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第一章:ジェイド・アクター

Chapter01:平穏な朝

────夢を、見ていた。

朧げな記憶の中で、俺はあやされて瞳を細める。

緩やかに眠気が襲ってきて、意識は闇へ誘われた。

母親の編まれた髪が薫る。穏やかな談笑が包む。

其処には、三人の女性の姿が在った。

ギリシャ神話に登場する三美神のようだと、薄れる意識の中でそう思った────


***


瀬戸内海の朝は、静かに、けれど確かに訪れる。


夜明け前の薄闇を残したまま、東の空がゆっくりと群青から淡い橙へと移り変わる。海は風一つない穏やかさを保ち、水平線に浮かぶ島影を残していた。日扉町ひとびらちょう穏岬島おんさきじま。瀬戸内海の小さな離島の街であった。

島の南端に位置する小さな港町は、夜の帳を脱ぎ捨てたばかりだ。漁港の沖には、海に出たばかりの船がいくつか、潮の香りと共にゆったりと進んでいく。軒を連ねる家々の窓にはまだ人の気配は少ないが、海鳥達は既に目を覚まし、甲高い鳴き声を響かせていた。


白壁と瓦屋根が連なる街並みの中に、瀟洒な三階建ての一軒家がある。

穏岬島唯一の医療機関、たちばな診療所。


その三階の窓から、カーテン越しに朝の光が零れた。やがて布団の中で微かに動く気配があり、次いで小さな寝息が止む。同時に枕元からアラーム音が鳴り響き、それは五秒と経たぬ間に白く骨ばった手によって鎮められた。

あと、五分。いや願うなら一時間。二時間。六時間くらいは寝ていたい。そんな心の中の悪魔を祓うべく、天使が「今日は予定があるよ~」と叫んでいる。その言葉で思い出す。今日は、面倒な……いや、大事な用事があるんだった。


「……んん………」


ゆっくりと、瞳を開ける。

まだ瞼の裏に残る夢の余韻を払いながら、ぼんやりとした視線で天井を見上げる。聞こえてくるのは、遠くの波音と鳥のさえずり。そして壁越しに伝わってくる、誰かの寝返りを打つ音。

ベッドから体を起こして、窓の外に目を遣った。青みを帯びた朝の空気が、島の街を包み込んでいて清々しい。軽く伸びをしてカーテンを開ける。目の前に広がる海は空と同じ天色で、それを囲む山々は、自身の名と同じ翡翠色だった。


櫻田翠さくらだひすい、それが己に当てられた名前だ。

新しい朝の、始まりだった。



足元に揃えたスリッパを履き、階下へ降りる。スリッパ越しのひんやりとした床の感触が心地よいので、裸足で過ごす朝の時間は嫌いじゃない。むしろ、好きとまで言っていいだろう。

明かりを点け、二階に設えられたキッチンに入る。そこでは昨晩片付けたままの清潔な調理台が朝の光を受けて白く輝いていた。IHコンロに熱を灯し、その上にフライパンを並べておく。バターを落とす事も忘れない。

慣れた動作で紙がびっしりと貼られた冷蔵庫に手を伸ばし、バットを取り出す。昨日のうちに卵と牛乳、砂糖を混ぜた液に浸しておいた食パンがしっとりと馴染んでいた。個人的にはバゲットで作った方が食べ応えがあって好きなのだが、やはり問題は値段だろう。たかだか二百円弱の違いだが、二百円あれば袋うどんが軽く五袋買える。二百円も一年積み重ねると七万円を超すし、こういう小さな節約が大きな違いを生む筈だ。少なくとも翠はそう信じていた。

ベーコンのパックを開封して、それをもうひとつのフライパンに並べる。じゅう、と香ばしい香りと共に湯気が上がって、脂がきらきらと輝いた。それと同時に食パンを隣の揚焼鍋に滑らせると、バターの香りが鼻腔を突く。

ベーコンはちりちりと形を縮め、溶けた脂を纏ってライトを照り返している。それを先に皿に移して、次は手早くフルーツをカットする。林檎、バナナ、あと季節ものの桃。奮発したそれらは白い皿のキャンパスを鮮やかに彩って、面倒な今日一日を過ごすための気力を充実させた。最後に焼き立てのフレンチトーストを並べ、メープルシロップを垂らせば────一寸の隙もない、芸術的な朝食の出来上がりだ。

完璧すぎる。我ながら、やはり天才……いや、天才どころか、もう神だよな。そう、ひとり自己肯定感を高めるところまでがルーティンである。


小さく頷くと、テーブルに皿を並べてひとつ息を吐く。

さて、起こしに行きますか。

折角の温かい芸術作品が、冷めてしまわないうちに。


たちばな診療所は、医師である翠と看護師一人で経営している小さなクリニックだ。深刻な医師不足に喘いでいる穏岬島で病院が一つ、医師が一人……というのは妥当な結果だが、同時にいかがなものかとも思う。しかし、こんな寒村で働こうと思う医師など居ないだろう。日扉町にはショッピングモールなどの施設がない。どころかコンビニもないし、信号機もない。給料も低く、娯楽もない。人口減少の一途を辿るこの街で働こうと思うのは、よほど「田舎のスローライフ」に憧れた人間か、故郷だからと愛着を覚えている人間かの二択だと思う。ちなみに、翠は後者だ。何せ生まれも育ちも、この離島の街なのだから。


