朝の自己紹介から数時間。
あれだけの緊張を乗り越えたにもかかわらず、今私は再び戦場に立たされていた。
戦場──それは、現代日本の授業である。
黒板の前に立つ教師、均一な速度でノートを取る生徒たち、まるで軍事訓練のように整然とした授業進行。
だが私にとってはすべてが未知で、敵地でひとり身を隠しているような気分だった。
(……どうする? この世界の授業内容、何ひとつ頭に入ってない)
ノートを開き、ペンを握る。しかしその動作からして既におかしい。
ペンの持ち方が妙にぎこちなく、まるで訓練中の新兵のようだ。
前世では、報告書と命令書と弾薬管理表くらいしか書かなかった。
それに、文字の書き方そのものが“軍人式”だった。
ここでは通用しない。
「瀬名さん、問題3。解いてもらえる?」
声が飛んできた。
(えっ、いきなり当てる!? 初日で!?)
黒板には連立方程式。
(これは……数式……なのか……?)
見たことのある記号たち。だけど、何も思い出せない。紫音の記憶から、出せればいいんだが......。
何か霧がかかって思いだせない。
砲弾の角度計算なら得意だったが、これとは別の話。
「……すみません、まだ内容が……」
「そう。無理しなくていいから、分からないときは早めに言ってね」
先生の言葉は優しかった。
けれど、その背後から刺すような視線を感じる。
振り向かずとも分かる。白雪 紗月だ。
(くそ……今ので“勉強できない転校生”って思われたかも……)
ちらりと目をやると、彼女は静かにペンを走らせながらも、私のほうに注意を向けていた。
表情は変わらない。
でも、明らかに“何か”を考えているような気配があった。
(絶対これ、監視対象としてロックオンされてるやつだ)
そんな警戒を抱えたまま、午前の授業は終了した。
昼休み。
「購買のパン、今日はチョコデニッシュとツナパンが人気らしいよー」
教室が一気に明るくなった。 数人の女子がカゴに入れたパンとドリンクを手に戻ってくる。
私は慣れないながらも、結城と一緒に購買に行ってみた。 押し寄せる人波、聞き取れないパン名、そして次々と消えていく人気商品たち。
(戦場の物資争奪戦より過酷……)
結局、手元に残ったのは照り焼きチキンパンと、バナナ味の紙パックミルクだった。
席に戻って袋を開け、一口かじった瞬間、私は固まった。
(……あまっ!?)
甘辛ソースのチキンに、柔らかい白パン。 そしてミルクは完全に“おやつ”の域。
(これは……糖分で士気を削ぐタイプの拷問か……?)
「紫音ちゃん、食べるの遅いね?」
声をかけてきたのは、隣の席の結城。
「あ、うん……ちょっと……味が……」
「えっ? 美味しくない?」
「いや、そうじゃなくて……なんか、想像と違ってて……」
「そっか、転校してきたばっかだもんね。慣れてないよね」
その笑顔に救われる気がした。ほんの少しだけ、この世界の“日常”が近づいた気がした。
しかし。
「瀬名さん」
また、声がした。
聞き慣れた――というより、聞き間違えようのない冷静な声。
振り向けば、風紀委員長・白雪紗月。
「明日、学力確認テストがあるわ。転校生も例外じゃないから、勉強しておいた方がいいわよ」
「えっ……確認、テスト……?」
「当然、国数英の3教科。初期の理解度を見るためのものだから」
(ちょっ……え、……初期から全力すぎるだろ!?)
「一応、参考に去年の問題をコピーしておいたわ。放課後、余裕があれば職員室前の机に置いてあるから」
そう言って、彼女はきびすを返す。
その後ろ姿が妙に気になってしまって、視線を逸らせなかった。
(なにあれ……完璧人間なのに、やけに気配りできるし……ズルい……)
「紫音ちゃん、テスト不安そうだったね?」
結城がサラダをつつきながら笑う。
「でもね、紗月ちゃんって、他人にあんな風に声かけるの珍しいんだよ?」
「え……そうなの?」
「うん、ほんっとに珍しい。もしかしてちょっと気に入られてるんじゃない?」
(ま、まさか……!)
放課後。
職員室前の長机。
そこに、何の名前も書かれていない無地の封筒が一つ、ぽつんと置かれていた。
中身を確認すると、去年の確認テストのコピー。
そして、一枚の手書きのメモ。
『分からないところは早めに質問して。白雪』
(うわ……字、綺麗……というか、達筆……)
ほんの一言。だけど、そこに込められた意図は十分に伝わってきた。
責任感。そして、少しだけの気遣い。
(勉強もできて、字もきれいで、気配りまでできて……何者だよ、あの人)
封筒を丁寧にしまいながら、私は大きく息を吐いた。
(……この世界の“勉強”は、戦場より難しいかもしれない)
けれど。
(誰かが見てくれてるなら……やってやろうじゃないか。明日のテスト、全部分からなくても、白雪に「何もしなかった」とは思われたくない)