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第2話 天災

 雨脚が弱まり始めたのは、空が完全に暗くなってからだった。

 当然ながら月明かりなんて物はなく、こんな場所ではスマートフォンのライト機能も頼りない。

 雨風に揺らされる木々の鳴き声と相変わらずの雷鳴ばかりが耳に入り、自分の足音すらあまり聞こえない。


 そんな中、私達は原生林の中を必死に駆けていた。

 なぜあえて夜に、それもまだ雨が止まない内に移動を始めたのかというと──


「宮沢、急いで……!」


 数歩前を走る遊馬さんにそう言われても、私は返事どころか頷くこともできない。

 濡れた落葉の上は滑る、泥濘んだ地面に足を取られる、木々の根上がりに躓くこともある。

 最早、前に走ることだけに精一杯だった。


 私達は現在、背後から迫り来る原因不明の脅威から逃げている。


「後ろ見ないで!」


 不意にそう言葉を投げかけられて、私は意識を正面に戻す。


 そう、原因不明。全くもって分からない。

 どんな相手で、何をしてくるのか、そしてどんな脅威なのかも分かってない。


 ただ、雨雲の向こうで月が昇り始めた頃に、私達が居た大木の樹洞が突如として崩れ始めたのだ。

 慌てて樹洞の外に出ると、周辺ではいくつもの木々が突風に薙ぎ倒されていった。


 流石に身の危険を感じて、一先ず突風から逃げる様に駆け出した。


 そうして、私と遊馬さんはかれこれ一時間近く森の中を走っているのだが、雨も風も謎の脅威からも逃げられる気がしない。

 ずっと、私達を追ってきている。


  今こうして走っているそのすぐ後ろでも、前触れもなく突然樹木が倒されていく。


 この足場の悪い中で、転ばないようにと気を使うだけでも精一杯。それどころか、インドア派な私にとっては小一時間走るだけでも心身ともに限界だと言うのに。

 加えてローファーの靴擦れが酷く、痛みで今にも立ち止まりそうだった。

 そもそも走るための靴じゃないのに、こんな場所を何十分も駆け回っていたら靴擦れ以外の原因で足が痛くなってもおかしくはないくらいだ。


 それでも、立ち止まれない。

 私たちを突き動かすのは、未知故の純粋な恐怖だった。


 不意に、前を走っていた遊馬さんが足を止めた。


「……とまっ、た?」


 そう言いながら振り向く彼女のすぐ隣で私も立ち止まり、乱れ切った呼吸を整える。

 私より早く走っていた筈の遊馬さんは、軽い息切れ程度でまだ余裕のある顔をしていた。

 そんな様子の彼女を見て思わず俯き、遊馬さんの泥に塗れたスニーカーに目を落としながら、ゆっくりと息を吸った。


「……っ……。ダメだ、また雨が強くなって来た」

「けほっ、はあ……。ふう……。多分、この森、というか、あの浜辺から……この周辺にかけては、そう言う気候の、はぁ……。土地なんだと思う。植物の育ち方とか、形態からして」

