時刻はいつの間にか、午後十時を回っていた。
穏岬島の夜は、風すらも控えめだった。瀬戸内海特有の穏やかな波が、岸部のテトラポッドに密やかに寄せては返す、を繰り返す。潮の香りはどこか甘く、そして懐かしい。その永久に変わらない風景が、記憶の再現を助長して止まない。翠は無言で窓を閉め、ソファに腰掛けた。
テレビを付ける気にもならなかった。窓に錠をかけて封じ込めたというのに、静かな世界に波が寄せる音が耳へ、そして脳へ直接届く。虫の音も蛙の歌もない宵闇で、明るいLEDの照明だけが彼の心の傷を慰めるように降り注いでいた。
「おにーさん、疲れちゃったの?」
メディの声が背後から響く。振り返ると、彼女がドア枠にもたれ、紅い瞳を
「おじさんはやっぱり疲れるのが早いんだねぇ」
「ほっとけ」
「つめたぁい」
わざとらしく頬を膨らませ、ぴょこんと隣に飛び乗ってくる。いつものようにべたべたと絡んでくる事はしなかった。ただ傍に腰掛けて、静かに翠が答えるのを待っている。翠の目線に映るのは、メディの
……馬鹿。コイツには、関係ねぇだろ。
心を焼き尽くす業火を悟られぬよう、翠は無理やりいつもの口調を取り繕う。
「世界はいつも意地悪なんですぅ。お前に常にチヤホヤしてくれると思うんじゃないよ」
皐月の夜風が窓を撫でて、かたんと小さく啼いた。一度「音」という概念を周知したら、無音の世界が寂しくなる。音が途切れた静寂の中で、空気の重みが増した。
メディが小さく笑う。どうにか、この空気を明るくしたいという努力が垣間見えた。
「ぶぅ。おにーさん、きっとキミの思うほど、世界は意地悪じゃないよ?」
「意地悪だろ」
吐息のような小さな声で、そう零した。
その声が、低く、悲しい音色を従える。
「じゃなきゃ、俺はこんなになってない」
「……。」
メディが言葉を失い、瞳を伏せた。
その紅い瞳が、葛藤に揺れているのが分かる。
……沈黙が、重く深く室内に垂れ込んで。翠の視線は再び虚空に向けられ、十五年前の記憶が、脳内に鮮やかに蘇った────。
***
2010年、12月24日、午後五時過ぎ。
所謂クリスマス・イヴと呼ばれる、聖者の誕生の前夜祭。
広島市の中心街は、あたたかな光に満ちていた。まだ日没から間もない時刻だというのに、ビルの谷間と遊歩道に植えられた木々には橙色のイルミネーションが瞬き、街ゆく人々の頬を照らしている。
雪が舞っていた。
粉砂糖のように、ささやかに、静かに降る白。
広島県────否、中四国地方でこのように、街を白く染めるほどに雪が降るのは珍しかった。そんな光景に、右隣を歩いていた翠の妹・
「雪、珍しいよね。寒波到来って毎年言うけど、今年は嘘じゃなかったね、おにーちゃん」
「お前が期末テストで上位十位に入ったからじゃねぇの?俺言ったじゃん、そんな奇跡起きたら雪か
刹那、右脚に衝撃。緋のブーツが弁慶の泣き所を蹴り上げた痛みに、翠は顔を歪めた。
「いってぇ!!何すんだよ!」
「おにーちゃんがあたしをバカにするからですぅ~。可愛い妹が成績トップ目指すって言ってんのに、それが奇跡だの天災の前触れだの失礼な」
「事実だろ、万年成績底辺組代表」
「あ!あたし口が滑りそう。此処で大声で、おにーちゃんが『余裕』とか言って英検一級受けて撃沈した話、大公開スペシャルしようかな~」
「やめろ!!俺の黒歴史!!」
くすくすと緋は笑う。それを見た翠もまた吹き出した。そんな事をする意志なんてない癖に────そう茶化して言えば、隣の彼女は「しないよ」と微笑んだ。
手も繋いでいないし、好きだなど絶対に言わない。けれど、二人の間には確かな「愛」があった。それは恋情とも友情とも言えない、家族愛。切れぬ縁は、二人の小指に透明な糸を結んでいた。だから安心して、軽口が叩ける。彼女との間にある関係は、その程度で途切れやしないと識っているから。
白い遊歩道に、二つの足跡が並んで進む。その上から再び雪が舞い落ちて、黒い足跡を隠して消していった。
「にしても、雪かぁ」
そう言った彼女の瞳が、すいと上に持ち上げられる。
