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Chapter06:シャルラッハロートの鎖

『手術はあくまで一手段に過ぎない。患者の人生を支えるのが医師の〝仕事〟である。それを忘れていては、医師ではなくただの技術屋だ』

……どこかの小説のフレーズを、翠は思い出していた。


午後五時。病院の窓の外には、夕暮れの色が滲んでいた。

高層階の廊下を照らす陽はオレンジ色に傾き、その光が硝子越しに病棟を静かに染めていく。日勤の看護師が交代の支度を始め、ナースステーションに漂う空気も、どこかセンチメンタリズムを覚えさせた。


翠はカルテを一枚持ったまま、ICU────集中治療室の前に立っていた。面会禁止の札が掲げられた自動扉の前で一度立ち止まり、無言でIDカードをかざす。これは神楽岡から借りたものだ。これで俺という部外者の入室を許可するなんて、病院のセキュリティもガバガバすぎるだろ。そう思案しながらも「俺を神楽岡さんだと思って開けてくれてありがとう」という気持ちの方が強かったので、このセキュリティの脆さには感謝する事にしておいた。


ひんやりとした空気、微かに鼻を突く消毒薬の香り。モニターの電子音が、一定のリズムで命を証明している。患者達は皆、瞼を閉ざして眠りについていた。

その中のひとつのベッドの傍で、翠は足を止めた。

数時間前、自らの手で救い出した命。まだ意識は戻らず、呼吸器に繋がれた胸が微かに上下している。酸素マスク越しに僅かに漏れる息の曇りが、命の灯火を支えていた。


カルテを確認しながら、ゆっくりと息を吐く。

脈は安定。出血も止まり、術後の処置も順調。問題ない────しかし、それだけでは、足りない。


ふと、患者の手に視線を移す。そっと、その手に自分の指を添える。冷たくはない。小さくとも確かに、生きている熱が宿っていた。


「……医者は、手術だけが仕事じゃない」


夕陽が、ICUの硝子から柔らかに差し込む。淡い光の中、翠の横顔が静かに浮かび上がる。


「切って、縫って、それで終わりなら楽なんだけどな。こうして見に来て、声を掛けて、目が覚めるまで待って────やっと、『生きてる』って言える」


患者の手を包み込むように握り、翠は小さく笑った。

それは、『初めて』では無かった。

はじめは、封じ込めた記憶の中の。

そして医師になってからは幾千と繰り返した、祈りの儀式。


「……俺に出来るのはそこまでだ。あとはお前が、お前自身の力で戻ってくるんだ。医者ってのは、命を治す職業なんじゃなくて……『命に寄り添う』仕事だから」


病室のモニターが、心拍のリズムを刻み続けていた。それは時計より少しだけ速いテンポで、時間が過ぎゆく事を謳っている。

もう直ぐ、夜が来る。けれど、その前に、あと少しだけ────。


────そこで、ICUの扉が再び開かれた。


思わず目を遣る。

センター分けにした艶やかな髪は青みを強く帯びていて、夕空の下で紫色に輝いて見える。その下に埋め込まれた目鼻は整っており、長い睫毛と薄い唇が彼を讃えていた。先程のドクタースクラブから着替え、スーツの上に白衣を纏っている。そういえば医学生時代も好んでスーツを着ていたような気がする、と記憶を手繰り寄せる。

……一色怜。数時間前にあの手術室に居た、翠の同期であった。


「怜」


どうして此処に、という言葉を呑み込んでそれだけを口にする。それに対して怜は何も言わず、つかつかと歩み寄って────そして、翠の胸倉を掴んで引っ張った。白衣の下のくたびれたTシャツがぐいと引かれて、後ろ襟がうなじに食い込んで。驚きを隠すように、反射的に強い口調で彼を咎める。


「何、すんだよ」

「黙れ。よくもあんな、危険な真似を」

「ハァ?意味、分かん、ねぇッ」


手を引き剥がす。ばさ、と二重の衣擦れの音が室内に木霊した。掴み上げられた前襟は伸びきっていて、中に着ていた黒のタンクトップが細く浮き出た鎖骨の下に覗いている。

あんな危険な真似を?ざけんな。あれしか、救える見立てが無かったというのに!


