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Chapter02:秘匿された診療録

時間という概念の操作は、魔法では禁忌として指定されている。未来を垣間見る事も、過去の事象を変更する事も、それは倫理に関わるからだ。誰かの、生命に関わるからだ。従って、時間を動かすのはこの魔法世紀でも神だけの特権だった。

……早すぎる時間の流れに、翠は眩暈さえ覚えていた。

神も、つくづく無慈悲だと。そう、改めて気付かされた。


────一週間が経った。

あの雨の日以来、翠は二つの直方体をずらして重ねた地域医療の中枢……天璇大学附属病院の医局に通い詰めていた。しとしとと降り続いた皐月の雨も上がり、今では窓の外に澄み渡った空が広がっている。広島の街に柔らかな陽光が降り注ぎ、街路樹の葉がきらりと揺れた。二十七日、火曜日。五月の、最後の週であった。


医局の片隅、無造作に積まれたコーヒー缶の向こうで、翠は椅子に身を沈めて怜のタブレットに表示された膨大な症例データと向き合っていた。1726例────本当に終わるのかよ、これ。魔法医療の失敗例を精査する作業は、まるで出口の見えない迷路のようだった。瞳の下には深い隈が覗き、額には疲労の色が滲んでいる。


「れ~~~い~~~~、無理だろコレ、終わらねぇよ。まだあと八十七件……」

「あと僅か八十七件だろうが。ここでやめたら一週間の働きが水の泡だぞ」

「やだやだやだ、もう無理、もう俺の頭パンクするからぁ!」

「天才だと宣っておいて、所詮この程度か。呆れた」

「いくら天才でも千件以上のインシデントを記憶できる訳ねぇだろこのサイボーグ!!」

「誰がサイボーグだ!」


喧嘩に発展する五秒前。コーヒーの缶で塔を建設していたメディが小さく「おにーさん達、疲れておかしくなっちゃったぁ」と零していた。

換気のために数センチ開かれた窓から生温い初夏の風が入り込む。それが頬を撫で、翠の母親譲りの柔らかい髪がなびいた。吹き込む風は、どこか藤の香りを感じさせ────そんな医局の扉が控えめに開かれる。


「……こんにちはぁ」


吹き込む薫風のような軽やかな声と共に、白衣を纏った青年がひょっこりと顔を覗かせる。琥珀色のマッシュヘアに、黒縁の眼鏡。そして、右目下の泣き黒子────綾瀬伊織だ。予想外の来訪者。……彼が、白衣?まさか。翠は目を丸くし、思わず立ち上がった。


「お前、医者なの!?」

「え?あ、うん」


即答。マジかよ。このふわふわした不注意ばかりの男(偏見)が、医者?

伊織は苦笑いを浮かべながら、白衣の襟を整える。天球に高く掲げられた太陽の光を反射して、純白の衣が眩く輝いた。


「お世話になりました。実は僕、尾道の『燦和さんわメディカルクリニック』で漢方内科医をしてるんだよね。故郷の養護施設に外科医が必要で、レイ先生のもとで修業中だけど」

「医者が不注意で事故って。一番駄目だろ」

「あはは……その件は……ごめんね……」

「まぁいいや。まだ骨はくっついてないだろ、無理すんなよな」


翠はそう言いながら、視線を彼のつく松葉杖へ向ける。あれほどの大怪我を追って、一週間と少しで起き上がれるだけで奇跡なのだ。……いや、一週間でも短すぎだろ。肋骨骨折による血胸も患っていた筈だし、諸々を考慮して最低でも一か月は入院させるべきだろうが。そう思案して、チベットスナギツネの目を怜に向ける。


「……何だ櫻田。その軽蔑したような目は」

「いや別に。どっかの誰かさんは、患者を安静一週間で退院させるほど馬鹿なのかなって」

「誰が馬鹿だ。……綾瀬が望んだ事だ。俺は止めた。それに、このご時世……入院期間が短いのは当たり前の事だろう。病院だって回転率は重要だ」

「それは魔法医療では、の話でしょーが。伊織は非魔法でやったんだから、術後四週間安静は絶対だろ。何、人のせいにしてんだよ」

「だ、大丈夫だよ二人とも……!」


当の本人が割って入る。彼は両手を二人の前にかざして喧嘩を咎めると、薄く微笑みながら何故「大丈夫」なのかを口にする。


「〈整復せいふく〉で骨折の治療をしながら〈緩静かんせい〉と〈舒和じょわ〉で緩和するから。僕も医者だし、怪我のアフターケアくらいは自分で出来るから、ね?」

「医者……え、でもお前、魔法使えないんだろ?」


驚きを隠せず、彼をまじまじと見つめる。怜がデスクから顔を上げ、「櫻田!人が気にしている事を……!」と鋭い声で非難した。


「いいよいいよ、気にしてない」


伊織が笑って手を振る。その様子は外の世界の空模様のようにすっきりと晴れ渡っている。怜の忠告で微弱に芽生えていた不安感が雲散して、翠はひとつ息を吐いた。


「確かに魔法は使えないけど────僕には『魔術』があるから」


その時、伊織の背後から、小柄な少女がちらりと顔を覗かせた。

薄紅と金の、細い絹糸のような髪。それは器用に編まれて、三つ編みを円に回したようなツインテールをこしらえていた。透き通るような雪の肌に、天色の瞳。右目に電子回路のような紋様が刻まれている。頬は薄い桜色で、頭上に金の環が、背には一対の翼が生えていた。────その翼が、からすのように漆黒に染まっており、それだけが目の前の水晶のように眩しい少女の異端な点だった。


