広島県広島市、中区。平和記念公園、その北部に佇む「原爆の子の像」の視線の先。
新緑の木々と碧の水面に囲まれた中洲であるその地区に、直方体の箱を二つ、ずらして重ねたような形状をした特徴的な建造物が
「────によって、魔法抗体は遺伝子改良を加えた悪魔の細胞を基盤に構成され……」
講堂内に反響する甘いテノールの声に、欠伸が漏れる。それを隠すことなく零した翠は、椅子の背に身を預けて天井を仰いだ。アイボリーの板に埋め込まれたLEDの常夜灯がオレンジの光を放っている。まるで夜のようなその情景に、もう一度長い欠伸が零れる。
正面のスクリーンには、ゴシック体で「最新の医療技術を学ぶための再教育プログラム」と映し出されており、その下で小さな文字と細胞の写真が読ませる気もないほど細々と連なっている。
で、何の話だっけ。朝の口ぶりもすっかり忘れて、怠すぎる講義の内容を頭で
既に時刻は正午を回っており、講義開始から九十分が経過している。そろそろ休憩が欲しくなるところだ。最も、翠は講義中の半分以上をぼんやりと過ごしていたのだが。
当院で開発された、予防医療で用いられる魔法抗体は悪魔の細胞を雛形に作られていて、対象組織を「捕食」して消滅させる効果があって、現開発責任者は
資料を器用にデスクに立ててバリケードにし、教授から見えないようにスマートフォンを取り出す。そして、そのまま右耳に無線のイヤホンを押し当てる。怠すぎる。こんな講義受けてられるか。……そう堂々とサボりを決め込んだところで、肘が右隣からつつかれる。其処に居たのはツーブロックショートの男性────翠の同期で、同じ天璇大学の卒業生で、そしてこの附属病院で心臓血管外科をしている医師、
「おいおい、変わってないね翠。その肝、太すぎるんじゃないの~?」
彼はにやにやと笑みを貼り付けたまま、大学時代と変わらないテンションでそう耳打ちしてくる。翠は一度、教鞭を奮う教授……
「だってつまんないじゃん。なんで今更、大学でやった事のおさらいしなきゃなんねぇんだよ」
「それだけ大事な事だからだろ。魔法抗体、アレ凄い発明じゃん。お前のパパも開発に参加してたんだろ?すげぇなぁ」
「パパ呼びすんな、気持ち悪い。しかもリーダー降ろされたんだし、凄くねぇよ」
一度、視線をスマートフォンに落とす。黒い画面から鮮やかな画面に移り変わり、それはパスワードの入力を求めた。迷いのない手つきで数字を打ち込んでおく。
……父親とは、中学校卒業後から一度も連絡を取っていない。別に嫌いだとか、煩わしいだとか、そういう訳ではない。けれど、翠には父親と連絡を取る事が「いけない事」であるという確信があった。
「考えてもみろよ、親父がちやほやされてんの見て、面白くねぇだろ」
反射的に、父親を毛嫌いしているような台詞が喉元から突いて出る。言葉にしてから、余計な事を言ったと後悔した。けれど佑貴は「なんでだよ」と眉を下げて笑う。おおよそ、翠がまだ思春期のお子様だと思っているのだろう。
「嬉しいだろ、家族じゃん。何、反抗期?」
「違いますぅ」
売り言葉に買い言葉で返す。
家族の話は、あまりしたくなかった。だから一心拍おいて話を逸らす。手元のスマートフォンにアプリを立ち上げると、数秒としないうちに白い画面に円が浮かび、手術配信の準備が始まった。それを眺め、溜息を零して佑貴にこう愚痴る。
「大体さ、俺だってアプリで手術見てるんだから魔法医療がどうのこうの、知らねぇわけがないっつーの」
「あ、そのアプリ、
「母校だから気が知れてるだけ。このアプリちゃんは優秀だよ、そういう点では天璇の事は嫌いじゃないね。俺の才能をいつまでも認めず、挙句の果てにはお偉いさんに売りつけたのは許さねぇけど。絶対此処がチクったせいだろ、診療所に監査が来るの」
「そりゃお前が非魔法医療に固執するのが悪いんじゃない?何でそんなに魔法医療を毛嫌いするんだよ」
「別に深い理由なんてねぇよ。お前、トマト嫌いなのに理由ある?」
「ない。でも食おうと思えば食える」
「俺だって使おうと思えば使えるよ、魔法くらい。天才だし」
声が大きくなっている事に気付いて、一度言葉を区切る。息を吐いて、翠は端末を見下ろした。小さな機械は主の視線に気づくと、現在天璇大学附属病院で行われている一件の手術を映し出す。青白い世界には一切影が落ちておらず、二次元のアニメを見ているような錯覚に陥った。
「魔法だけじゃ、救えない命があるかもしれねぇだろ」
そう、ボリュームを落とした小さな声で零した。
その言葉は、自分に言い聞かせているような音色を含んでいる。自分を、慰めているような音色を含んでいる。分からなくてもいい。知らなくてもいい。……その意図通り、真意を量り損ねた貴は曖昧にふぅん、と頷いた。
小さな箱の奥で紡がれているのは、どうやら外傷の手術のようだった。
……胸部打撲。
────執刀医がメスで小さく線引く。それは直ぐに朱に呑まれ、その銀色の輝きを失わせる。彼は掌の剣を体内に潜り込ませて
ドレーンチューブが差し込まれ、緋色が透明を埋めて流れていく。
「うわ、出血量えぐいな」
