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第3話 深夜の数学と、風紀委員長の気になるまなざし

帰宅して、制服も脱がずにそのまま机に向かった。

鞄から白雪紗月からの封筒を取り出す。 中にはびっしりと印刷された確認テストのコピー用紙と、一枚のメモ。


たった一行。 それでも、そこに込められた静かな気遣いが、なぜか胸に残っていた。


(……こういうの、俺のいた世界にはなかった)


記憶が脳裏に蘇る。


あの世界。空が焼けた赤色をしていた荒野の国。獣の骨が転がる瓦礫の都市。 剣と魔法、そして銃火器と鉄の鎧が共存していた、あの“壊れた世界”。


俺は傭兵だった。 契約によって雇われ、命令が下れば、どんな相手でも排除する。 “レイヴン・ザ・ファング”──それが、かつての俺の名。


生き残ることがすべてで、信頼も友情も、あったとしても短命だった。

戦場では、朝に話した仲間が夜にはもういなかった。そんなのざらにあった。

“情”というものは、そこではただの足枷だった。


あの頃、俺は兵器の一部として扱われ、何も疑問を持たなかった。

けれど今は──机に向かい、数学の問題とにらめっこしている。


(これが俺の“任務”なのか……)


XとYが並ぶ連立方程式。 係数、代入法、加減法。


意味がわからない。そもそも概念が違う。 あの世界で学んだ算術は、十進法ですらなかった。


ここでは、数字が“記号”ではなく“意味”を持っている。 Xに数字を当てはめて正しい答えを導き出すことに、どんな意味があるのか。 それを考えてしまった時点で、もう思考は迷子だった。


(くそ……なんなんだよ、これ.....意味分かんねぇよ)


それでも、書いては消し、何度も繰り返す。 シャーペンの芯が折れるたび、心も少しずつ折れそうになる。


(いや、折れるな……折れるなよ、俺)


この世界で、もう一度生きると決めた。 スカートを穿き、甘いパンに戸惑いながら、それでも“紫音”として歩くと決めた。


(なら……逃げるわけにはいかないだろ)


ページをめくる。次は英語。


前世でも“共通語”はあった。 いわゆる交易語と呼ばれる、多種族間の意思疎通を目的としたシンプルな言語。

単語は短く、主語と動詞がすぐに来る。


『敵。東から。数、五。』


それが精一杯の報告だった。感情や比喩は存在しない。

だが今、目の前にある英文は違う。


『True friendship is not about being inseparable, but about being separated and nothing changes.』


『本当の友情は、常に一緒にいることではなく、離れていても何も変わらないことである。』


(……情緒がある!?)


この文のどこに“敵”の情報があるというのか。 感傷と哲学に満ちた文章は、まるで一撃必殺の魔術のように脳を疲弊させる。


(“変わらない関係”……? そんなもの、戦場に存在しなかった)


読み進めるうちに、言葉の重さに疲れていく。 “変わらない関係”──そういうものが存在すると、この世界の人間たちは本気で信じているのか。

そのことに、俺は軽いショックを受けていた。


次は国語。

詩的な表現。 比喩。 筆者の意図。


「主人公がこのとき何を思ったか答えよ」


(わかるか!そんなもん書いた奴にしかわかるか!)


はっ!違う。これは“戦争”じゃない。これは、“日常”だ。

命令も報告もない、自分の内側にある気持ちを、言葉で伝えなきゃいけない。

俺にとってそれは、異国の言語よりも難しい。

この世界の言葉に、自分の心を“翻訳”することが、こんなにも苦しいなんて思わなかった。


“命を奪うため”ではなく、“自分を伝えるため”の言語。

俺は今、その初歩を学ぼうとしていた。

それがどれだけ新しくて、眩しくて、怖いことなのか。


時折、机の上のメモに目をやる。

白雪紗月──風紀委員長であり、冷静沈着な完璧主義者。 最初はただの“冷酷な人”だと思っていた。


でも、今日、違う一面を見た。


“助け舟”を出せる人。 “自分から気づいて手を差し伸べることができる人”。

その記憶が、今の俺を支えていた。


(あの人になら、訊いてみてもいいかもしれない……)


時間は、もう夜の11時を過ぎていた。 筆圧が強すぎたのか、ノートの紙が破れかけていた。

母が何度かノックをして、夕飯を声かけてきたけれど、「もう少しだけ」と答えて、俺は紙の上に視線を戻した。


机の上には、俺の震えた字で埋められたノートが並ぶ。 はみ出した線、意味不明な答え、それでも消さずに残した全てが、俺の“戦いの記録”だった。


(……明日は、少しだけ平和に生きたい)


それは、戦場では決して持てなかった願いだった。


(.......いや、テストがある時点で、無理か)


やがて、鉛筆が机の端から落ち、俺は反応する間もなくそのまま机に突っ伏した。

夢もうつつもないまま、俺は意識を失うように眠りに落ちていった。


明日──テスト本番。 初めての、“命に関わらない試験”。 それなのに、これほど心が削られるとは思わなかった。


でも、だからこそ。

白雪紗月の声が、最後まで頭の片隅に残っていた。


──“質問していい”──


それが、俺にとってどれだけ珍しい選択肢だったか。


だからこそ、きっと明日。


……いや、それでも、まだ誰かを頼るなんてことはしたくない。


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