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第13話

古都シルヴァニアのつかの間の希望は、絶対的な破壊の権化の登場によって、無慈悲に踏み砕かれようとしていた。


その地獄のような咆哮の主──獣王グロムは、ゆっくりとした、しかし一歩ごとに大地を震わせるような足取りで、シルヴァニアの城壁へと歩みを進めていた。

その全身から放たれる、濃密で原始的な魔力と殺気は、もはやオーラとなって赤黒く揺らめき、周囲の空間すら歪めている。


そんな彼の前方から、シルヴァニアの城壁に取り付いていたはずの赤牙戦団の獣人兵の一団が、無様に武器を放り出し、算を乱して逃げ帰ってくるのが見えた。

彼らの顔には、先ほどまでの略奪者の傲慢さは微塵もなく、ただただ、城壁の上のシルヴァニア兵への恐怖と、敗走の屈辱だけが浮かんでいる。


「ひ、ひぃぃ!あいつら、思ったより……!」

「退け、退けぇ!一旦退いて、グロム様の……!」


逃げ惑う獣人兵たちは、その時、悠然と佇む、見上げるような巨大な影に気づいた。


「……!?」

「グ、グロム……さま……」


絶対的な支配者、獣王グロムその人である。

その瞬間、彼らの顔は恐怖から絶望へと変わり、血の色を全て抜き取られたかのように真っ青になった。

鋭い鉤爪も、強靭な牙も、今はただ小刻みに震えるだけだ。彼らは、グロムの逆鱗に触れたことを悟り、その場で凍り付いたように立ち尽くした。


グロムは、そんな彼らを、血のように赤い瞳で一瞥した。


「──俺の『群れ』に、弱者は不要」


その呟きと同時。

グロムが、邪魔な虫でも払うかのように、その巨大な右腕を、鋭い鉤爪を剥き出しにして軽く一振りした。


「グロムさ……ギェ!?」


次の瞬間、逃げ帰ってきた獣人兵たちの一団がいた空間に、凄まじい衝撃波と、肉を切り裂き骨を砕く生々しい音が迸った。数メートルはあろうかという範囲の獣人たちが、悲鳴を上げる間もなく、文字通り赤い肉塊へと変じ、鮮血と共に周囲に飛び散る。

それは、攻撃というよりは、あまりにも一方的な処理であり、力による消去。そこには、一切の躊躇も、慈悲のかけらも存在しない。


「弱いヤツは死ね。それが、俺の群れの掟だ!臆病者の配下も、あの壁の向こうで震えている雑魚どもも、同じことよ!」


グロムは、残った配下たちと、そして恐怖に凍り付くシルヴァニアの城壁の上の兵士たちにも聞こえよがしに、再び腹の底からの咆哮を上げた。

そのあまりにも圧倒的な強さと、味方にすら容赦のない残忍さを目の当たりにして、シルヴァニアの兵士たちはもちろんのこと、グロム自身の配下であるはずの赤牙戦団の獣人たちまでもが、本能的な恐怖に全身を震わせ、ただひれ伏すようにその場に竦み上がる。


「俺が『力』を見せてやろう。この、獣王グロムがな……」


獣王グロムは、もはや足手まといでしかない他の配下には目もくれず、ただ一人、大地を確実に踏みしめる確かな足取りで、シルヴァニアの城門へと進み始めた。

その姿は、嵐の中心が静かに移動してくるかのような、不気味なまでの威圧感を放っている。


「う、撃て! 撃ち続けろ! あの化け物を街へ入れるな!」


シルヴァニアの老騎士団長が恐怖を押し殺し、必死の形相で叫ぶ。

その号令と共に、城壁の上から再び矢の雨がグロムへと降り注いだ。魔術師たちは残る魔力を振り絞り、炎の槍や氷の礫を撃ち込み、城壁に残っていた数少ない投石機が、巨大な石弾を唸りを上げて射出する。

だが、それらの攻撃は、慈雨が巨岩に降り注ぐかのように、グロムの分厚い赤黒い体毛や、ドラゴンの鱗にも似た硬質の皮膚、彼が無意識に放っている濃密な魔力のオーラによって、いとも容易く弾かれ、あるいは霧散していく。

