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第二章:クリスタル・ファクト

Chapter01:五月雨に灯る篝火

翌日は、ひすいの心境を代弁するかのように五月雨さみだれが降り注いでいた。神々の涙が天璇てんせん大学附属病院の窓を叩いている。午前八時を過ぎた頃、灰色の空から落ちる雨粒が硝子に筋を引き、病棟の廊下に湿った静けさが漂う。濡れたアスファルトの匂いと微弱に孕んだ熱が、院内でも感じられる気がした。

翠は傘をビニール袋に収めて、濡れた靴で床を軋ませながらICUへと向かう。無言の空気は生温く、呼吸を妨げるような不快感があった。


────今朝は一人きりだ。隣に己をイラつかせる少女の姿はない。

昨夜のメディとの会話が頭にこびりつき、結局一睡も出来なかった。彼女を置いて、一人で診療所を出てきたのは正解だったかもしれない。あの深紅の瞳を見れば、また緋の血溜まりがフラッシュバックする。顔を見るのが怖くて、起こそうと思うと手が震えた。まだ彼女は、死んだように眠っているのだろうか。あの日と同じ容姿のままで、死者のように────。駄目だ。しっかりしろ、俺。立ち込める暗雲のような思考を追い払い、今日すべき事を意識する。


ICUの自動扉を神楽岡かぐらおかのIDで開けると、変わらず消毒液の匂いが鼻を突いた。モニターの電子音が一定の間隔で響き、窓の外の雨と比べて酷く遅い速度で、提げられた輸液が滴っている。それは管に流されて患者に繋がれ、彼等の体内を潤し生命を繋いでいた。

翠は昨日、自身が救った患者のベッドに近付いた。二十九歳、男性。若く見える顔立ち。ベッドサイドには眼鏡が置かれている。怜とはまた別ベクトルで整った目鼻で、右目の下には黒子ほくろがある。朽葉色くちばいろの髪は癖っ毛で、柔らかな印象を翠に与えていた。

彼の酸素マスクは外され、呼吸が穏やかに続いている。翠はカルテを確認し、数値に目を走らせた。血圧、上106の下72。酸素飽和度98。その他に少し高い数値が見受けられるものの、順調に、彼は復帰への道を歩んでいた。

翠がカルテを捲った音に気付いたのか、彼の瞼がゆっくりと持ち上げられる。それに気付いた翠は手元の紙から目線を外し、呼びかける。シャルトルーズイエローを宿した垂れ目がぼんやりと虚空を映し、ゆっくりと此方に向く。彼の、名を────。


「おはよ、綾瀬伊織あやせいおり。生きてる実感、あるか?」


患者────伊織はこくりと頷く。呼吸器を取ったばかりでは、声が上手く出なくとも仕方がない。彼は何度か痰を呑み込んで、未だ掠れる声で翠の問いに答えた。


「……ちょっと痛いけど、生きてる。君は……」

「俺?あぁ、櫻田翠さくらだひすい。オペの執刀医……だな、一応」


一応。伊織はそれを反芻した。

そう、一応。伊織の執刀医は朝比奈あさひなだった筈で、カルテによると彼の主治医はれいだ。そもそも翠は天璇大学附属病院の医師ではなく、部外者の立ち位置にある。メディにその概念を喰らってもらったといえど、それはあくまで一時的な処置。今のこの診察だって、神楽岡の慈悲で行われているようなものなのだ。

しかし患者にとってそんな事情は関係ない。医師が手術をして、結果救われた。それだけが事実であり、唯一の重要事項だ。だから翠は混乱させるような事を口にするのをやめておいた。


「ヒスイ先生。……あの、僕は────あぁ、事故に……遭ったんだっけ」

「やっぱ交通事故か。まさか飛び出したんじゃないでしょーね?信号見てませんでした、なんて言うなよ」

「あはは……その、まさか……かも……」

「マジかよ。お前、何歳よ?信号は青になってから渡りましょうね~ってのは小学生のガキでも分かるだろ」

「言い返す隙もない……」


苦笑が伊織の顔に浮き出る。いや、苦笑って。苦笑、じゃねぇよ。危ねぇな。彼のふにゃりとした表情に絆されて、「大変だったんだからな。魔法効かなくて、血が噴き出して」と口走る。言ってから、先程「混乱させるような事を口にするのをやめよう」と思案していた事を思い出して後悔する。やっぱり、俺、バカかも。一度天井を仰いで、その思考を無理やり呑み込んでおく。


