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第12話

魔王城の中庭で、アリア姫とボロク将軍が、か細いながらも確かな希望の光を見出そうとしていた、その前に話は遡る──


マルバス公爵が遺した広大な領土の、端に位置する古都シルヴァニア近郊では、既に新たな戦端が、血飛沫と共に開かれようとしていた。

鉄と、血と、そして野獣の咆哮とが支配する、原始の闘争の幕が──。




♢   ♢   ♢




「グハハハハ!弱い、弱いぞ雑魚どもが!これで終わりかァ!?」


マルバス公爵領南部のかつては豊かだったであろう農村は、赤黒い炎と黒煙に包まれ、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

村の簡素な木柵など存在しないかのように蹴散らされ、家々は巨大な獣の爪で引き裂かれ、力任せに振り下ろされる戦棍によって粉々に砕け散っている。

その破壊の先頭に立って笑うのは、二本角を持つ、獣人の戦士だ。彼は、獣王グロム率いる赤牙戦団の小隊長の一人で、その手にした血塗れの戦斧が、先ほどまで抵抗していた村の自警団員だった者たちの末路を物語っていた。


「隊長!もうこの村には、めぼしいモンも、歯ごたえのあるヤツもいねぇみてぇですぜ!」


狼のような顔つきの、身軽な獣人兵が、略奪した酒樽を担ぎながら報告に来る。


「ちっ、張りがねえな!だがグロム様のご命令だ!『目につくものは全て喰らい尽くせ』ってなな!次だ、次の村へ行くぞ! あのデブマルバスが溜め込んでいた財宝も、美味そうな女子供も、あの肥沃な土地も、全て俺らのもんだ……!」


小隊長がそう叫ぶと、周囲で略奪の限りを尽くしていた他の獣人兵や、彼らに使役される獰猛な魔獣たちが、一斉に野蛮な雄叫びを上げた。


彼らは、マルバス公爵の死という報せを、グロムの元でいち早く掴んだ。

そして、他のどの勢力よりも迅速に、この空白となった豊穣の地へと雪崩れ込んできたのだ。

彼らにとって、この継承戦とは、すなわち「狩り場」の拡大に他ならない。複雑な戦略も、大義名分も不要。

ただ、本能の赴くままに暴れ、奪い、そして喰らう。それこそが、彼らが信奉する「力」の証明であり、獣王グロムが示す唯一の道だった。


「ヒャッハハハハ!食い放題だぜぇ!」

「この酒は上物だ! いいモン隠してたじゃねえか!」

「女はどこだぁ……?子供でもいいぞ、子供の肉はうめぇからなぁ……!ぎゃひひひひ……!!」


獣人兵たちは、壊れた家々から食料や酒、そして金目の物を漁り、抵抗する者は容赦なくその爪牙にかける。

幼い子供の泣き叫ぶ声、女たちの悲鳴、そして獣たちの咆哮が混じり合い、世界の終末のような光景が広がっていた。


──赤牙戦団の野蛮な進撃を阻むものは、何もない。


そして、目につくものを悉く蹂躙しながら、彼らは、次なる獲物──マルバス公爵領でも有数の規模と歴史を誇る大都市、「古都シルヴァニア」へと、その血塗られた牙を剥き、破壊の進路を定めたのであった。