先端を鋭く尖らせた鉄の矢も、彼の皮膚に僅かな擦り傷を残すのがやっとで、魔術の直撃を受けても、彼は眉一つ動かさない。


「小賢しい──」


グロムは、鬱陶しげに低く唸ると、その巨体からは想像もつかないほどの速度で地を蹴った。

次の瞬間、彼は既に城壁の直下まで到達し、その手に持つ巨大な戦斧「大地割り」を凄まじい破壊力を込めて振り回し始めた。


「唸れ!!アースブレイカー!!」


凄まじい轟音と共に、シルヴァニアの誇る堅固な城壁の一部が、粘土細工のように打ち砕かれ、巨大な破片となって宙を舞う。

城壁の上にいたシルヴァニア兵たちは、悲鳴を上げる間もなく、その衝撃で吹き飛ばされ、崩れ落ちる瓦礫の下敷きとなった。


「ひ、ひぃぃぃ!」

「化け物だ!逃げろぉ!」


シルヴァニア兵たちの間に、絶望的な恐慌が伝染する。

だが、逃げることすら許されない。


「逃げるだと……?俺が一番嫌いなのは……戦いの最中に逃げる弱者だ!!」


グロムは、逃げ惑う兵士たちを、まるで狩りでも楽しむかのように、一人、また一人と確実に屠っていく。

彼の鉤爪が一閃すれば、屈強な騎士の鎧が紙のように引き裂かれ、その牙が食らいつけば、魔族の硬い頭蓋骨も容易く砕け散る。

時には、その巨大な翼で兵士たちを薙ぎ払い、あるいはその剛腕で掴み上げて、城壁の向こうへと玩具のように投げ捨てた。


「そうだ、かかってこい!俺に傷を負わせて見せろ!俺を殺してみせろ!」


シルヴァニアの誇り高き騎士団も、決死の覚悟で立ち向かった民兵たちも、この絶対的な「個」の力の前に、なすすべもなく次々と無残な死を遂げていく。

グロムは、返り血を浴び、その赤い瞳をさらに凶暴に輝かせながら、破壊の限りを尽くす。彼にとって、敵の悲鳴は心地よい音楽であり、飛び散る血肉は祝祭の色なのだ。


「弱い!もっと歯ごたえのあるヤツはいないのか!」


地鳴りのような風切り音と共に、戦斧がシルヴァニア兵の密集する一角に叩きつけられる。次の瞬間、そこには肉片と血飛沫、そして砕け散った武具の残骸だけが残されていた。

十数人の兵士が、一撃のもとに文字通り「消滅」したのだ。


「も、もう駄目だ……!あんな化け物に適うわけないんだ……!」


やがて、城門周辺の抵抗は完全に沈黙した。

グロムは、累々と転がる死体の山を踏み越え、ついに、半壊したシルヴァニアの城門の前に、仁王立ちになった。


「おのれ……おのれ獣めが!」


その時、最後まで残っていたシルヴァニアの老騎士団長が、血と泥にまみれた姿で、それでも折れぬ闘志を瞳に宿し、手にした長剣を構えてグロムへと躍りかかった。

彼に続くように、数名の歴戦の騎士たちが、死を覚悟した雄叫びと共に最後の突撃を敢行する。彼らはシルヴァニアの誇り、最後まで民を守るために戦うことを選んだ勇者たちだった。

だが、その決死の覚悟すら、獣王グロムの前ではあまりにも儚かった。


「グハ……グハハハ!!いいぞ、最後まで抵抗するお前たちは『勇者』である!だが……」


グロムは、鬱陶しい羽虫でも払うかのように、その巨大な左拳を無造作に振るった。

老騎士団長は、その歴戦の技で身をかわそうとするが、グロムの動きは彼の反応速度を遥かに超えていた。

鈍い音と共に、老騎士団長の頭蓋が、熟れた果実のように巨大な拳で砕け散る。長年仕えた主君の名を呼ぶことも、民への最後の言葉を叫ぶこともなく、シルヴァニアの守護者はあっけなく絶命した。


「『力』がなければ、それは蛮勇と言うのだ──」


続く騎士たちも同様だった。ある者は戦斧「大地割り」の一薙ぎで鎧ごと肉塊へと変えられ、ある者はその鉤爪で心臓を抉り出され、またある者はただその圧倒的な膂力で地面に叩きつけられ、動かぬ肉の塊となった。

赤子を捻るよりも容易く、シルヴァニアの最後の抵抗力は、文字通り粉砕されたのだ。


「グロム様に続けぇ! 街を蹂躙しろぉ! 喰い尽くせ、犯し尽くせ、奪い尽くせぇ!」


城門を突破したグロムの背後から、彼の圧倒的な力に再び狂喜した赤牙戦団の獣人兵たちが、獣のような鬨の声を上げながら、獲物を求める飢えた狼の群れのように市内へと雪崩れ込んでいく。