「相変わらずダイヤモンドみてぇに硬い頭しやがって。お前の場合、ウルツァイト窒化ホウ素みたいな、名前もカチカチな物質の方がお似合いか?」

「五月蠅い。お前こそ、脳が猿人から進化していないようだな」

「はぁ~~?喧嘩なら買うけど?その綺麗な顔、ぶん殴ってやるよ」


コイツ。本気で殴りそうになるのを何とか理性でストップをかける。医師として、社会人として人を殴るのはどうなのか……というありふれた一般論ではない。殴ったらコイツは涼しい顔で「暴力でしか問題を解決出来ないとは、哀れだな」とか言ってくるからだ。その手には乗らない。乗ってたまるか。

怜は絶対零度にも思える冷たい視線で翠を穿った。その言葉からは、嫌悪が隠しようもなく滲み出ている。


「まだ非魔法医療に縋っているのか。患者の負担もコストも跳ね上がる無駄な手間……時代遅れにも程がある。何がしたいのか知らんが、そんなたわけた真似を続けるな。『船に刻みて剣を求む』────まさにお前のためにある言葉だな、櫻田翠」

「へぇ?言うね、怜」


翠は怜の冷たい視線を真正面から受け止めた。非魔法医療へのこだわりを「時代遅れ」と切り捨てる言葉に、胸の奥で何かがざわつく。お前に何が分かる────そんな呪いを胸中に抱きながらも、口元に浮かんだのは皮肉な笑みで、喉元から絞り出されたのは挑戦的な言葉だった。


「戯けた真似、ねぇ。じゃ、訊かせてよ。お前の大好きな魔法医療で、患者の血が噴き出したのをどうやって止めるつもりだったんだ?魔法陣でも描いて祈っとくか?教科書を探して呪文を片っ端から試すか?そうこうしてる内にオペ室は血の海になる。俺が割り込まなきゃ、今頃あのモニターは直線を引いてたと思うけど?」

「ッ」


怜の瞳が一瞬細まる。言葉が刺さった事は直ぐに分かった。何せ、目の前のコイツに刺さるような言葉をわざわざ選んだのだから。魔法医療を信仰する彼に対して「魔法じゃ救えなかっただろ」という事実を突きつける。別に、彼を貶めたい訳じゃない。傷つけたい訳じゃない。魔法医療を、馬鹿にしたい訳じゃない。けれど、それが正義で非魔法は悪だと罵られたら、違うと言い返したくなるのが人間の性なのだ。三十にもなって、ガキだな、俺。翠は心の中でそう自嘲した。

怜は表情を崩さず、低い声で返す。


「……魔法が失敗したのは認める。だが、それは適応を誤った朝比奈のミスだ。お前が勝手に割り込む理由にはならん」

「朝比奈くんに罪を着せるのかよ。人として最低だからな、それ。指示を出したのはお前だろ」

「判断をしたのは執刀医だ。俺が朝比奈の立場なら、素直に非を認める。朝比奈もそれは分かっていた。あの時、あの場に居たチームで事を解決する責任があった。……部外者が手術に手を出すせいで、その責任が曖昧になる。誰がフォローすると思っている?」

「フォロー?ははっ、笑わせんな。俺が救った命だ、責任なら全部背負ってやるよ。お前らが魔法でしくじった分までな」


怜の唇が僅かに引き攣る。さらに畳み掛けるつもりだったが、怜が一歩近付き、声に抑えた怒りを乗せて紡ぐ。


「お前には分からんのか、櫻田翠。魔法医療の適応にない患者が居るのは、極めて稀なケースだ。俺が知る限り、前例は一例しかない。しかしこれで二例目だ。一度目は偶然、二度目は必然。何か理由がある……システムを疑う前に、自分の無謀さを省みろ。こんな事を言いたくはないが、お前を守るためでもあるのだぞ。この後患者は死ぬ可能性だってある。『いつも通り』の医療が遂行される保証は無い。何故なら『』は────」