そこに太陽は無かったし、月も無かった。鉛のように立ち込める厚い雲は暗い灰色で、陽が沈んだのかまだ昇っているのか分からない。まるでシュレディンガーの猫を閉じ込めた箱のように、この雲の裏でどんな幻想的な光景が広がっているのかを隠して、垂れ込める。そこから降り注ぐ白銀の氷の粒が、見上げた緋の頬に落ち、溶けて水滴と化した。
「クリスマスイヴに雪なんて、ちょっとロマンティックじゃない?」
緋はそう言って、兄のコートの裾を引っ張った。翠は片手に紙袋を提げながら肩をすくめる。
「ロマンティックって歳か、お前」
「いいじゃん。そーいう気分なの。今日は特別な日なんだから」
彼女は名前と同じ、赤のマフラーを口元まで引き上げて、瞳を輝かせていた。
その手には、真新しい包み紙に隠されたプレゼント。翠が選び、買ってやったものだった。
────事の発端は、緋が父親である玄真にクリスマスプレゼントを買ってやりたいと相談してきた事に始まった。翠と緋には母親が居ない。母親……
そんな、医師としても父親としても素晴らしい玄真に、ささやかなプレゼントをあげたい。妹のその優しすぎる願いを聞いて、「勝手にやれば?」と言えるほど、翠はひねくれてはいなかった。
人波に揉まれながらも、二人は歩道を進む。笑い声、カラオケ店から漏れるポップソング、そして鐘の音。街中の音が、煌びやかに今日という日を祝福していた。
……だがその中に混じって、翠はふと違和感を覚える。
「………?」
振り返る。だが、何も見えない。
ただそこにはライトアップされた街と、雪が在るだけ。
交差点の信号が青に変わる。アスファルトに引かれた十字の縞模様の上を、人々が一斉に歩き出す。鳩の電子音と雑踏の靴音が響いて、その上に街中の陽気なメロディが重なっている。白い雪面が黒に塗り潰され、人混みが孕む熱が唇に触れた。
横断歩道までには、まだ少し距離があった。走らなければまた赤になってしまうと悟った緋が、ぐいと袖を引く。
「おにーちゃん、ほら、行くよ!」
「あ、あぁ────」
足を進める。変わりない日常の、変わりないワンシーン。
だが────。
その、時だった。
ブレーキ音。
悲鳴。
人混みの向こう、交差点の一角で、白い車体がこちらに向かって突っ込んでくるのが見えた。
トラックだった。
タイヤはロックされ、雪の上で滑っている。
コントロールを失ったそれは、歩道へ────自分達の居る場所へ向かって、一直線に迫っていた。
「ッ……!?」
動けない。
逃げないといけないのに、動けない。
時間が止まっていた。
運命が、彼の足を動かす事を咎めていた。
凍り付いたように、己の足はその場に縫い留められている。
迫る車体。
視界いっぱいに、フロントガラスの向こうの男性の、青ざめた顔が映る。
にげろ、と。
そう男は叫んでいた。
駄目だ。
動けない。
このまま、死────
「────おにーちゃんッッ!!」
緋の声。
そして、衝撃。
翠の体が宙に浮いた。
背中に感じる、小さな掌の感触。
次の瞬間、世界がひっくり返る。
耳を劈く轟音が、世界を非日常へと塗り替えた。
視界の端で、ガードレールを薙ぎ払ったトラックが歩道に突っ込んで、その奥の店のショーウィンドウを破壊した姿が映る。粉々になった窓ガラスと、真ん中から折れた街路樹。引き千切られたイルミネーションは数度点滅して、その光が闇に呑み込まれる。
────その先に、緋が居た。
トラックのフロント部分に叩きつけられた彼女の体は、音もなく歩道の上を滑るように倒れ込んだ。身体が歪んでいる。地面が途端に朱く染まる。その浮世離れした光景に、翠の視線が縫い付けられる。
「……ひ、いろ……?」
喉から、震える声が絞り出された。
軋む躯体を引きずって持ち上げる。周囲は悲鳴とざわめきに満ちていた。
それが、「今起きている事は現実だ」と彼を嘲笑っている。見開いた瞳に映るのは、雪の白と相反する赤。あか。紅。朱────。その色が「絶望」を意味する事を、理解できない。理解など、したくなかった。
「ひ……い、ろ……?」
縋るように再度、彼女の名を呼ぶ。
彼女は静かに、横たわっていた。
