「止血帯、左脚に巻いて。
流れるようにそう、指示を飛ばす。宵宮、と呼ばれていた金髪の看護師が慌てて止血帯を巻いた。手際の良さには自信がある。そうでもないとワンオペで家事と医師業の両立なんて出来ねぇし。左脚に花開いた紅の様子をチェックして、胸部に視線を向け観察する。
そもそも翠は患者の名前も事故の事も、外傷の状況も知らない。けれど、全てが視えていた。刹那、怜が眉間にしわを寄せている事に気付く。思えば彼は大学時代から不愛想なヤツだった。翠が彼を見て否が応にも過去を思い出しているように、彼もまた大学時代を思い出しているのか。……そうふと考えながら彼に目を遣ったときには、既に深いしわは消えていた。余計な思考を働かせる暇はないと悟ったのだろう。
「魔法で肺の血管が裂けたんだな、リブスプレッダー、電メス」
「はいッ」
声を掛けながら左胸を睨む。第5肋間、
メスを皮膚に当てがうと、真っ直ぐに線引く。まるで定規を用いたように正確に引かれたナスカの地上絵は即座に紅に染まり、創部は「切られた」という概念を認識してぱくりと割れる。その割れ目に手を潜り込ませて────そこには既に電気メスが握られていた。じゅう、と煙がたなびいて焦げた匂いが鼻腔を襲う。組織が避けるように道を開き、奥に見えてきたのは白い第5肋骨だ。血に濡れた肋骨を露出させ────その下で折れた第6肋骨が肺に突き刺さっている。
「ハイ、リブ~」
「はぁい」
いつの間にか、隣にはメディが居た。それに対して特に何も言う事はなく、リブスプレッダーを受け取る。肋骨が押し上げられ、胸腔が開く。左肺が、血に染まって震えているのが見えた。……仰向けのせいで肺がやや平たく広がっている。視野も狭い。けれど、翠の手は医術の神に導かれているように迷いなく動いた。細い血管から血液が噴き出し、魔法の残光が傷口を朱く縁取っている。
「次、止血鉗子」
血管を掴み、素早くクランプ。すると即座に
「神業だ……」
外野に放り出された朝比奈が、ぼんやりと零したのを聞いた。
無影灯に照らされた彼が、神様のように見える、と。緋色に染まった床さえも、彼を讃えるレッドカーペットのように思えてしまう、と。
────そんな彼に気付いた翠の瞳が細められた。
……言ったでしょ?俺、天才だから。そうテレパシーを送りながら、次の施術箇所に意識を向ける。
「ハイ、肺は何とかなった。次、脚ね。神楽岡さん、何だっけ」
「左脚、解放骨折して大腿動脈が損傷しとるけん〈繕結〉……間違えた、非魔法なんやったな。
「オッケー。結紮する。メディ、鉗子追加」
興味の矛先が、左脚に移り変わる。骨が皮膚を突き破った左脚は深緋の雫を滴らせていて痛々しい。しかし勿論、それに怯む事などせずに傷口を広げていく。ごめんな、痛いよな────心の中で声を掛けて術野を睨む。薄く透き通るような肌に紅い椿が咲いており、筋肉を掻き分ける度に血が噴き出して花弁を形作る。大腿動脈、パックリじゃん。翠はげんなりしながら血管鉗子に動脈を噛ませた。
「8―0」
差し出した右手に、
まるで蝶が羽ばたくように、
「動脈おわり。骨ね、
「櫻田、言葉遣い」
「いーじゃん怜、リラックスして行こうぜ?助かるから。何たって、俺が助ける」
宵宮が髄内釘を渡す。川が流れて海に注がれるように、極めて自然に────翠は
骨を固定した後は、傷口の洗浄と抗生剤の投与。ハイ、これでおしまい。満足して微笑みながら、次の不安箇所を口にする。飄々とした性格は自分でも認めるが、下す判断に隙を生んだら医師としておしまいだ。
「怜、腹部は?
