時刻は、六時二十分に差し掛かっていた。
『────五月に入り、検診の時期になってまいりました。魔法が普及した現代といえど、体の健康を守るのは魔法ではなく正しい生活習慣です。』
『自身で健康管理をするのは大切ですからね。医療機関を訪ねる事になる前に、自分の健康は自分で維持する事が求められます』
全くその通りだ、世間様もよく分かってんじゃん……そう思いながら先日の忙しさを記憶から引っ張り出す。
五月十一日、穏岬島での一斉健康診断。よりによって誕生日だったのにも関わらず、そこに呼び出された翠を待ち構えていたのは、押し寄せる島民の波だった。数えてなどいないが、千人は居たように思えた。
血液検査や心電図検査などは周辺地域の看護師達が手伝ってくれたが、診察をする医師は翠と、日扉町全域、別の離島の医師────合計で四人だった。四人で、この人数を?町のトップは馬鹿なのか?そう訝しむのも束の間、その思想は十五分で消し飛んだ。忙しすぎて、余計な思考を働かせる暇が無かったのだ。数日に及んだ健康診断は、そこからの記憶がない。
……今年も命を削る大イベントだった。思えば去年もそうだった気がする。思い出したくないような過酷さだっただけで、毎年の恒例なのかもしれない。
ぼんやりと思案しながら小さく切ったフレンチトーストを口に放り込む。柔らかく照るトーストをカットするのは、体にメスを入れるのと似た感覚があった。
『……以上のように、社会人の皆様はぜひ健康診断へ。そしてお子様がいらっしゃる保護者の皆様は、小児検診とワクチン接種も忘れずに行いましょう!
『ですね。病気になってからでは全てが遅い。世界進出が期待される魔法抗体とはいえど、健康維持が大前提ではありますからね。それでは【街カド!イシキ・イズ・ナニ?】のコーナーです!本日は健康維持について────』
今のタイトル、誰が考えたんだよ。ダサすぎるネーミングセンスの番組コーナーが始まったところで、横から「ごちそうさまでしたでしたぁ」と伸びやかな声が飛んでくる。見ればメディが背伸びをして、そして両手を合わせて、朝食が胃袋に収まった事を告げていた。早ぇな。早食いにも程があるだろ。そう思いながら彼女の背後の時計を見て────そうも言っていられない事に気が付く。翠はフォークを握り直した。
「お粗末様。満足したか?」
「うん!大満足、星5」
「ならいい。今日は七時十五分には家出るぞ。広島まで二時間は掛かるからな」
「おにーさん、車の免許あるんでしょぉ?車は?」
「持ってねぇからバスで行くんでしょーが。車なんてな、そんなホイホイ買えるものじゃねぇの」
「じゃあ魔法で行けばいいじゃん。あるでしょぉ、空間転移魔法」
「あるけど俺は使わないの。俺、魔法嫌いなんだよね……ってコレ、何回目の話だよ」
「ぶぅ。だってバスの中、狭いしぃ」
「我慢しろ。別に家に残っててもいいけど?講習があるのは俺だし」
「やだ。ひとりで居ても暇」
彼女の背で、宙に浮いた一対の
「ていうかおにーさん、何の講習なわけぇ?」
「知らなかったのかよ」
じとり、とメディを見遣る。だが彼女が知らない事に何の罪もない。それを悟り、半分が資料の山脈になったダイニングテーブルの上からひとつの封筒を取り出して彼女に手渡した。表紙には住所と翠の名前が印字されている。差出人は『魔法規制管理省 異界技術開発局 魔法医療監理委員会』……それを見たメディは一言、「うわぁ、長いしめんどくさそぉ……」と呟いて裏返す。
裏面には魔法医療監理委員会のスローガンと、魔法陣を象った朱いスタンプが押されている。『医療の未来を魔法で切り開く』とはっきり刻まれたその文字列は、数分前に「魔法が嫌い」と零した翠に対し、静かな皮肉を贈っていた。皮肉、っていうか挑戦だろ。もしくは挑発。そう眉間にしわを寄せながらコーヒーカップを手に取る。
「ふぅ~ん、で、結局この封筒、なぁに?」
「中を読めよ、中を」
「だって難しそーなんだもん」
「はぁ……」
珈琲を一口啜り、メディが手に持つ封筒を睨みつける。赤い魔法陣のスタンプがいやに仰々しくて腹立たしい。
