手術室の自動ドアが開く前から、翠はけたたましいモニターの警告音と血の匂いを感じていた。まるで「地獄へようこそ」と、誰かが耳元で嘲笑うような光景。それらを振り切って金属製のドアをくぐると、視界に飛び込んできたのは血塗れの手術台だった。消毒済みの患者は成人男性で、彼の左脚から滴る血液が床に紅い水溜まりを作っている。医師達が慌ただしく駆け回り、中央では画面越しに見た執刀医が汗だくで叫んでいた。
「〈
その声が言い切られるより早く、再び患者の創部から飛沫が上がった。まるで噴水だ。深紅の噴泉。鮮血が頬を濡らし、彼は後退って悲鳴を上げる。
「も、もう無理ですッ……!も、も、もう……」
「焦るな!呪文が駄目なら魔法式の詠唱がある!直に異界にアクセスして概念を持ち出せば────」
ビビビッ、モニターが泣き叫ぶ。言葉を紡いでいた第一助手の男、一色怜が焦りながらそちらに目を遣った。血圧が急低下し、酸素飽和度が80を切っている。第二助手の男────彼も翠は知っていた。ベテランの
「また、とは」
怜が冷静にそう問い返す。室内は既に、緋色に侵蝕されつつあり、誰しもの顔に絶望が滲み出していた。
「隠すべきなんやろうけど、どうせ櫻田から聞いとるやろ。アイツのパパが執刀代わったオペや」
そう言いながら、
その視線を一身に浴びながら、手術室に堂々と入室する。手術の全体像は、既に頭の中で組み上がっていた。
────胸腔ドレナージを試みたようだが、出血量は500ccを超えている。頭はガーゼで巻かれ、後頭部からの出血は少ない。腹部は
そこまで悟って朗らかに、コンビニに入店したような気軽さで微笑んだ。
「久しぶり、此処で働いたんだな、怜」
「黙れ。……どうやって入った」
「んー?ちょっと、うちに『概念を喰べる』悪魔が居るんでね」
もう一度、手術室の扉が開かれる。地獄へ足を踏み入れたのは手洗いを終えたメディだ。彼女は翠と同じような笑みを浮かべながら「美味しかったよぉ、シャーベットみたいで」と応えた。
……メディヴァは
「……どうするつもりだ」
怜の冷静な声が、焦燥感と緊迫感に包まれた室内に木霊する。それに相反して、翠は穏やかな日常会話のようなトーンで言葉を置いていく。疑念も恐怖も必要ない。何せ、必ず助かるのだから。
「どうするって、俺がやるに決まってるでしょ」
不敵な笑みを浮かべて滅菌ガウンに袖を通す。執刀医「だった」若い男性はそれを止める事も出来ず、呆然と眺めて────だがコンマ数秒後に現実を思い出したのか、無理ですと言い寄ってきた。
「ど、どちら様か存じませんが無理ですッ!魔法医療を試みても────」
「あんた、名前は?」
そう問いかけた言葉に対し、男は混乱する中で視線を彷徨わせながら此方を見上げた。
翠の身体は、手術に耐えられるとは思い難い華奢な線を描いている。腕は細く、そして白く、透けて消えてしまいそうだと、診療所に通うお年寄り連中によく言われたものだ。
けれど、彼等はこうも口にする。曰く────「どうしてお前は、これほどまでに自分達に期待させるのだろう」、と。
男の唇が、動いていた。
「……朝比奈、です。
「そ。朝比奈くん、今魔法医療って言った?」
「い、言いました。他に何が、」
あまりに
……悪魔か何かか?こんな現場で、笑うなんて。
そう恐怖して、咎めようとして────朝比奈の息が止まる。翠の瞳は、決して笑っていなかったから。
「魔法医療?ははっ、そんなちゃちなもので治せるなら、医者なんて要らないんだよね」
「え────」
「朝比奈くん、貸して?俺、天才だから。魔法なんて使わなくても、ぱぱっと治してやるよ」
ハイ、と右手を差し出せば、朝比奈は一度硬直して右手に目を遣った。ようやく、自身の腕の中にメスが握られている事を思い出したのだろう。魔法で治す事を固執して、この銀の剣の存在をすっかり忘れていた、と。雄弁な彼の態度が動揺と、確かな期待を語っている。
……眼前の翡翠色の男は、「これ」で、非魔法で、治すと言うのか?救うと言うのか?
もしそれが叶うなら────それこそ、本物の魔法だ。
彼は迷った。けれど……そっと、その手に剣を預ける。聖剣を引き抜くように、銀の刃がすらりと翠の掌へと滑り込む。任された。確かに、受け取った。白銀の光を纏ったそれは、自身の役目を全うできる事に歓喜しているように思えた。
「……親が親なら、子も子かよ」
神楽岡が微笑を匂わせるニュアンスでそう零す。だが次の瞬間、彼は第一助手のポジションに着き直して術野を睨んだ。
「今から無茶やる。執刀医交代、朝比奈は下がれ!俺が第一助手やる、一色は第二助手。いけるな」
「……神楽岡さんが、そう言うのであれば」
「うし。器械出しは続けて
「あ、ありましたッ!AB型Rhプラス、可能な限り持ってきました!」
「完璧や!今から非魔法による緊急開胸術並びに
翠は一度、バイタルモニターを見上げた。下がり続ける生命の証明は、救われる時をまだかまだかと待ち構えている。……勿論、救ってやる。完璧に。そう心で繰り返して、口角を持ち上げた。
翡翠色の瞳が、情熱に灼かれている。
「────|Die Operation Beginnt《手術開始だ》!」