シルヴァニアの壮麗な城壁や、その内に眠るであろう莫大な富を遠望し、彼らの血のように赤い瞳は、既に次の略奪への期待に爛々と輝いていた。


「殺せ!殺せ!抵抗する奴は殺せ!抵抗しなくても、殺せ!食らい尽くせ……!ぎひひひ!!」


街道には、彼らが通り過ぎた後には徹底的な蹂躙の跡が続く。

荷馬車はひっくり返され、家々は燃え落ち、抵抗した者は無残な骸と化して路傍に転がっていた。


「ヒャッハァ!見えてきたぜ、シルヴァニアだ!あのデカい街なら、さぞかし美味い酒と女、そして金銀財宝が唸ってるに違いねぇ!」


赤牙戦団の先頭を駆ける、獣人兵が、舌なめずりをしながら叫ぶ。

その先には、広大な平原の向こうに、幾重にも巡らされた高い城壁と、その内側に林立する壮麗な塔を持つ、古都シルヴァニアの威容が見え始めていた。

魔界でも有数の歴史を持つその都市は、豊かな文化と商業の中心地として知られ、その城壁は難攻不落と謳われていた。

だが、今の赤牙戦団の獣人たちにとって、それはただの、より大きな獲物、より多くの略奪品が眠る場所にしか見えていないのだ──。




♢   ♢   ♢




古都シルヴァニアの城壁の内側は、かつてないほどの緊張と、そして絶望に近い悲壮感に包まれていた。

マルバス公爵の突然の死と、それに続く赤牙戦団の急速な南下。その報せは、シルヴァニアの民を恐怖のどん底に突き落とした。


「門を固めろ! 投石器の準備を急げ! 女子供は地下へ避難させろ!」


シルヴァニアの防衛を一手に引き受けることになった、マルバス公爵家に長年仕えてきた老騎士団長が、嗄れた声で必死に指示を飛ばしている。

城壁の上には、数こそ少ないものの、最後まで都市と共に戦うことを選んだ公爵家の騎士たちや、都市の民兵、そして自らの家と家族を守るために武器を取った市民たちが、固唾を飲んで迫りくる脅威を見据えている。


「団長……!斥候からの報告です。敵の先鋒、およそ五千! 後続も合わせれば、数万は下らないかと……!」


若い騎士が、蒼白な顔で報告する。


「うろたえるな! 我らにはこのシルヴァニアの城壁がある!そして何より、守るべき民がいる!ヴァレリウス陛下も、公爵閣下も、この地を愛しておられたのだ!その誇りを、あの蛮族どもに好きにさせてなるものか!」


老騎士団長は、自らを鼓舞するように叫ぶ。

だが、その声には、圧倒的な戦力差に対する悲壮な覚悟が滲んでいた。


「各隊、持ち場を死守せよ!弓隊、構え!敵が射程に入り次第、一斉射だ!」


平原の彼方から土煙を上げながら迫りくる、赤牙戦団のおびただしい数の軍勢。それは、地を覆い尽くさんとする、赤黒い津波。

古都シルヴァニアの、長く平和に慣れ親しんだ魔族たちにとって、それはあまりにも絶望的な光景。しかし、彼らは武器を構え、震える手で弓を引き絞り、あるいは槍を握りしめた。


迫りくる赤牙戦団に対し、シルヴァニアの城壁から、ついに抵抗の矢が放たれた。


「放てぇっ!」


老騎士団長の号令が、城壁に響き渡る。

その声に応じ、無数の矢が雨のように赤牙戦団の先頭集団へと降り注いだ。獣人兵たちは、その多くを毛皮や粗末な盾で弾き、あるいは素早い動きで回避するが、それでも何人かは短い呻き声を上げて大地に倒れ伏す。


「怯むな! あの壁をブチ破り、中の肉を喰らい尽くせ!」


赤牙戦団の小隊長格の魔獣人が、巨大な戦斧を振り回しながら咆哮する。


「「「グオオオオオッ!!」」」


獣人たちの鬨の声が、シルヴァニアの城壁を揺るがさんばかりに響き渡り、彼らは鬨の勢いのまま、城門や手薄に見える城壁部分へと殺到した。

簡素な攻城梯子が次々とかけられ、鉤爪を立てて壁をよじ登ろうとする獣人も現れる。


だが、シルヴァニアの抵抗は、彼らが蹂躙してきた村々とは違っていた。


「今だ! 熱湯を浴びせかけろ!」

「火矢の用意! 奴らの毛皮を焼き払え!」


城壁の上からは、煮えたぎる油や熱湯が雨のように降り注ぎ、攻城梯子に取り付いた獣人兵たちを悲鳴と共に地上へ叩き落とす。火矢は、乾燥した獣人たちの毛皮や、彼らが持ち込んだ粗末な木製の兵器に次々と燃え移った。


「くそっ、こいつら、思ったより歯ごたえがあるじゃねえか!」


顔に熱湯を浴びた狼の獣人が、苦痛に呻きながら後退する。


「魔術師部隊!城門の守りを固めろ!詠唱を止めさせるな!」


老騎士団長の指示を受け、城壁の内側に控えていたシルヴァニアの魔術師たちが、必死の形相で防御結界の呪文を唱え続けていた。

彼らの魔力は決して強大ではないが、その連携は驚くほどに緻密。地響きを立てて城門に叩きつけられた巨大な破城槌が、青白い魔力の障壁に阻まれ、甲高い音を立てて弾き返される。