そこで怜ははっとしたように言葉を区切る。暫く、その強く青を孕んだ瞳が泳ぐ。そして次に彼が零したのは、「お前には関係が無い事だ」という言葉だった。

その言葉に、翠の笑みが消えた。極めて稀なケース。前例。頭の中で、何かが引っかかる。患者の血が噴き出した瞬間がフラッシュバックし、その映像に別の記憶が重なる。雪に染まる赤。「彼女」の冷たい手。叫んだ魔法が効かず、彼女の瞳から光が消えたあの瞬間。


「稀なケース、か」


吐き出した声が小さく震えた。怜がその変化に気付いたのか、眉を寄せて口を開きかけた時────ICUの扉がもう一度、小さな駆動音を従えて開かれる。


「怜、此処に居たか。今日の手術だが……」


低い声が響き、翠の背筋が凍り付いた。その聞き覚えのある声音に、どっと汗が噴き出すのを感じる。心臓が煩く吼え始め、視界がちかちかと点滅するような衝撃を覚えた。間違いない。間違える筈もなかった。

櫻田玄真さくらだくろまさ────天璇の緊急科医で、魔法省の研究医で、そして紛れもない、自身の父であった。


白衣を纏った玄真がゆっくりと病室へ入り、怜に視線を向ける。翠は反射的に目を逸らし、患者のベッドへ視線を固定した。心臓が早鐘のように鳴り響き、手に持ったカルテが細かく震える。

彼の足音が近付く。翠は動けない。


「……翠」


そう、名を呼ばれた。

忌まわしき記憶が、輪郭を象って高い解像度で脳裏を占める。


「……あの日の、話か」


翠の動揺は、言葉にしなくとも「その日」の事を確かに物語っていた。玄真のその一言を受けて、分かりやすい自身の体はびくりと跳ねる。いっそ、呪ってくれ。叱り飛ばしてくれ。お前など子供ではないと、お前など生かしてはおけないと、そう罵倒して────殺してくれ。じわり、目頭が熱くなる。そんな翠に追い打ちをかけるように、玄真は唇を開く。


「翠、あの件は、私が殺めた、ひいろは────」


その言葉が、翠の耳に突き刺さった。

緋。親父が殺した、違う、俺が殺した。俺があの時、魔法を使ったせいで、彼女は────。頭の中で記憶が渦巻き、雪と、血と、メディの歪んだ笑顔が交錯する。足が無意識に動き出した。


「おい、櫻田ッ!!」


怜の声が追い掛けてくるが、翠は聞こえないふりをしてICUを飛び出した。廊下を駆けながら、夕陽のオレンジが硝子に映るのが目に入る。しかしその暖かな陽光が、熱を帯びた廊下が、冷たく、無機質なものに感じて仕方が無かった。シャルラッハロートの夕焼けが、どれだけ走っても執拗に追ってくる。この罪からは逃れられないのだと、この運命には逆らえないのだと、そう嘲るように。

俺が、緋を殺した。あの魔法が失敗したから、メディが……。

頭を振って記憶を振り払おうとするが、たがが外れた記憶の残骸は雪崩を起こして降り注ぎ、脳髄を占めてゆく。足は止まらない。涙も、止まらない。

ICUの扉が閉まる音が遥か遠方で響き、翠は暗い階段の踊り場で立ち止まった。息を切らし、壁に背を預ける。途端に足から力が抜けて、ずるりとその場にしゃがみ込んだ。壁の冷たい温度が、翠を軽蔑している。カルテを握り潰しそうになりながら、小さく、小さく自責した。


「医者は命に寄り添う仕事だ……?ふざけんな」


雫が床にぽたりと落ちる。そんなものを流し、ゆるしを乞う資格など、自身には与えられていないと云うのに。


「俺に、誰かに寄り添う資格なんて、あるわけねぇのに……。俺は、寄り添うどころか……奪っただけじゃねぇか」


ひとごろし。

夕陽が山際に完全に姿を埋めて、病院に夜の帳が降りる。

その闇の中で、翠の瞳は何処か遠くを見つめていた。



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