十五年前、逢魔の夕刻。
オレンジが黄金に染まり、それが瞑色へ移ろう薄暮の空には雪が舞っていた。氷の粉が風に流され、揺らめく街灯の光に照らされては消えていく。街を彩るイルミネーションがぽつぽつと灯り始め、
────だが、その平穏は突如として切り裂かれた。
救急車のサイレンが鋭く鳴り響き、
「────交通事故、十代女性!一般道路上でスリップしたトラックに衝突され、骨盤骨折と
少女の名を想起させる深緋の血液が担架から滴り落ち、冷たい床に小さな湖を拵えた。共に救急車に乗り込んでいた少年が、ひいろ、と焦りと絶望を孕んだ
「直ぐにオペ室へ!
指示を受け、医療スタッフが素早く動き出す。手術室の無影灯が眩く光り、滅菌ガウンに身を包んだ執刀医────神楽岡が手を差し出した。青白く影を落とさない二次元的な空間で、深紅の患者の存在が異質だった。
「メス」
器械出しをしている看護師、
「腸骨動脈破損、吸引を。ペアン」
「クリップ」
神楽岡の手に鉗子が、第一助手をしていた
「先生、出血が多すぎます!」
乾が声を掛ける。それに対し神楽岡は、出血部をペアンが噛み締めた事を確認すると「大丈夫」と穏やかに呟く。その瞳が、出血箇所を全て憶えている。
「止血魔法やる。血管にピンポイントで〈
彼は朱く染まった指、人差し指と中指を立てて手刀を作るとそれを破れた血管に押し当てる。すう、とひとつ息を吸う音が、レッドアラームが泣き叫ぶ室内に反響した。
「〈────修復の糸よ、命を紡ぐ繊機の恵みよ〉」
天界から贈られた白き祝福が、唇から綴られた。
「〈汝、裂けし軌跡を辿り、肉を繋ぎし絆を結ぶ縫合なり〉」
光が満ちる。指先がじんわりと熱を持って、それは冷えきった少女の体内で灯った。
「〈下す我が命のままに、断たれしものを繋ぎとめよ〉」
────
神楽岡が唱える呪文が、彼が放つ魔法周波が、世界に対し魔法の顕現を要求した。光が満ちる。慈愛が満ちる。創造と、守護と、浄化の力が手術室を包んだ。
だが、その光が落ち着いても────少女の体に変化が起こる事はない。
白銀の光を嘲笑うかのように、露出した組織の緋色はその色を強めた。
ぴ、とくだらない音がした。その音は神楽岡の顔面を舐めて、彼は思わず目を瞑る。ぬめりと、鉄錆のにおいがマスクの中に充満した。……何が起こった?
見れば、指を押し当てた箇所から飛沫が上がっている。それが彼の顔を穢したのだ。乾が悲痛に叫ぶ。
「バイタルどんどん落ちてますッ!血圧48の25!」
「魔法が効かん、やと、?」
神楽岡は顔を歪めた。馬鹿な。呪文の詠唱に間違いは無かった筈だ。魔法周波の乱れも無かった。ならば、何故。
悲鳴を上げるアラームの音が、徐々に遠くなってくる。この状況で止血できなければ、目の前の小さな命は尽きる。〈繕結〉が駄目ならば、他に何か。何がある、命を救える魔法は、何が────。
「────執刀、交代する」
静かに声が響いた。
神楽岡は向かいを見上げる。其処に居たのは、第一助手の櫻田であった。彼は神楽岡の隣に足を進めると低く宣誓する。
「非魔法でやる。止血鉗子、縫合糸を」
「櫻田、」
「使える魔法を探すのは結構だが、私達は魔法士である以前に医師だ。世の中には、魔法で救えない命もあるという事だ」
「やけど────」
そこで神楽岡は言葉を区切る。櫻田の
「……分かった。乾さん、ブルドッグ鉗子」
「はい」
「6―0ポリプロピレン」
乾が即座に器械を手渡す。櫻田は迅速に腸骨動脈を露出し、クランプで一時遮断。流れる動作で大腿動脈へ進み、銀に光る極細の糸を血管端に通す。まるでミシンや、と神楽岡は息を呑んだ。魔法医療にかまけていて、非魔法医療での縫合など久々に目にした。医術の神、アスクレピオスに祝福されたその技術は、科学を忘れ幻想に身を浸した彼等に何処か懐かしさを覚えさせる。
「低体温進んでます!深部体温30℃ッ」
「低体温性の心停止リスクがある、ウォームブランケット!」
術野を覗き込み、糸を掌で操る事に集中する櫻田に代わって神楽岡がそう声を荒げた。直ぐに少女の体に温風式のブランケットが巻かれる。柔らかな温もりを当てながら、神楽岡は再び体内の緋色を睨みつけた。
「心拍戻りません!」
「血流が戻らんか……輸血は?」
「B型Rhマイナスのストックが足りません!供給が、」
「ちッ……」
最悪の事態だ。
Rhマイナス型の血液はただでさえレアだというのに、B型の、ともなれば一層だ。輸血用の血液が不足している。代替血液はある、と信じたいが時間との闘いになるだろう。殆ど出血なく切開、切除、縫合が出来る魔法医療ではまず有り得ない、「血液不足」という窮地が場を呑み込む。
「どうする、櫻田」
神楽岡は縋るように目の前の男を見上げた。彼は数秒間視線を横に流して────そして告げる。この魔法世紀に非魔法医療の可能性を提示しただけあり、非魔法だけで事を終わらせる凛とした覚悟が見受けられた。
「……自己血回収装置を使う。まだ手術中に出た血を戻せる筈だ。乾」
「は、はいッ」
サクションを繋げば少女の体から緋色が太い紐となって透明な管を流れていく。回収、濾過、そして再輸血。その人工的な半永久機関が完成した事を悟った櫻田は、自身の指先に再び意識を向けた。
「────血圧60の30に回復!」
誰しもが、櫻田の紡ぐ奇跡に釘付けにされていた。その手技はまるで機械のように正確で、ワルツのように優雅であった。彼は次に骨折部へ移動し、外固定を外す。
────手術は続いた。
魔法の力を借りずとも、医療の叡智と技術だけで命が繋ぎ止められている。
その場にいた全員が、非魔法医療の力をまざまざと見せつけられた。
人間は、幻想に身を委ねずとも此処までやれるのだ、と。それは彼等の心に、一種のプライドを蘇らせた。
やがて、最後の縫合が終わる。
櫻田は何も言わなかった。深呼吸すらしなかった。
無影灯が静かに光を落とす中、彼は血に染まった手を見下ろした。
その手には、確かにひとつの命が宿っていた。
……。
救えたのだ、と。
救えた筈だ、と誰もが思った。
しかし、それは砂糖菓子のように甘い虚構であった。
何故なら、この後に待ち受けるのは────