降り積もった白の上に、見慣れぬ赤が広がっていく。
鮮やかな血溜まりが、辺りを紅い絨毯へ変えていく。
「ひいろッッ!!」
やっと、身体が動いた。
無我夢中で翠は駆け寄る。
名前を呼び続ける。
心臓が凍り付くような感覚。胸の奥が、焼けるように痛い。
「緋ッ……!ひいろ、ひいろ……っ!しっかりしろッ!!」
身体は氷のように冷たい。彼女の指先に自身の指を絡める。己の熱を当てがうように、手を握り締める。……まだ、微かな温もりがあった。小さく脈が触れていた。まだ、彼女は生きていた。
抱き締める手が震えて、喉が裂けるほど叫んだ。
「お、に、……ちゃ……、」
「ひいろ、緋しっかりしろッ!!死ぬな、死ぬな、死ぬなぁ……ッ」
「い、たい、よ、ぉえ……ッ、」
薄く形のいい唇から、静かに彼女の色が零れ落ちた。ライトベージュのコートは既に紅に染まっており、水分を含んでぐっしょりと重くなっている。支える左手にのしかかる質量が、徐々に重みを増していく。それは生命が奪われていく事の暗示であり、緋の体から力が抜けている事の明示だった。
翠は叫ぶ。恥など知らない。恥をかいて目の前の大切な存在を救えるなら、幾らだってしてやる。何かを代償に支払って彼女が助かるなら、何だって捧げる。だから、だからどうか助けて。妹を、助けてください。零れ落ちた涙の痕が、冷気に撫でられて痛い。そんなの、そんなのどうだっていい。緋が、緋が……ッ!
「誰か……ッ。誰か、助けてください……ッ、だれか、ッ!」
惨めに張り上げた声はとうに枯れている。頭の中はノイズがかかり真っ白で、救急を呼ぶという常識すら無かった。「救急車を!」と叫ぶ誰かの声が遠くに聞こえる。
翠は泣き叫ぶ。声を枯らして、ひたすらに助けを希う。
その間にも、妹の意識は闇へ誘われていく。身体は冷たくなっていく。足元を濡らす緋色はじわりじわりとその面積を増やし、己の膝まで穢していた。
待つ時間など無かった。
今直ぐに助けてと、神に願う。天使に願う。悪魔に願う。
ライトアップされた広島市の中枢で紡がれる悲劇に、誰も口を挟めなかった。
緋が死ぬ。妹が、死ぬ。
奪われゆく目の前の脈と対照的に、翠の心拍は著しく上昇して口から心臓が飛び出てくるような吐き気を覚えた。悲鳴と、絶望が口を突いて飛び出てきて────。
────違う。飛び出てきたのは
縋るように、祈るように、言葉が紡がれる。それは現代を生きる人間が扱うにしては古典的な響きを携え、古代を生きる人間が詠うにしては科学的な音色を宿した呪文だった。脳裏に父親がかつて口にした台詞が蘇る。「救命魔法は、医療従事者以外が使うと危険だ。翠、お前が医師を志そうとも、その道半ばで使うなよ」────それでも、それでも。翠は必死に呪文を紡いだ。中学生の彼が知る筈もない、使う資格もない奉祝だった。
「〈鼓動の律、よ、命を繋ぐ、奔流の息吹よ〉」
それは、命を呼び戻す、禁忌の呪文。
「〈汝、滞りし流れを、導き、絶えし脈動を、蘇らせる拍動なり〉」
テレビで見た医療ドラマの断片と、本棚にあった父の医学書から盗み見ただけの、朧げな知識。
「〈下す我が命のままに、生命の律動を、刻み続けよ〉……!」
生命を繋ぎ留める、救命魔法。
翠の手が緋の胸に押し当てられ、必死に力が込められた。だが無慈悲にも、その言葉は効果を成さない。陣は浮かばず、熱も持たず、ただ冷たい風が二人を包むだけ。緋の息がさらに弱まり、血溜まりが広がっていく。翠の瞳から涙が溢れ、声がひときわ掠れた。
「なんで、だよ……!動けよ、魔法。緋を、助けろよ……!」
唇から綴られた呪いも、指先に込めた祈りも、神は無視して棄て去った。焦りが翠を支配する。呪文が間違っているのか?力が足りないのか?頭の中で何度も唱え直す。異界と接続する方法を、何度も見直す。だが寒風と血液で赤くなった指先はただ震えるだけで、何の変化も示さない。緋の瞳から光が消えかけ、翠の心が闇に呑まれていく。俺が、俺が緋を救わないといけないのに。俺が────。