「言い訳なんだけど、その……耳が悪くて。いつもは補聴器か補聴の呪文を掛けてるんだけど、ちょっと……忘れちゃって。ご迷惑をお掛けしました……」

「耳、悪いの」

「うん……生まれつきね。先生との、このくらいの距離がギリギリ、かな」

「大変だな……って、俺の同情なんて要らねぇよな、悪い。それで車の接近に気付かなかったんだな……ん?でもそれ、飛び出しには関係ないだろ」

「えぇっとぉ……読書中、だった、みたいな?」


思わず手が出た。ぴん、とデコピンで軽く伊織の額を弾く。「いたぁっ、」と小さな悲鳴が木霊した。いい歳して交通ルールも知らねぇのか。ながらスマホならぬ、ながら読書するんじゃないよ。そうやってぼうっとしてるから事故に遭うんでしょーが。

勿論、全部胸の内にしまっておく。医師は患者を治すのが仕事だ。交通規則うんぬんに文句を言うのは警察の仕事、だと思っている。事故に遭って病院に運ばれ、そこで「お前が悪いだろ!」なんて責められたくはないだろう。翠は喉まで出かかった言葉をぐっと堪える。けれど堪えきれなくて、もう一度優しく額を弾いた。


「今後、出歩く時は補聴器つける事。あとながら歩行は禁止な。破ったら呪うぞ、マジで」

「気を付けます……」

「よろしい」


半ば恐喝になってしまった。肩でひとつ息を吐いて、「デコピンしてごめんな」と謝っておく。これでチャラ、という事にしておいてほしい。


「本当にありがとう、ヒスイ先生」

「いいよ、感謝なんて。医者なら当然」


伊織の素直さに小さく照れ、ベッドサイドの椅子に腰掛けた。そんな翠を目線で追って、伊織はもう一度ありがとうと口にする。

あのままでは間違いなく、彼は死んでいた。あの場に翠が居なければ手術室は緋色に完全に呑み込まれ、台の上にあった身体は命の宿らぬ骸になっていただろう。奇跡が起こった。本物の、魔法が起こった。だから伊織は今、生きている。────奇跡を起こせなければ救えなかった命である事は、伊織本人には知らされていない真実だ。けれど本能のどこかで理解しているのだろう。彼は翠に対して礼を綴る。

……翠の掌の中で、確かに命が繋がれた。守られた。「今」という平穏は、翠の、医師達の尽力の末の結晶なのだ。救えなかったならば────緋のときのように、救えなかったならば。……今こうして彼と言葉を交わす事は、叶わなかったのだから。


……事故。ふと、翠は思いつく。


『────魔法医療の適応にない患者が居るのは、極めて稀なケースだ。俺が知る限り、前例は一例しかない。しかしこれで二例目だ。一度目は偶然、二度目は必然。何か理由がある』


怜の言葉が、脳裏に過ぎった。

魔法医療の適応にない患者は、怜の知る限り……そして自身が知る限り、これが二例目だ。魔法とは概念を周波に変換して出力する技術であり、理論上、この世の全ての物質は概念の周波を直接送られたら効果を発揮する。ひとつの概念に対応する周波や呪文は原則ひとつで、間違う事なくそれを紡げば効果は必ず現れる。若き日の翠が紡いだ呪文には誤りがあったかもしれない。けれど、あの時、そして昨日。医師である神楽岡や朝比奈が紡いだ呪文に、果たしてミスがあったのか?

……何か、ある筈なのだ。ひいろと伊織に共通する、真相が。


「なぁ、伊織」


そう、声をかける。右手を顎に押し当て、暫く視線を横に流した。数秒間の間、思考の海を遊泳して────そしてもう一度、目の前の彼を見遣る。見た目では、緋との関係性や共通点は分からない。


「伊織って交通事故で此処に来たんだよな?」

「え?うん……その筈、だけど……」

「……お前さ、魔法医療の適応に無かったんだよ。や、ごめん。こんな話して。不安になるよな」

「ううん、大丈夫。それにさっき聞いたよ。魔法が効かなくて、血が噴き出した……んだっけ」

「あぁ。普通そうはならない、っての、分かる?」

「分かるよ。そんな事故が多発してたら、そもそも魔法医療なんて普及してないだろうし」

「……そう、なんだよ」


雨音に一度、意識を向ける。木々を彩る萌黄の葉を雫が叩いて、スリッパで床を踏むような軽快な音が鳴る。街は黒く濡れていて、まだ梅雨入りしていないというのにじっとりとした水無月の気配を感じさせた。

その水音に、隠すように。翠は小さく、「があったんだ」と唇を開く。


「前例……」

「彼女も交通事故だった。それで腹開いて、魔法使って……血が噴き出した。お前と一緒だ」


妹だった、とは言わなかった。あまり深く思い出すと、胃の内容物がせり上がってくる。涙が溢れそうになる。立って、いられなくなるような予感がする。だから記憶に封を掛けて、思考を脳の奥底へ押し込む。視線だけが素直に彷徨っていた。それだけで伊織には「〈〉というのは、目の前の医者の大切な存在だった」という事が伝わっている。けれど彼も、それ以上に追求しなかった。窓に引かれた線がつう、と落ちて、翠の代わりに泣いていた。遥か彼方で遠雷の音がする。硝子の外の雨は強まり、映り込む自身の顔がぼやけていた。