「宮沢、見てわかるの、それ?」

「今はまだ涼しい方だけど、典型的な熱帯多雨林。だから、この辺りは──」


 私の言葉は途中から、急激に強くなった雨脚と強風に吹き飛ばされた。


  すぐ近くにあった木々が、根本から大地を割って宙へと浮き上がりそうになるほどの強風で、私と遊馬さんは咄嗟に地面に這いつくばるしか出来なかった。


 ゴオオオオオオオ!!! と耳障りに鳴り響く風音に互いの声も聞こえず。


 体に当たっているのが雨なのか巻き上がった土や木枝なのかも分からない程で、体中に痛みが走る。


 こんな状況では視覚も機能せず、目を強く閉じる事しか出来ない。


 しばらく体が浮き上がりそうになるのを必死に耐えていると、ほんの少しだけ風が弱まった気がした。


 瞼に物が当たらない事を確認してから、目を開けてすぐに周辺を見回す。

 遊馬さんはすぐ隣に居る。

 木々は吹き飛びこそしなかったものの、森とは言えぬほどに荒れ切っていた。


 そして、少し開けた視界の中、天空を飛び回る……その姿を見た。


「……なに、あれ?」


 微かに聞こえたのは遊馬さんの声だった。

 どうやら、私と同じ物を目にした様だ。


 その姿を隠していた木々は強風によって薙ぎ倒され、今では酷い悪天候の空も見える。


 目測でも一キロメートルに満たない上空、そこには嵐と稲妻を身に纏って黒雲の中を飛翔する生物が頂け。


「龍……とか?」


 自分でそう口にしてから、その簡単な単語が如何に現実味の無い物だったのかを実感した。

  具体的な大きさや色は、ここからではハッキリ確認するのは難しい。

 ただ、それは誰がどう見ても、神話や伝説に語られる龍という存在そのものだった。


 ふと耳に入って来たのは、あの大木の樹洞から出る少し前に聞いた、耳障りな咆哮。

 それが龍の鳴き声であったことに、今になって気付いた。


 現実味のないその存在をぼんやりと見ていると、私は自分でも何を思ったのか分からないが、スマートフォンを取り出してその姿を写真に収めた。


「えっ……と。これ、さ」


 大きな黒雲の中でグネグネしてる様にしか見えないが、稲光を反射する姿によって、かろうじてその存在を確認できる。

 少しずつ、その雲が遠ざかっていく事だけは確認できる。


「もしかしてあの龍、ただ私たちの上を通っただけ……?」


 遊馬さんがそんな呟きを零しながら、ゆっくりと立ち上がった。

 あの龍と黒雲が離れていくと、私も立ち上がれる程度には天候も落ち着いていた。


「……上を通っただけで……これ?」


 原生林の状態は、ほぼ壊滅と言って良い。

 時々、血生臭い匂いが鼻を突く事から、近くで何かの動物がこの災害に巻き込まれて怪我したか、もしくは命を落としたか。


 どちらにせよ、私達が追われていると思っていたのは、あの龍と黒雲が生む嵐だったという事だ。


「逃げるんじゃなくて、横に逸れるのが正解だったかな……」


 呟き、私も震える足で立ち上がった。

 雨はまだ降り続いている。

 風も決して弱くない、雷の音もまだ聞こえてくる。


「……痛っ」


 不意に遊馬さんが呟いた。


「一応、見せて」


 私も、体のどこかしらは痛みがあったのだが、どうやら遊馬さんは左脇腹の辺りに強い痛みを覚えた様だ。

 何かぶつかったのだろうか。服をめくって見ても、暗くてよく分からない。

 手に持っていたスマホの明かりで、彼女の腹部を照らすと、そこには痣が残っていた。

 何かがぶつかった様な跡、と言うよりそれは──


「龍の……紋章?みたいな跡」

「えっ、なにこれ……。入れ墨みたいになってる」


 その痣はまるで、灰色の龍が描かれているかの様だった。


「ダッサ、最悪……絶対、あの龍の仕業だ」

「えっと。私の方には何も無いよ、遊馬さんだけみたい」

「もしかして追われてたのって、私?」

「そう、かも……?」


 もしそうだとしたら私は本当にただ巻き込まれただけになるのだが。


「とりあえず、血が出たりはしてないけど、どうする?」

「ん、ちょっと痛いだけだし、一旦は気にしない事にしておく。それより、流石に移動を……」

「するにしても、私達ボロボロだよ? この暗がりだから、あんまり動き過ぎるのも良くない」


 かと言って、移動しない訳にも行かないのは事実だ。

 嵐は少し落ち着きを取り戻したものの、未だ雨風に打たれている事に変わりはなく、これらを避けるか、せめて凌げる場所には行かなくては体が保たないだろう。


「それもそう。こんな状況だから、動物も大人しくしてるだろうけど……」


 ピシャッ、と遠くで稲妻が遊んでいる。見てるだけで色々と億劫になりそうだ。


「流石に嵐からは離れた方が良い」

「それも、そうだね……。なら、ビーチの方に、来た道を戻ろう。あっちはもう、雨が止んでる筈だから」


 頷き合い、体中の痛みに耐えながら足を進める。

 雨が過ぎたのを確認できたから、わざわざ走る必要はない。

 龍が通った後は、強風に煽られた木々が軒並み寝転んでしまっているので、視界が開けていた。


 十数分歩けば、雲が過ぎ去ったからか月明かりが見え始めた。


 そんな不安定な空模様に苦笑いを浮かべた遊馬さんが、ぽつりと呟いた。


「私、家に居るの嫌いだったけど……今は物凄く帰りたい」

「家族と、仲悪いの?」

「そんなところ」

「……同じだ。私も、家族と仲悪い」


 でも、今はそんなのがどうでも良くなるくらいに、家に帰りたい。


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