────その時、救急車のサイレンが近付き、赤い光が雪を照らした。救急隊員が駆け寄り、翠の手を強引に引き剥がす。どいてください、そう抵抗したが、力尽きて雪に膝を付いた。そうしているうちに翠もまた隊員に抱えられ、救急車の車内に運び込まれる。
電子音が、緋の弱々しい生命を明示していた。生きている。まだ、生きている。
自分は、無力だ。
ただの、何も出来ない、子供だ。
翠は呆然と、血に穢れた己の掌を見遣って握り潰した。
病院に着いた時、翠は手術室の前で立ち尽くしていた。父親────玄真が勤める天璇大学附属病院。クリスマスプレゼントを贈る筈が、父に贈ってしまったのは妹の手術だ。そんな最低なクリスマスプレゼント、望むのは
硝子越しに、医師達が慌ただしく動くのが見える。自身の手には、まだ緋の血の感触が残っていた。鼻を突く鉄錆のにおい。ぬるりとした微温の赤。それを思い出して、指先が震え、心臓が締め付けられる。
手術が始まり、医師の一人が呪文を紡ぐ。助けて。助けて。助けて……その祈りに応えるように、医療魔法を扱える資格を持つ彼等が言葉を綴る。淡い光が室内に満ち、それは確かに緋の身体を包んだ────だが、次の瞬間、血が噴き出してレッドアラームが泣き叫ぶ。何が起きているのか、分からなかった。違う。分かりたくない。魔法が、失敗したという現実など。
「バイタルどんどん落ちてますッ!血圧48の25!」
「魔法が効かん、やと、?」
看護師が悲鳴を上げ、執刀医は混乱に瞳を泳がせた。モニターが危険域を警告する。翠は硝子に手を押し付け、息を止めた。緋が死ぬ。俺を庇って、死ぬ。
……そう嘆く翠の目と、第一助手の父親の目が合った気がした。彼は執刀医の横に並び、執刀を代わると言い放つ。
「……分かった。乾さん、ブルドッグ鉗子」
「はい」
「6―0ポリプロピレン」
彼は魔法を捨てた。彼等は幻想を棄てた。古臭いと一笑される非魔法医療────銀のメスと縫合糸、止血鉗子を手に、緋の体に切り込む。糸を結ぶ。翠は硝子の向こうで繰り広げられるオペラツィオンに対して、祈るように呟いた。
曰く、生きてくれ、と。それを聞いた者は、神以外には存在しなかった。
────長い長い闘いの末、手術は成功した。
緋は一命を取り留めたと医師が告げる。執刀医だった広島弁訛りの彼の名を、神楽岡だと知った。それだけを聞いて、不安で心臓が潰されそうで、暫くは起きないと思いますよと言われる声も振り切ってすぐさま病室に駆け込んだ。
彼女はベッドに横たわり、瞳を固く閉ざしていた。まるで、死んでいる人間だ……そんな不吉すぎる思考を追い払って、震える手で彼女の手を握る。そこには確かに、温度があった。脈があった。緋が生きている、証拠があった。思わず溢れそうになる涙を堪え、必死に笑顔を繕う。
「ひいろ、っ。よか、った……生きてる……」
我慢できなくなった雫がぽたぽたと溢れて、泣き叫びそうになるのを堪えた喉は痛くて。頬を伝う涙は外界の気温を忘れるほどに熱くて、胸の中には言葉に出来ないような想いが満ちた。それが、「安堵」だという名を付けられた感情なのだと気付いて────真っ赤に腫れた目から、再び涙が零れた。
助かった。
緋は、助かった。
悲劇なんかじゃなかった。
ああ、また、いつも通りの日常に回帰出来るのだ、と────。
……それは、あまりに甘い思い過ごしだった。
刹那、彼女の双眸が見開かれる。黒い睫毛の下に緋の面影はなく、片目に紋様が刻まれた紅い瞳があった。「それ」と、翠の目が合った。はじめは違和感を覚えて。次に、不快感を覚えて。そして次第に────焦燥感と、恐怖を覚えて。翠の身体が、びくりと跳ねた。深紅が彼の顔を捉え、唇が歪んだ笑みを刻む。
「キミが、サクラダヒスイ?」
その声は、緋のものではなかった。違う。声自体は同じものだ。だが紡がれる冷ややかな言葉は妹が発するような温度ではなく、冷たく、どこか愉しげに鼓膜に響く。
翠の背が凍り付き、手が離れる。彼女はベッドから起き上がる────有り得ない。たった今手術をされ、腹部を開かれていた筈だ。意識が覚醒するにも早すぎる。起き上がるなど、口を開くなど、出来る筈がないのに!