「……事故、に何か原因があるのかも、って昨日から考えててさ。例えば……頭の強打で魔法感受体まほうかんじゅたいが過剰反応して、新しい魔法が入るのを拒む、とか」


────魔法感受体。

それは魔法革命の折に発見された脳の組織だ。異界、つまり悪魔の住む魔界や天使の住む天界に接続し、彼等が使う「概念を出力する力」を受信する役割を担う。そして同時に、体内に流れる魔法因子量を調節している。魔法とは、因子を消費して起こす……概念を操る力であるので。


「そんな事ってあるの?」

「人間の体ってよく出来てるから、それ以上に新しい情報や概念を入れられねぇんだよ。基本的に今の状態でパンパン。さらに魔法が入ったら、体が耐えられないでしょ?袋に水入れすぎて破れるみたいにさ」

「うーん……」

「えぇ……理解できねぇか。なら────」


翠は白衣のポケットからスマートフォンを取り出すと、手早く文字列を打ち込んでその画面を提示した。小さな箱の中には、過去のニュース記事が映し出されている。伊織の大きな瞳がそれを忙しなく追う。左右に動き続ける彼の双眸を確認して、翠は内容を読み上げた。


「2018年、患者の魔法感受体が異常を起こして、魔法因子が通常の三倍流入。結果、心臓が耐えられずに破裂……ってニュース」

「あ……これ、当時テレビで見たかも。知ってる。それって、脳移植が原因で……っていう事故だよね。これ以降、脳移植の際の基準に魔法感受体機能が適合するかどうかの検査が加えられた……っていう」

「そ。魔法因子量を調整する感受体が後天的に異常を起こすと、大出血するよって話。俺、昨日から思ってたんだよね。前例もお前も、事故で頭打って感受体がバグったんじゃないかって」

「成る程……ヒスイ先生、説明上手いね」


伊織が目を伏せ、思考の湖に潜る。

────この仮説は、殆ど正解だと自負していた。けれど、目の前の彼の様子はそれ以外の「何か」を物語っている。翠自身も何となく察していた。この悲劇は、魔法感受体のバグ……などという生温い結論で終焉を迎えないのだと。何か、見落としている。そんなすっきりしない不安感が胸を蝕んで、それを取り除こうと肺いっぱいに酸素を取り込む。消毒液の香りが鼻腔を占めて、咳き込みそうになった。

伊織が少しの思案の後に口を開く。


「……でも、僕の場合は違う気がするな」

「なんで?」


反射的にそう問い返した。

彼は瞳を一度、瞼の裏に隠して……小さな声で、真実を絞り出した。その声が、微弱に震えている。


「僕、後天的にじゃなくて先天的に魔法感受体の働きが弱いから。身体に魔法因子、殆ど流れてないんだよね……だから、魔法因子が過剰に流れて、とか、魔法感受体が過剰反応して、とかは起こりにくいんじゃないかなって」

「……じゃあ、魔法、使えねぇのか」


低いトーンになってしまった事を、言葉にしてから悟る。弱いところを踏み抜いてしまった、と悔やむ翠に対し、伊織は「あっ」と声を上げて笑顔を繕った。


「ご、ごめんね!?魔法は使えないけど今は困ってないから、大丈夫だよ…!」

「いやいや、なんでお前が謝るんだよ。謝るべきは俺だろ、悪い」

「大丈夫大丈夫……!本当に気にしてない。もう、ちゃんと救われてる。報われてるから」


その意図を翠は測りきれなくて、けれどこれ以上その話に、彼の事情に土足で踏み入るのも駄目な気がして────曖昧に「そっか」と答えた。

自分だって、彼に緋の事を伏せているのだ。彼もまた、伏せたい事があっても道理だろう。それを無理に暴こうとするのは不条理だ。話したくなった時に、腹を割りたくなった時に話せばいい。その時は案外早く訪れるかもしれないし、今後一生訪れないかもしれない。それでいい。互いを不用意に探り合う必要はないのだ。暗い真実を隠しているのは、一種の優しさなのだから。


「……けど、これで振り出しか。はぁ~、もう共通点ねぇよぉ……お手上げお手上げ」


椅子に腰掛けたまま、ぐっと背を伸ばして凝りをほぐす。腕から肩、背筋がじんわりと温かくなって骨が小さくぽきりと鳴った。

雨が硝子を叩く音が強まり、翠の気分も沈む。緋と伊織の繋がりが分からないままじゃ、俺は過去の亡霊に囚われたままで────。


そこで、ICUの扉が開く音がした。

振り返ると、そこには怜が立っていた。昨日と変わらず、スーツの上に白衣を羽織り、青みがかった髪が雨に濡れたように光っている。彼は外界と同じくらいの湿度を孕んだ目線で翠を映した。


