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Chapter04:奉祝のオペラツィオン

手術室の自動ドアが開く前から、翠はけたたましいモニターの警告音と血の匂いを感じていた。まるで「地獄へようこそ」と、誰かが耳元で嘲笑うような光景。それらを振り切って金属製のドアをくぐると、視界に飛び込んできたのは血塗れの手術台だった。消毒済みの患者は成人男性で、彼の左脚から滴る血液が床に紅い水溜まりを作っている。医師達が慌ただしく駆け回り、中央では画面越しに見た執刀医が汗だくで叫んでいた。


「〈繕結ぜんけつ〉、〈蘇脈そみゃく〉、〈培生ばいせい〉、全部ダメですッ!!治るどころか悪化しま────」


その声が言い切られるより早く、再び患者の創部から飛沫が上がった。まるで噴水だ。深紅の噴泉。鮮血が頬を濡らし、彼は後退って悲鳴を上げる。


「も、もう無理ですッ……!も、も、もう……」

「焦るな!呪文が駄目なら魔法式の詠唱がある!直に異界にアクセスして概念を持ち出せば────」


ビビビッ、モニターが泣き叫ぶ。言葉を紡いでいた第一助手の男、一色怜が焦りながらそちらに目を遣った。血圧が急低下し、酸素飽和度が80を切っている。第二助手の男────彼も翠は知っていた。ベテランの神楽岡かぐらおかだ。彼が低い声で「また魔法医療適応にねぇ患者か」と唸る。


「また、とは」


怜が冷静にそう問い返す。室内は既に、緋色に侵蝕されつつあり、誰しもの顔に絶望が滲み出していた。


「隠すべきなんやろうけど、どうせ櫻田から聞いとるやろ。アイツのパパが執刀代わったオペや」


そう言いながら、臙脂えんじに染まった親指でくいと入口が示される。指先に佇む翠に視線が集中して、怜が驚いたように「櫻田」と呟いた。

その視線を一身に浴びながら、手術室に堂々と入室する。手術の全体像は、既に頭の中で組み上がっていた。


────胸腔ドレナージを試みたようだが、出血量は500ccを超えている。頭はガーゼで巻かれ、後頭部からの出血は少ない。腹部は脾臓ひぞう損傷のリスクがあるけど、今は胸と脚が優先だ。


そこまで悟って朗らかに、コンビニに入店したような気軽さで微笑んだ。


「久しぶり、此処で働いたんだな、怜」

「黙れ。……どうやって入った」

「んー?ちょっと、うちに『概念を喰べる』悪魔が居るんでね」


もう一度、手術室の扉が開かれる。地獄へ足を踏み入れたのは手洗いを終えたメディだ。彼女は翠と同じような笑みを浮かべながら「美味しかったよぉ、シャーベットみたいで」と応えた。

……メディヴァは呑噬どんぜいの悪魔だ。概念や事象を喰らい、無かった事にする力を持つ。その権能をもって、彼女に「部外者」という概念を無に帰させたという訳だ。


「……どうするつもりだ」


怜の冷静な声が、焦燥感と緊迫感に包まれた室内に木霊する。それに相反して、翠は穏やかな日常会話のようなトーンで言葉を置いていく。疑念も恐怖も必要ない。何せ、必ず助かるのだから。


「どうするって、俺がやるに決まってるでしょ」


不敵な笑みを浮かべて滅菌ガウンに袖を通す。執刀医「だった」若い男性はそれを止める事も出来ず、呆然と眺めて────だがコンマ数秒後に現実を思い出したのか、無理ですと言い寄ってきた。


「ど、どちら様か存じませんが無理ですッ!魔法医療を試みても────」

「あんた、名前は?」


そう問いかけた言葉に対し、男は混乱する中で視線を彷徨わせながら此方を見上げた。

翠の身体は、手術に耐えられるとは思い難い華奢な線を描いている。腕は細く、そして白く、透けて消えてしまいそうだと、診療所に通うお年寄り連中によく言われたものだ。

けれど、彼等はこうも口にする。曰く────「どうしてお前は、これほどまでに自分達に期待させるのだろう」、と。

男の唇が、動いていた。


「……朝比奈、です。朝比奈透麻あさひなとうま

「そ。朝比奈くん、今魔法医療って言った?」

「い、言いました。他に何が、」


あまりに可笑おかしかったもので、その言葉を遮って翠は笑う。けらけらと、無邪気に、子供のように。それに対しての彼の反応?そんなもの、言うまでもないだろう。

……悪魔か何かか?こんな現場で、笑うなんて。

そう恐怖して、咎めようとして────朝比奈の息が止まる。翠の瞳は、決して笑っていなかったから。


「魔法医療?ははっ、そんなちゃちなもので治せるなら、医者なんて要らないんだよね」

「え────」

「朝比奈くん、貸して?俺、天才だから。魔法なんて使わなくても、ぱぱっと治してやるよ」


ハイ、と右手を差し出せば、朝比奈は一度硬直して右手に目を遣った。ようやく、自身の腕の中にメスが握られている事を思い出したのだろう。魔法で治す事を固執して、この銀の剣の存在をすっかり忘れていた、と。雄弁な彼の態度が動揺と、確かな期待を語っている。


……眼前の翡翠色の男は、「これ」で、非魔法で、治すと言うのか?救うと言うのか?

もしそれが叶うなら────それこそ、本物の魔法だ。


彼は迷った。けれど……そっと、その手に剣を預ける。聖剣を引き抜くように、銀の刃がすらりと翠の掌へと滑り込む。任された。確かに、受け取った。白銀の光を纏ったそれは、自身の役目を全うできる事に歓喜しているように思えた。


「……親が親なら、子も子かよ」


神楽岡が微笑を匂わせるニュアンスでそう零す。だが次の瞬間、彼は第一助手のポジションに着き直して術野を睨んだ。


「今から無茶やる。執刀医交代、朝比奈は下がれ!俺が第一助手やる、一色は第二助手。いけるな」

「……神楽岡さんが、そう言うのであれば」

「うし。器械出しは続けて宵宮よいみや水無瀬みなせは輸血あったか!?」

「あ、ありましたッ!AB型Rhプラス、可能な限り持ってきました!」

「完璧や!今から非魔法による緊急開胸術並びに大腿動脈結紮術だいたいどうみゃくけっさつじゅつをやる!」


翠は一度、バイタルモニターを見上げた。下がり続ける生命の証明は、救われる時をまだかまだかと待ち構えている。……勿論、救ってやる。完璧に。そう心で繰り返して、口角を持ち上げた。

翡翠色の瞳が、情熱に灼かれている。


「────|Die Operation Beginnt《手術開始だ》!」



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