「ひい、ろ……?」
声が漏れる。最悪な予感が背筋を舐め上げ、悪寒が走る。
心臓が警鐘を鳴らす。今目の前に居るのは、人智の知れぬ怪物だと、封じ込められるべき悪そのものだと、煩く本能が喚く。まさか。そんな馬鹿な。目の前に居るのは妹の筈。だけど、その妹が、ただの人間が、術後数十分で起き上がるか────?
嫌な汗が伝った。
目の前のナニカはにんまりと嗤うと、両手を合わせて「ご馳走様でしたぁ」と告げる。
……何、が?
顔に浮き出た疑念に、彼女は愉しそうにこう答えた。
「サクラダヒイロの事?あはっ、彼女はもう、この世に居ないよ」
ボクが、喰べちゃったからね。
最後の一言は、ホワイトアウトした脳で理解する事が出来なかった。
……緋はもう、この世に居ない?
じゃあ、目の前に居るのは……何?
化けの皮が剥がれるように、翠を取り巻く現実が湾曲して、目の前の少女の頭に角が浮き上がる。尾骶骨から尾が生え、背中に一対の蝙蝠の羽が浮いた。
本で、読んだ事があった。
「それ」は、現界に重なる異界に住まう住人だと。
「それ」は、破壊を司る黒魔法の本来の使い手だと。
人々は彼等をこう呼んだ。
────悪魔、だと。
「ボクはメディヴァ。呑噬の悪魔、メディヴァ」
恭しく礼をした「それ」を睨みつけて、翠は吼える。
嘘だ。嘘だ嘘だ、全部嘘だ。
緋が死んでいる筈がない。
だって、だって目の前に居るのは妹の体だ。
ひいろが、しんでいる、わけが。
呪いを吐き出す。
「それ」を祓うために、敵意を表する。
「誰だよ、お前……ッ。緋を……妹を、返せ、!」
「物分かりが悪いなぁ、おにーさんは。今言ったでしょぉ?サクラダヒイロは、ボクが喰べた、ってね。ちょっとは脳みそ働かせなよぉ、喰べたご飯がお皿に残ってる訳ないでしょ?」
「うそ、だ。うそだうそだ、うそだ。だって、だって────」
「はぁ。そもそも、キミが始めた物語でしょぉ?」
メディヴァが近付き、翠の頬に冷たい指を這わせる。それは頬から顎へ下がっていき、喉元に鋭利な爪が当てられる。掠れた息が漏れた。
「
意味が、分からない。
否、分かりたくなかった。
けれど、どこか確信があった。
妹の体に異界の力を流したのは誰だ?
「魔法」を失敗したのは誰だ?
失敗したと思っていた魔法が、違う事で効果を発揮したら?
一文字、或いは周波が1違っていたその呪文が、召喚に関連する呪文だったら?
……その疑心暗鬼が真実なのだと、悪魔は嗤う。
「キミの魔法が失敗したから、ヒイロは死んだ。ボクが宿った」
「ぁ、あ……」
翠の心が砕けた。その瞳から、光が消えた。
底なしの沼のような絶望の中で、嘆きの声だけが獣のように口を突いて出る。
俺が、ころした?俺の魔法が、緋を、?