先程降りた階段を上がる。自室を過ぎり、もうひとつの寝室に辿り着く。そこは予想通り闇に包まれていて、主がまだ夢の中に居る事を証明していた。彼女を起こす事によって、一日はさらに騒がしく、面倒なものとなるだろう。その可能性は日本の刑事裁判で有罪になる確率くらい高い。つまり、99.9%という事だ。ほぼ確定事項と言えるその未来にげんなりして、溜息を零しながらドアノブを握る。


先に断っておこう。この部屋の主はたちばな診療所唯一の看護師であり、翠の右腕でもあり────同時にこの上なく腹立たしいクソガキである。


「────コルァ!メディ起きろ!朝飯!!仕事!!!」


近所への配慮、の「き」の字もないような大声で怒鳴る。その声を受けて、布団の中の気配がもぞもぞと動いた。ふにゃふにゃしたメゾ・ソプラノの声で「あとごふん……」と聞こえてくる。毎朝毎朝人に起こさせやがって。アラームのひとつでも付けたらどうだ。そんな思考が津波のように流れ込んでくるので、寝ぼけているコイツを見ると無条件でイラっとする。だがそんな事で苛ついていては大人失格。翠の怒りの本質は、目の前の彼女が最低三回、最初に起こしてから三十分はしないと朝食に降りてこない事にあった。


「お前の『あと五分』はあと五時間、の間違いでしょーが!いいから起きろ!今日は忙しいつったろ!!」

「だってぇ……忙しいのはおにーさんだけでぇ……ボクは……」


言葉が途切れる。寝たな。寝たなコイツ。

堪忍袋の緒が切れた翠はずかずかとベッドサイドへ歩み寄り、布団を剝ぎ取った。やだぁ、とマイペースに縋る声が飛んでくる────その声の持ち主は、黒い下着一枚を纏って体を縮めていた。


「お前なぁ、服着て寝ろよ。そんな恰好で寝てエアコン掛けて、電力に頼るんじゃないよ。生活費、かなりカツカツなんだからな。俺の財布をもっと思いやれ」

「おにーさん、ボクの下着姿に興奮しちゃったぁ?やだ、へ・ん・た・い♡」


思わず持ち上げた布団で彼女の腹部を一発叩く。ぐぇ、と声が聞こえてくるが気にしない。誰が発情するか、誰が!

十代前半、青い果実のままの見た目をしながら黒いフリルのランジェリーを身に纏う彼女を見て、翠のイライラ・メーターが急上昇していく。心労・メーターと言い換えてもいい。


「妹に発情したら人として終わりだからな。俺はお前と違ってまともな一般成人男性なんですぅ。動物界脊椎動物門哺乳類霊長目ヒト科ヒト属ホモ・サピエンス」

「やめてよぉ、朝から難しい話しないでぇ」

「看護師ならちょっとくらい勉強しろ」

「つめたぁい。可愛い可愛い妹の面倒くらい苛々せずに見てよぉ」

「誰が妹だ、だ・れ・が」

「だってさっきおにーさんが言ったんだよ?妹に発情したらって」

「訂正。妹に似た最低最悪の悪魔に発情したら人間として終わり。閉廷。ホラ、早く起きろ!朝飯が冷める!」


もう、大方冷めている気がするが。

幾ら怒鳴りつけても、目の前の彼女は悪戯な笑みを浮かべたままのほほんと自分の道を往くばかり。これで看護師としての職務もサボってばかりであればベランダから投げ捨ててやりたいところだった。

……限りなく冷たく接しながらも、彼女の事をどこかで認めている事に、翠は気付いている。だからこうして甲斐甲斐しく面倒を見ているのだ。メディ、と呼ばれる彼女もそれが分かっているから、翠を本当に傷つける行為はしない。……のだと、思っている。実際のところは彼女にしか分からないが。

起き上がる、という素振りを見せて寝返りを打ってみせた少女に対し、布団を投げ捨てた翠は言い放つ。捨て台詞のつもりだったが、彼女が起きる一縷の望みを懸けて挑発的なニュアンスも含めておく。


「じゃ、お前のご所望のフレンチトースト・ベーコンソテーセット~季節のフルーツを添えて~は俺が全部頂くな。渾身の出来だったんだけどな。あーあ、残念でしたぁ」

「起きる!!」


速い。何という食欲。これなら最初から、この手を使えば良かった。

目の前の少女の扱い方マニュアルを更新したところで、ドアノブに手を掛けて声を張る。背後でいそいそと起き上がる気配。乱雑に積まれた洗濯物の塔が崩壊した音がした。


「五分で降りて来いよ。じゃなかったら朝飯は俺の胃袋」

「もっちろん!フレンチトースト!フレンチトースト!」


よし、これで、問題なし。

安心した翠は扉を閉めて、階下へ舞い戻る。窓越しに、朝日が山際から顔を覗かせて光の糸と環を紡いでいた。それを見ながら改めて思う。全く、世話が焼けるヤツだな、と。


────今しがた対峙していたクソガキの事を紹介しよう。

彼女の名はメディヴァ。異界より訪れた幻想で、生意気な小童で、そして────呑噬どんぜいの悪魔である。



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