……腹部外傷に気付いていたか。怜はそうひとつ呟いて、短く息を吐く。目線が一度モニターに向けられ、次に映したのは奇跡を紡ぎきった執刀医だった。
「血圧は安定してきた。腹部エコーだと脾臓からの出血は軽度だ。自然止血の範囲だろう」
「ほんとに~?そう言って腹部からブシィ!なんてないでしょーね?」
「俺の診察を疑うのか、櫻田翠」
「あ、怜の判断?なら安心か」
うんうんと頷いて、看護師に糸とワイヤーを要求する。再び流れ出す仮想のクラシックを背に、ロンドが再開された。肋骨をワイヤーで閉じ、筋肉と皮膚を縫合する。身を寄せ合った真皮は、ロミオとジュリエットのように愛を伝え合う。戯曲の最後と異なるのは、結ばれた命は絶たれる事なく息づいている、という結果だろうか。モニターの緑のランプが点灯し、酸素飽和度が95に戻った。……手術、終了。翠は汗を拭い、ガウンを脱ぎながら笑う。
「な?終わったでしょ?俺の天才ぶりに感謝しろよ」
信じられない、と朝比奈が零す。静寂に戻った手術室で、その言葉は全員の鼓膜に届いていた。
「ほんとうに、救った……夢、じゃないですよね……」
「ちょいちょい、俺の活躍を夢で終わらせないでくれない?現実ですぅ、朝比奈くん」
「だ、だって、おれ、おれ……ッ」
へな、と膝から力が抜けて、朝比奈はその場にへたり込んだ。深紅に染まったマスクの中で、大粒の涙が溢れている。
「魔法を使った瞬間、血がッ……おれ、あんなの、はじめてで、おれ……っ」
神楽岡がガウンと手袋、マスクを脱いで彼の肩を叩く。「非魔法医療も捨てたもんやないっつう事や。いい勉強になったと思え、朝比奈」と励ますも、朝比奈の心の傷は深いようで。……無理もないかと思う。通常のオペで血が噴き出す事などそうそうないのだから。
「神楽岡ざぁん……」
「おーよしよし、泣くなお前、何歳よ?」
「にじゅう、ななでず……」
「2.7歳に見えるやろ。ほら泣くな、しゃんとせえ、緊急科医・朝比奈透麻」
「うぅ……」
泣きべそをかく朝比奈をなだめながら、神楽岡の視線が此方に向けられる。彼は命を救って見せた英雄に対し、にへらと笑ってみせた。思えば、彼が執刀を許可してくれなければ今の平穏は無いのだ。感謝、しねぇとな。翠は深く、頭を下げる。
「神楽岡さん、あざした」
「いやいや俺の方が頭下げたいわ。翠、お前、神の腕やな」
「神なんて顎で使ってやりますよ」
「ははは、おもしれー男。その自信、ちぃとパパに分けてやれ」
「嫌です、減ったら困る」
「クソガキがよぉ。へへ、助かったわ。本気で神に感謝。俺、キリスト教入っちゃおっかな」
クソガキ、と言いながらも神楽岡の瞳は微笑んでいる事に気付く。彼の性格を知っているからこそ、翠も軽口を叩いて笑い合う。緊張に包まれていた手術室の空気が緩んでいく。看護師も呼吸の仕方を思い出して、先程までの悪夢と吉夢を交互に脳で繰り返す。卒倒しそうなほど、濃すぎる記憶だった。
────その空気が、一人の男の入場により凍り付く。一同が息を呑んだ。ひゅ、と呼吸が止まる音さえ聞こえ、翠は彼を見上げた。
白衣の胸元に金糸の院章。
彼の姿を認めた瞬間、気温が十度下がった気がした。快適な温度に保たれている筈の手術室が、極寒の冬空の下と化す。居心地の悪さから周りを見回せば、一同の顔はみるみるうちに青ざめて、朝比奈などは泡を吹いて倒れそうな顔色になっていた。
……まぁ、そうなるよな。世の中そんなに上手く事が進む訳がない。そうであるからこそ、翠は「異端児」なのだから。
手術の記録は全て保存され、OPE・STREAMによって全世界に公開されている。部外者の侵入、魔法を用いない治療、どれを取っても規則違反の烙印が押されかねない。叱られる。首を刎ねられるとさえ思う。重すぎる空気がのしかかり、「部外者」の翠でさえもその場に縫い留められるような感覚を覚えた。