ああ、そうだ。そうなのだ。禁忌を犯した代償が、妹の意志を奪い、悪魔を呼び込んだ。全て、己が招いた結末。全て、己の呪文が望んだ終末。
メディヴァは歪に嗤い、翠の耳元で囁いた。
「キミがボクを呼んだんだから、一緒に歩もうよ、おにーさん。ねぇ────ボクと、契約しない?」
絶望に暮れながら、翠は退路を断たれてしまった。
逃げる事など、許されない。
目を背ける事など、あってはならない。
目の前の「罪の象徴」と共に、生きるしかなかった。
だから。
……彼は酷く震えた、抑揚のない声で呟いた。
「……契約、する」
「あはっ────今此処に、ボク達の契りは成立した。ボクはキミと歩み続ける限り、命を奪わない。そして君に降りかかる呪いを喰べてあげる。その代わりキミは、寿命を捧げ続けるんだ。それはキミが死ぬまで、永遠に続く。良かったね、おにーさん。天涯孤独は今、キミの人生から消え失せた」
「…………最悪の、クリスマスプレゼントだ」
「最高の、の間違いでしょぉ?これからよろしくね、おにーさん♡」
────こうして、櫻田翠とメディヴァは結ばれた。
十五年前、聖者の誕生前夜。
街が神の祝福を享受する中で、翠の人生は永遠の闇に堕ちたのだった。
***
────風は、いつしか凪いでいた。
鼻腔を突く潮の匂いにも慣れ、窓の隙間から冷気が肌を撫でる。
時刻は、あれから二十五分が経過していた。
……メディと契約して、もう十五年が経つ。
はじめは、彼女を恐れていた。妹の命を奪った宿敵だと、恨んでいた。
けれど、彼女はただ「召喚されて宿り、肉体のもとの持ち主を追い出した」だけで、呼び出したのは翠なのだ。人間など、悪魔からすれば皆同じに見えよう。その中の一人を殺めて……それはメディにとってはただの食事だ。喰べる対象なんて、誰でも良かった筈だ。その対象を、翠がわざわざ指定したのだ。妹を喰べてくれと、言ったようなものなのだ。だから、喰べた。彼女には、何の罪もない。分かっている。
メディも、この十五年で自身が奪った命がどれほど翠にとって大きな存在であったか学んでいる。自分が殺したのだと。命の灯火を掻き消したのだと、とんでもない事をしてしまったのだと、苦悩していた。翠はそれをよく知っている。十字架に灼かれ、葛藤して揺らぐ紅の瞳を、幾夜も見てきた。
「……ボクも、意地悪がしたい訳じゃないんだ」
彼女がぽつりと零した言葉は、小さく震えていた。
ルビーのような深紅の双眸が、葛藤を刻み込んで潤んでいる。
「知ってる。全部、俺がやった事だから」
そう、静かに返す。
そんな風に慰めたところで、目の前の少女が救われる筈もないのに。
けれど、それしか言いようがなかった。自分が殺した、それは事実だ。だから、お前は悪くない、俺のせいだからとしか言えない。他に適切な言葉など、想像する余裕がなかった。
「……ちがう。おにーさんが、ヒイロを殺した訳じゃ、ないのに」
翠の胸が締め付けられる。違う?そんな訳がない。あの魔法が失敗したから、緋は────。言葉に出来ない想いが喉に詰まり、咄嗟に目を逸らした。窓の外では、五月の夜が更けて至極色の万華鏡が夜空を彩っていた。虫の声が僅かに響き始め、街灯の光が淡く道路を照らしている。
……その光が、翠の心に届く事はない。心にはいつも以上に、闇が深く巣食っていた。
「……お前、もう寝ろ。俺も寝る」
翠は立ち上がり、ふらふらとした足取りでリビングのドアへ向かうと明かりを消した。メディが何か言いかけて、息を吸う音が聞こえる。聞こえないふりをして部屋を出た。
階段を上がる音が、たちばな診療所の静寂に緩やかに響く。波の声が、虫の歌が、静寂の「音」が、耳に焼き付いて離れない。それは、「櫻田翠」という鎖に繋がれた
────そんな傷心の彼を赦さないまま夜が深まり、影が廊下に長く伸びていた。