いつの間にか、隣の席の佑貴が手元を覗き込んでいた。彼はぼそりとそう零す。……その言葉通り、患者の体内から溢れ出る血液は止まる事を覚えず、血圧と心拍を低下させ続けている。翠自身は魔法を使わないといえど、医師の一人としてここから行われるであろう処置は想像がつく。魔法による、止血処置だ。
執刀医の若い男性が、胸部、左肺の第4~6肋間に指を押し当てる。数秒間の沈黙。その後に聞こえる、三文構成の呪文。それは教科書に載っているものをなぞったように正確で、初歩的なものだった。成功だな、コレ。そう安堵し、目線を教授に戻そうとして────。
視界の中央に、紅の薔薇が咲き誇った。
それはドレーンチューブを引き抜いて、楕円の軌跡を描いて高く花開き、医師達の纏うくすんだ青のガウンを赤く染め上げる。ひ、と悲鳴が聞こえた。それは箱の中の彼等のものであり、同時に隣の席の佑貴のものでもあった。
看護師がバイタルの低下を叫ぶ。モニターが危険域を嘆く。目の前の命が、喧噪の中で尽きようとしていた。
「俺の出番、かな」
翠はそう一言呟くと、スマートフォンをポケットに収める。主の指示で黒い画面に戻った端末は、それ以上を綴らない。言わなくてもいい、これから実際に目にするのだから。エメラルドの瞳を希望で満たし、教授の生温い講義を遮って立ち上がる。何十という視線が、細い体に注がれた。
「すみませぇん、俺、行かなきゃなんで」
は?と本郷教授の鋭利な言葉が飛んでくる。常識外の行動に、講堂がざわめきに包まれた。……ま、そりゃそうなるよな。でも、だからといってどうもしねぇけど。肩でひとつ呼吸をして、講堂の扉に向けて足を進める。
「許すわけなかろうがアホ。立つな、動くな喋るな櫻田」
「そんなの言ったって聞きませんよ。俺、アホなんで」
「お前なぁ、また俺の講義シカトする気かよ!大学時代も俺の講義で居眠りしてただろ!そんなに眠いか!!」
「もう子守歌ですよ。本郷教授の声を流して毎晩寝たいくらいです」
「そうかよ!卒業してちったあ成長したと思ったらまだクソガキみてぇな事してんのか!」
「褒めても何も出ませんよ、そんな、天才だなんて」
「褒めてねぇわ!」
口調は軽い。けれど真剣だった。その双眸が、真っ直ぐに教授を射抜く。笑顔が消えた瞳に宿るのは、ただ一つの意志。誰かを救う、命を救う、そのための覚悟。
息を呑む音が、聞こえた気がした。翠は不敵に笑い、ドアに掛ける手に力を込める。……本郷教授の表情は、「何がコイツをこんなにも駆り立てている?」という疑問を分かりやすく投影していた。これで分かるだろ、という意味を込めて扉を数センチだけ開けてやる。その隙間から、外界の喧騒が室内に流れ込んだ。
講堂の外から、看護師が焦った声で輸血の追加を叫ぶ声が聞こえる。ナースシューズの軽快な足音が響き渡り、講堂の近くにあるナースステーションが慌ただしくなるのを一同は感じた。教授が小さく、「手術か」と零した。
「教授、お分かりでしょうけどマジで今それどころじゃないんですよ。手術にカチコミに行かなきゃ」
「あぁうん、手術、患者……」
混乱したように繰り返しながらも、彼は察していた。今病院で手術をしていて、そこで何かよからぬ事が起きて、目の前のコイツが助太刀に行きたいと宣っているのだと。彼も馬鹿ではない。櫻田翠という人間が、人一倍正義感を感じている事をよく知っている筈だ。
「チッ、あーーーもーーー!」
混乱のピークに陥った教授がそう声を荒げると、講堂に居る若い医師……特に女性の医師はびくりと身体を震わせる。彼女達に非はないのに、可哀想に。そう思いながら、導き出した結果を聞こうと翠は彼を見上げる。本郷教授はひとつ息を吸うと、自身の中の想いを無理やり呑み込んだ。その判断が最善かなど、誰も分からない。けれど、その判断をするのが彼の仕事であったので。
「兎も角駄目だ駄目だ!お前そもそも附属病院の医師じゃねぇだろ。手術なんて────」
それでも翠は引き下がらない。例え言葉で静止されようと、自身と教授の間ある距離が、物理的にそれを阻んでいる。止めようと言ったって、無駄なのだ。特に、この眼に救済への渇望が宿っている時は、ね────金属を握る右手に、ぐっと体重を乗せる。
扉を、一息に開いた。宵闇のような講堂に、
「命が懸かってる。こんなところでダルい講義受けてる場合じゃないんだよね。じゃ!」
「あッ!!おい!櫻田ッッ!!」
混乱と混沌が場を包む。翠の隣の席で事の一部始終を見ていた佑貴だけが、「またかよ、変わらねぇな」と苦笑いしていた。
満ちる生温い視線を切り裂いて、廊下に躍り出る。スクラブを纏った看護師が、焦りながら輸血用の赤血球製剤を抱えて走っていた。……手術室へのナビゲーター、見っけ。そう彼女達を捕捉したところで、窓辺に佇んでいたメディと合流する。彼女は勘が鋭い。説明がなくとも、これから何が起こるのかを識っているように翠に笑いかける。
「おにーさん、出番だね」
「待ちくたびれたよ。ヒーローは、遅れて登場するのが鉄板だからな」
廊下を踏みしめて、踵を持ち上げる。きゅ、とリノリウムの床が高く啼いた。まるで、海鳥の鳴き声のようだった。
彼等は駆ける。純白の天使の檻で、見知らぬ誰かの命を救うために。
焦りを孕んだ呼び声も、絶望を謳う放送も────翠には全て、自身の登場を祝うファンファーレに聞こえていた。