シルヴァニアの組織的な抵抗は完全に無力化された。指揮系統は乱れ、生き残った兵士たちは武器を捨てて戦意を喪失し、ただ己の命惜しさに逃げ惑うばかりとなる。


美しい古都シルヴァニアの街路は、一瞬にして地獄絵図へと変わった。


「ギャアアアアア!」

「助けて! 誰か、助けて!」


逃げ惑う市民たちの悲鳴が、獣人たちの獰猛な雄叫びと、魔獣たちの唸り声にかき消される。

屈強な魔獣人が、抵抗しようとした若い男を戦斧で叩き潰し、その傍らで泣き叫ぶ女を卑猥な笑みを浮かべて引きずっていく。

狼の獣人の群れが、老人の家に押し入り、金目の物を略奪し、抵抗する者には容赦なくその牙を突き立てる。

そして、彼らが使役する、蠍のような尾を持つ巨大な蜘蛛型魔獣や、腐臭を漂わせる二つ首の猟犬型魔獣などが、逃げ遅れた子供や老人を見境なく襲い、その肉を貪り喰らう。

街のあちこちで、そのような惨劇が繰り広げられていた。美しい白亜の建物は炎上し、石畳は血で赤黒く染まり、シルヴァニアはただの、獣たちの饗宴の場と化そうとしていた。


「……」


その地獄絵図の中心を、獣王グロムはただ悠然と歩いていた。

彼の周囲では、配下が獲物を見つけては襲いかかり、魔獣たちが逃げ惑う市民の肉を貪っている。破壊、略奪、そして絶え間ない悲鳴。

それらが渾然一体となって、グロムの世界を満たしていた。


しかし、彼はその光景を一顧だにしない。何も見えていないかのように、獣の王はただただ、血の海と化した街路を歩き続ける。

その赤い瞳には、もはや何の感情も浮かんでいない。


「もう終わりか」


圧倒的な力による蹂躙。シルヴァニアの抵抗は、彼が本気を出すまでもなく、あまりにも呆気なく潰えた。

戦いが終わった後、彼の心を支配するのは、勝利の昂揚ではなく、深い虚無感であった。


──結局のところ、今回も、この己の渇きを満たしてくれるほどの「強き者」はいなかった。


骨のある抵抗を見せた老騎士団長も、他の兵士たちも、彼にとっては赤子同然。

弱者をいくらいたぶっても、彼の魂が求める、あの焼けつくような闘争の悦びは見出せない。


(弱い……弱すぎる。これでは、何の足しにもならん)


配下の者たちが、逃げ惑う弱き者どもを嬉々として襲っている。

だが、グロムは理解している。どれだけ弱者を殺したところで、この胸の内に燃え盛る、永遠とも思える渇きは決して潤されることはないのだと。

彼が真に求めるのは、互いの全てを賭してぶつかり合える、魂を震わせるほどの強者との死闘。

それだけが、彼に生きている実感を与えてくれるのだ。


(俺を殺せるほどの強者は、一体何処にいるのだ──?)


その渇望が、彼の赤い瞳に、再び飢えた獣のような暗い光を宿らせ始めた。

グロムの視界の傍らでは、赤牙戦団の魔獣の一匹……巨大な蜥蜴に似た、鋭い牙と鉤爪を持つ捕食獣が、瓦礫の陰に追い詰めた獲物にまさに襲いかからんとしていた。

獲物は、まだ幼い魔族の少女だ。恐怖に声も出せず、ただ小さな肩を震わせている。


「やだ……やだぁ……!」


グロムは、その光景をただ無感情に視界の端に捉えている。彼にとって、それは自然の摂理。弱き者が強き者に喰われる、ただそれだけのこと。

弱いのが、悪いのだ。この魔界では……いや、この世界においては、強さこそが唯一絶対の、そして至高の概念なのだから。


「た、助けて……おかあ、さん……」


追い詰められた幼い魔族の少女が、涙ながらにそう呟いた。

迫った巨大な蜥蜴型の魔獣の顎が、少女の小さな頭を、無慈悲に噛み砕こうとした。



──その時であった。



甲高い金属音と、何かが硬いものに突き刺さる鈍い音。

そして、魔獣の、断末魔とも苦悶ともつかぬ、奇妙な絶叫。


「グ……ギィ!?」


少女を襲おうとしていた蜥蜴型の魔獣の、まさにその眉間から、地面深くまで、一本の長大な黒い剣が突き刺さり、その巨体を縫い付けていたのだ。

剣は、天から降ってきたかのように、何の前触れもなくそこに存在していた。魔獣は、苦痛の表情で目を見開き、口から血の泡を吹きながら、数度痙攣すると、やがて動かなくなった。


「──なに?」


さすがのグロムも、その予期せぬ出来事に、わずかに目を見開いた。

彼の本能が、尋常ならざる何かの接近を告げている。

咄嗟に空を見上げる。


そこには。


空そのものが裂けて、無数の星々が流れ落ちてくるかのような光景が広がっていた。


いや、星ではない。それは、全てが寸分違わぬ形状をした、無数の黒い剣。


何百、何千という漆黒の刃が、雨のように、天罰のように煌めきながら。


「──」


シルヴァニアの荒廃した街並みへと、そしてグロムの頭上へと、雄大にして静謐な軌跡を描きながら、降り注ぐ──。

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