「ち、ちくしょう……!雑魚のくせに小賢しい真似を……!」


城壁の上から、シルヴァニアの騎士の一人が、勝ち誇ったように叫んだ。


「都市防衛というのは、こういうものだ、蛮族どもが!」


マルバス公爵は決して名君ではなかったかもしれないが、彼の下でシルヴァニアは長らく軍備を整え、都市防衛のための訓練を怠ってはいなかったのだ。

そして何より、今の彼らには「故郷を守る」という、何物にも代えがたい強い意志があった。

その結束力と、地の利を活かした戦術は、個々の戦闘能力では遥かに劣るはずのシルヴァニア防衛隊に、予想以上の力を与えていた。


次々と城壁に取り付こうとしては撃退され、あるいは巧妙に仕掛けられた罠にかかって混乱する赤牙戦団。彼らの得意とする個々の武勇に任せた力押しの戦術は、堅固な城壁と組織的な抵抗の前では、その効果を十分に発揮できずにいた。

もちろん、シルヴァニア側の被害も決して少なくはない。城壁の一部は突破されかけ、勇敢な兵士たちが次々と倒れていく。だが、それでも彼らは必死に食い止め、押し返し、一歩も引かぬ構えを見せていた。


「いける、かもしれない……!」


矢を番えながら、若い民兵の一人が、隣の古参兵に震える声で呟いた。


「馬鹿を言え、まだ始まったばかりだ!だが……確かに、奴らの最初の勢いは挫いてやったようだな!」


古参兵はそう答えながらも、その目には確かな手応えと、ほんのわずかな希望の光が宿っていた。

シルヴァニアは、まだ陥ちない。彼らはなんとか持ちこたえ、そして今、ほんの少しだけ、戦局を有利に進めているかのようにさえ見えた。

城壁の各所では、侵入してきた獣人兵たちが、数に劣るシルヴァニア兵の巧妙な連携や、地の利を活かした罠によって次々と討ち取られていく。

火や油、そして魔術師たちの放つ防御結界が、赤牙戦団の野蛮な突撃を効果的に削ぎ、彼らの進撃の勢いを明らかに鈍らせていた。

文明と秩序の力が、一時的にではあるが、野性と破壊の力を凌駕しているのだ──。


「このまま押し返せるぞ!」

「シルヴァニアの民の底力、思い知ったか、蛮族どもめ!」


城壁の上からは、シルヴァニア兵たちの士気高らかな雄叫びが上がり始めていた。


だが、その時だった。


「グオオオオオオッッッ!!!!!」


それまで戦場を支配していた武器の衝突音、兵士たちの怒号、悲鳴、その全てを暴力的に塗りつぶすかのような、天を震わせ地を揺るがす、途方もなく巨大な咆哮が、突如として赤牙戦団の後方から轟いた。

空気がビリビリと震え、シルヴァニアの城壁の一部がミシミシと音を立てて軋み、先ほどの戦闘で崩れかけていた城門の瓦礫が、ガラガラと大きな音を立てて完全に崩れ落ちる。

それは、ただの咆哮ではない。魔力と、圧倒的な生命力、そして純粋な破壊の意志そのものが凝縮されたかのような、存在そのものを揺るがす絶叫だった。


「──!?」


シルヴァニア兵たちの歓声が、一瞬にして凍り付いた恐怖の沈黙へと変わる。

赤牙戦団の獣人兵たちが、一斉に道を開け、その視線の先で、ゆっくりと、しかし大地を踏みしめる確かな足取りで、一体の異形の獣人がシルヴァニアの城壁へと歩を進めてくるのが見えた。


「あ、あれ……は……」


筋骨隆々の巨躯。赤黒い体毛に覆われ、獅子を思わせる逆立った鬣が風に揺れ、背には猛禽類のような力強い皮膜の翼が不気味に広げられている。

その手に握られているのは、彼の巨体に見合うだけの、巨大な戦斧。その全身から放たれるオーラは、先ほどまでの獣人兵たちのものとは比較にすらならないほど、濃密で、そして絶望的なまでに強大だった。


それまで果敢に戦っていたシルヴァニアの兵士たちが、その姿を認めた瞬間、金縛りにあったかのように動きを止めた。


「な、なんだ……あの、獣人は……!?」


城壁の上で、恐怖に震える声で新兵の一人が呟いた。

その隣で、顔面蒼白になりながらも、何とか立っているのがやっとといった様子の古参兵が、絞り出すような声で答える。


「──ち、違う…あれは……あれこそが……じ、獣王……グロムだ……!」


古都シルヴァニアの、つかの間の希望は、今、絶対的な破壊の権化の登場によって、無慈悲に踏み砕かれようとしていた。

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