「……櫻田翠。綾瀬の様子を見に来たのか?」

「まぁな。お前こそ何だよ、昨日の続きで殴りに来たのか?」


怜が小さく息を吐き、タブレットを手に持つ。そこには昨日感じられた嫌悪は無かった。代わりに、薄く同情と慈愛、慰めが揺蕩たゆたう。……別に、彼に慰めてほしいなど思ってはいない。大方父親があれやこれやと話したのだろうが、怜は他人だ。メディと自身の関係に口を挟む資格はない。むしろ彼に「大丈夫か?」「辛ければ相談しろよ」など言われる姿を想像すると寒気が走る。


「今、失礼な事を考えただろう」

「別に」


睨みつけられて咄嗟に目を逸らす。

……本当は分かっている。彼も冷徹な人造人間ではない。人としての温かい心を、医師としての燃える情熱を秘めている。天璇大学時代、学年トップを争った仲なのだ。彼が持つ熱意も、慈悲も、翠は気付いている。

怜は一度視線を翠から外すと、もう一度瞳の奥を覗き込む。そこには真っ直ぐな、怜らしい想いがあった。


「昨日の事は言い過ぎた。魔法が失敗したのは事実だ。お前が割り込んだのも、結果的に正しかったのかもしれん」

「へぇ。怜が素直になるなんてね。世界が終わる前兆か?」

五月蠅うるさい」


眉を寄せるが、その口調は柔らかい。翠もそれを感じて、彼にそれ以上の皮肉を送るのをやめた。

数秒間、雨音とバイタルを謳う電子音だけが室内を占めた。大粒の雫が屋根に当たって、ばたばた、と低い音が響く。……怜との間に流れる沈黙が少し怖くなって、「で、何だよ」と先を急かす幼稚な自分が居た。


「先程、お前が言った仮説────そして前例と今回の共通点が無いように思えるのは、症例が少ないからだ」


彼は手にしていたタブレットを翠に差し出す。白い背景に、青いバナー。OPE・STREAMと似た雰囲気を感じる。画面に目を落とせば、そこにはずらりと名前が連なっていた。それだけで翠は察する。医療事故の一覧だった。


「いや、多っ。いち、じゅう……待って、千七百件?」

「これでも非魔法医療が第一選択だった頃と比較すれば大幅に減っている。言っただろう、非魔法医療は患者に無駄な負担をかけると」

「それは置いといて。……これ、どうやって調べたんだよ。名前と症例、手術内容、インシデントのレポートまで……検索大変だっただろ」

「魔法AIだ。天璇には、日本の全ての病院にアクセスできるAIが配置されている」

「初耳なんだけど」

「最近研究部門で新たに作られたシステムだからな」

「開発者……もしかしなくても仙田せんだ教授?」

「そうだ。病院の一部の人間にしか閲覧できんサイトではあるが。何せ、此処には個人情報が掲載されているのだから」

「ふぅん……」


幾らスクロールしても終わりが見えない。やっとの思いでサイトの下端まで行き着けば、そこには1/100と刻まれた文字列がある。翠はげっそりとした顔で怜にタブレットを返却した。


「お前に、こんなのにアクセスできる権限があるなんてな」

「……高度医療魔法士だからな。お前は資格を取ったのか?」

「うるせぇ」


怜の皮肉に、翠は短くそう返す。

暫く、細い指が端末の上で踊っていた。しかしその舞踊は途切れ、切れ長の瞳に翠の姿が映される。


「見ただろうが、魔法医療中にアクシデントが起きた事例は全国で千七百件あまり確認されている。これが『魔法医療の適応に無かった』患者かは分からないが、彼等の情報から絞れば、共通点も見つかる筈だ」


翠の心が動いた。

怜が協力する気なら、緋の死の真相に迫れるかもしれない。自身が犯した過ちの円環を解けるかもしれない。

雨音が一瞬弱まり、それに呼応するように翠は笑みを浮かべる。


「お前がデータの魔法使いで助かったよ。言ったからな、俺。手術の責任は全部背負ってやるって。……一緒に調べてやる。天才と秀才の共同戦線だ」


ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえる。無表情を繕う彼の瞳が、どこか期待を宿していた。……その期待に応えてやるよ。そう思案して口角を持ち上げる。

伊織に形式的な別れを告げて、二人はICUを後にする。

廊下を進む翠の背に、五月の雨が硝子を叩く音が響く。

心の傷はまだ癒えないが、伊織の言葉と怜の提案が……僅かな光を灯した気がした。



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