「要するに、『お宅ぅ、魔法医療導入してないんでしょ?時代遅れねぇ、医学界が黙っちゃいないわ。あとアンタ、医療魔法士の資格取得、まだなワケ?早く
「うわぁ、すごい分かりやすい」
褒められても、いい気にはならなかった。
この現代社会の魔法第一主義は、何度聞いても不愉快になるからだ。
────魔法。
それはかつて、〝幻想〟と呼ばれていたものだった。
1880年から1900年にかけて、世界を震撼させるとある革命が起きた。イギリスの科学者が発見したのは、天使も、悪魔も、神すらも実在していたという事実だ。彼等が住まう概念の世界「異界」の存在と、彼等が扱う超常現象、それと共に、異界を支配する法則の解明。人々はそれを、
知ってしまえば、さらなる叡智を求めて手を伸ばしたくなるのが人の性だ。人間も異界と交信する事で、異界に住まう彼等が扱う法則……「概念をそのまま力に変換する技術」を使用できると明かされた。異界発祥のこの力を、科学者は「魔法」と定義する。所謂、教科書に載っている「魔法革命」である。
魔法は一気に全世界に普及した。それに応じて法律が作られ、取り締まる組織が組まれ、魔法士の資格が生まれた。そして現在、魔法は科学と共にこの世界を支配している。夢は現と融合し、翠達の隣で確かに息づいていた。
「魔法医療が凄いのは知ってるけどさ、患者救えるなら魔法だろうが非魔法だろうがどっちでもいいだろ。魔法医療の未導入がどうの、非魔法医療が基準に適合しないからどうの、ふざけんなよ」
そう吐き捨てながら、ベーコンソテーに齧り付く。口の中で脂が解けて、それだけで気持ちが和らぐ単純な自分が居る。その咀嚼を待つ間、メディが封筒を電球に透かしながら呟いた。
「おにーさん、また怒られたんだねぇ。そんなに怒られるのがイヤなら、魔法医療導入したらぁ?」
口を開かずに首を振る。勿論、横に。激しく。
肉片が喉を通った事を確認し、言葉を投げやりに返しておく。
「やだね。俺、医学界の異端児である事に誇りを持ってるから」
「まともな一般成人男性なのに?」
「そうですぅ。俺はまともな一般成人男性で、なおかつ異端の天才医師なの」
「ふぅん……それ、両立できるの?」
「出来るんだよ、俺、天才だから」
茶化しつつも、口の端が吊り上がった。冗談を纏わせながら本音を隠すのは、オフの時も仕事中も得意だ。
「魔法省の頭の硬さがダイヤモンドのお偉いさんが、俺の才能に嫉妬して監査入れてきてるんだろ?光栄だよ。受けてやる」
ぐさ、とフレンチトーストの最後の一切れにフォークを突き立てる。その返事を受け取ったメディは不敵に笑って、「やっぱおにーさんはそれでこそおにーさんだよ」と肯定を返した。黄金色をしたフレンチトーストは、あっという間に口の中で溶けていく。残るフルーツも胃袋に収めたら、朝のエネルギー補給は完了だ。
「講習受けて、監査受けて、その時に嫌になるくらい俺の天才ぶりを見せつけてやる。この才能を医学界に見せびらかす大チャンスだ」
「やるねぇ。すごいねぇ。だって、魔法医療だって、全部が全部成功してるわけじゃないもんねぇ、多分」
「多分、な。最近じゃ聞いた事ないけどさ。医療には失敗がつきものだし、何件かはあるだろ。そこを突いてやる」
右手で拳銃を作り、撃ち抜く素振りをしてみる。メディは心臓を押さえて「撃たれたぁ」とおどけてみせた。
二人の間には笑顔があった。朝の光に包まれて、無邪気に、穏やかに笑う。それを、空になった陶器のプレートが鏡のように反射して煌めいた。だが────皿の光が映し出すのは表面に繕った笑みだけではない。その奥に蠢く、底知れぬ闇を映している事を翠は知っていた。
それでも、気付かぬふりをして笑い続ける。今日という日は、まだ始まったばかりなのだから。彼方まで続く未来がある中で「それ」を直視する事は────きっと、自殺行為に等しいのだろうから。
時計の短針は、7に迫ろうとしていた。
物語の歯車が、廻り出そうとしていた。
否、この時は既に、歯車は軋みながら……既に取り返しがつかないところまで、廻っていたのだ。