……だが、三ツ橋はただ静かに告げる。そこに余分な感情は無かった。厳粛な空気が場を呑み込んで、手術室は一瞬の間にこの男に支配された。
「……救えたのならば、それで良い」
誰も言葉を返せなかった。緊張の糸が張り詰められたまま、彼は続ける。その視線が自分に向けられている事を悟って、ごくりと喉が鳴る。院長は翠の瞳の奥に瞬く黒星を見つめながら、微弱に乾燥した唇を開いた。
「当学において、そして当院においては、魔法医療が第一選択である事は知っているか」
「知ってますよ。俺、天璇大の卒業生ですし。嫌ってほどに」
そう、無理やり涼しい顔で返す。別に彼に対して挑戦しようなどと思っていない筈なのに、喉から漏れた声はいやに挑発的だった。
院長はその言葉に、僅かに目を細める。黒く細い瞳孔が翠を捉えていた。
「ならば、魔法の偉大さも知っている筈だ」
「勿論。1880年から1900年にかけて起きた魔法革命。異界の存在が明らかになり、概念を操る法則────情報法則を現実に転写する技術、即ち魔法が解明された。そのルネサンス以前に一度栄えた古代の知識が、現代科学を凌ぐ最先端になるなんて。
「……その上でお前は、魔法を用いないと?」
「当然です。俺、魔法が嫌いなんで」
邪念の無い、きっぱりとした声で返しておく。たった今「魔法は偉大であり、この病院ではそれを用いる事が第一選択だ」と改めて示されたばかりだというのに、翠はそれを正面から否定する。院長の眼光が鋭くなった。
「そうか。腹を割って話す気はないようだな」
「別につっぱねてる訳じゃありませんよ。院長の貴方がこの病院を、ここまで育て上げた事は承知してます。ここで日々最先端のオペが行われている事も、魔法抗体研究部門が導き出した、世界に誇る成果も。俺の親父がその部門にいましたからね。魔法抗体がいかに凄いかも、骨の髄まで知ってますよ」
肩をすくめ、少しだけ笑ってみせた。挑発的に、無邪気に、けれど────どこか自虐的に。
「でも俺個人としては、魔法を使いたくない……ただそれだけです。ま、この才能を銀河に轟かせたいって欲はありますけどね」
院長は暫し沈黙する。彼の威圧によって停止した手術室の時間は、久遠にも感じられる休符を描いていた。その休止の末、彼は僅かに頷いて。そのたったひとつの動作を受けて、空気が微かに緩むのを感じた。
────非魔法医療に固執しているといえど、翠の腕が一流である事はこの場の誰もが分かっている事であろう。何故ならたった今、それをまざまざと見せつけてやったのだから。医療とは、常に「想定外」の連続だ。頑なに正攻法を掲げていては救えない命が出てくる。翠の信条でもある「それ」を知っているから、三ツ橋は静かに「そうか」と告げて
「……有事があったら頼ろう。名は」
それに対して、悪戯に笑ってこう答える。
「櫻田翠。医学界の異端児です」
「はは、自分でそれを言うか。面白い男だと思えば、そうか……櫻田の。成る程……立派に育ったものだな」
院長の瞳には、ほんの一瞬だけ……懐かしさと、誇らしさが宿っていた。
暫くして、患者は集中治療室へと運ばれていった。院長は手術室に背を向け、金属の扉が閉ざされる。駆動していた電子音は眠りにつき、室内はしんと静まり返った。
────『〈繕結〉、〈蘇脈〉、〈培生〉、全部ダメですッ!!治るどころか悪化します!』
朝比奈の悲痛な叫びが、術後の彼等の脳内で反響していた。
魔法医療の適応にない患者。何が、普通の患者と違うというのか。何が、起こっているというのか。
翠は地面に滴り落ちて完成した、紅の湖を睨んでいた。これは、緋色の海に浮かぶ氷山の一角に過ぎないのだと、その海中には大きな問題が潜んでいるのだと────そう、確信めいた感情を抱いて。