物騒な復讐計画を練っていると、いつの間にか、一体の巨人が俺の目の前に立っていた。
先ほどドラゴンを刎ねた奴だろうか。
「……」
巨大な影が俺の上に覆いかぶさる。ゴォ……ゴォ……と、まるで嵐のような巨体の呼吸音が、焦げ付いた俺の耳に響く。
その巨体が動くたびに、地面がドォン、ドォン、と地震のように振動が伝わってくる。 ああ、地面にいるんだな俺。焼き焦げてるけど。
きっとこいつは、俺を助けてくれた後、無事かどうか確認しに来てくれたんだ。なんて優しい奴なんだ。 創った甲斐があったというものだ。
俺は感動した。胸が熱くなる。思わず、巨人の優しい心に触れて、涙を流そうとしたが……。
目玉が、綺麗に蒸発していたので無理だった。
(あぁ……そういえば、全身焼かれたんだっけ……)
涙腺どころか、それを構成する部品自体が、綺麗に炭化して崩れ落ちていたらしい。
目玉が蒸発した跡から、焼けた肉と、血とも分からない体液が混じった液体が流れ落ちる。
全身は炭化し、動くことすらままならない。だが、意識だけはまだある。そして、目の前には、俺を助けてくれた優しい巨人がいる……ような気配がする。
俺は、感謝の気持ちを伝えようと、必死に声帯を震わせた。
焼け爛れて、原型を留めていない声帯が、ゴロゴロ、ゴロゴロ、と喉の奥で音を立てる。
「あ゛……! あ゛あ゛! あ゛あ゛、あ゛あ゛あ゛! (あ、あ、ありがとう! ありがとう、巨人さん!助けてくれて……ありがとう!)」
多分、人間が聞いたら、ただの異音にしか聞こえないだろう。だが、きっと、この優しき巨人なら、俺の魂からの感謝の叫びを、拾い上げてくれるはずだ。
そうだ。言葉なんて必要ない。心は通じ合うんだ。巨人には『情』があるんだから!
俺が、焼かれた身体の痛みに耐えながら、巨人からの理解を信じていた、その時。
「ガアァァ!!!」
突然、巨人が、天を衝くかのような、凄まじい咆哮を上げた。
なんだ? 俺の感謝が伝わったか? 喜びの雄叫びか? それとも、勝利の咆哮か?
ああ、きっと、この優しき巨人は、俺という存在を救えたことに、感動しているんだ!なんて健気なんだ!
(よし、生き残ったし、巨人族という味方もできたぞ! 今度はこいつらと協力して、ファンタジー世界を創り直してやる! ドラゴン? あんなクソ下等生物、巨人に任せて殲滅させればいい!この優しい巨人たちと、平和なエルノヴァ世界を創るんだ!)
俺は、そんなポジティブな未来を描き始めた。優しき巨人に見守られながら。
そんな甘い幻想を抱いていた、次の瞬間。
巨人の大地を揺るがす巨大な足が。何の躊躇もなく。
──俺という存在めがけて、真上から降り注いできた。
「え゛?」
俺の、最後の、間抜けな疑問の声が響いた、その直後。
パリッ、グシャッと。
俺の体は、文字通り、木っ端微塵になった。
骨も、肉も、内臓も、脳味噌も、魂すらも。
全てが巨人の足の裏に、見るも無残に張り付き、消滅した。跡形もなく。
静寂がその場を包み込んだ。
エルノヴァ世界は、たった今一人の天使……いや、元詐欺師の存在が無残に踏み潰されて消滅したことなど気にも留めていない。
世界は何事もなかったかのように、再び動き出した。
狂乱の殺し合いは、まだ続いている。
血と炎に彩られた大地の上で……。