「天使だぁ」


缶の積み木をしていたメディが椅子から身を乗り出し、指差して声を上げる。話題の中心が自分に移った事を恥ずかしく思ったのか、少女は慌てて伊織の背中に隠れてしまった。彼が優しく声を掛ける。


「大丈夫だよ、サナ。怖くないから」


おずおずと、少女は顔を出す。その大きな黒目がちな瞳が伊織に向けられ、恐る恐るといった具合で一同を見渡す。そして彼女は、小さな声でこう紡いだ。その声音は、まさに鈴が転がるような穏やかなものだった。


「そ……そう、ですかぁ……?」

「うん。みんなお医者さんだからね。僕と同じ」

「ご主人さまと、同じ。つまり、みんな、いいひと……?」

「そうだよ。サナ、ご挨拶してみて」

「は、はいっ……」


ぺこり、と彼女は控えめに頭を下げる。そして両手を祈るように胸元で組んで、ゆっくりと唇を開く。その所作は慈悲と愛くるしさに満ちていて、翠の心にじんわりとぬくもりを持ち込んだ。俺のとこのクソガキも、この子くらい素直で可愛ければいいのに。そう余計な事も考える。……俺がこんな風に汚れてるから契約相手もこんな感じなのか。自分で思っておいて、意外と胸に突き刺さる。要らぬ思考を追い払って、翠は彼女をもう一度眺めた。


「えっと……サナクシエル、です。サナ、とお呼びくださいませ。伊織さまと契約してます……」

「サナ!覚えたよぉ」

「えと、えと……っ、あなた、さまは……」


メディがぱたぱたと蝙蝠こうもりの羽を上下させて微笑む。同性の友人候補ができて嬉しいのか、それとも弄り倒せる相手ができて嬉しいのか。大方後者だろう。そもそもコイツ、女なのか?

彼女はひょいとデスクを越えてサナの目の前に躍り出ると、手を握って瞳を輝かせた。その強引なアプローチに、天使の少女の脳がフリーズしている。


「わわわわ、っ、い、いきなり握手、ですかぁ……っ!?」

「あれぇ、天界は握手駄目なんだっけぇ。ごめんねぇ」

「い、いえそのっ……サナが、緊張しやすいだけで……っ」

「あはっ、そっかぁ。緊張しなくていいよぉ、ボク、直ぐに怒らないし」

「そ、そうですか……?」

「うん。……あ、ボクはメディヴァ。呑噬どんぜいの悪魔、メディヴァ。メディって呼んでよ、サナ」

「メディさま……は、はいっ!」


親睦を深めつつある幻想の住人達の羽が、ぱたぱたと忙しなく動く。小さな旋風が生まれて、互いの背に詰まれた資料がなびいた。まるで、猫か犬みたいだなとぼんやり思う。……そういえば、メディがこんな風に楽しげにしている姿は久々に見る。自身が少年だった頃は同世代の友とでも思えただろう。けれど今、翠は大人だ。そして彼が関わる人間も大人で、メディは強制的に大人同士のコミュニティに属するようになる。悪魔がどう年を重ねるのかには疎いが、見た目年齢相応に、はっちゃけて遊べるような友達をどこかで望んでいたのではなかろうか。そういう点では、この天使────いや、堕天使か。彼女と出会えて幸運だっただろう。

そんな和やかな風景に瞳を細め、伊織が補足するように続けた。


「サナは異界に接続できない僕の代わりに、外付けの魔術回路を作ってくれたんだ。だから僕は魔術が使える。医科魔術いかまじゅつ、っていうんだけどね」

「魔術って人間の奇跡、なんて言われてるのに、マジで使う奴が居るんだな……。やっぱ頭使う分だけ精度が高いって言うし。その医科魔術、お前がゼロから作ったワケ?」

「うん。……正確にはサナが『医療魔法』って概念をプログラム化……うぅんと、言語化してくれて。そこから僕が異界に認証させるための魔術式と呪文を作った、って感じかな。医療関係の事にしか使えない、限定的な魔術だけどね……僕、そんなに頭が強くないから、それが精一杯で……」

「いやいやいや、すげぇって。俺なんて魔法式がどう異界にアクセスしてんのかすら分かんねぇもん。お前すげぇよ。見直した」

「あはは……ありがとう。でも僕には、これしか無かったから。サナが居なければ、僕は今頃────」


伊織の視線が、どこか遠い彼方を映す。掛けられた眼鏡が空を反射して青く染まり、内側の表情は読み取る事が叶わない。

……魔法が使えない、という事が、この時代で何を意味するのか。それは、翠には知り得ない世界だった。義務教育の年代から「魔法が使える事が当たり前」と教えられるのに、その大前提を持ち合わせていない、というのは────。深く思案せずとも想像できる。社会からの拒絶。周囲からの拒絶。そして孤独に蝕まれて……そんな檻の中で、きっと目の前の彼は生きてきた。苦しかっただろ、と簡単に同情する事がはばかられて、翠に出来るのは伊織が紡ぐ続きを、静かに待つ事だけだった。


「……ううん、大丈夫。兎も角僕は魔術で傷をケア出来るから、怪我の事は気にしないで。自分の健康管理は自分でするべし。医師として、よく分かってるよ」

「そっか。なら、いいけど」


そのやり取りを遮るように、怜が咳払いをひとつ。


「……話は終わったか」


彼はデスクの上のパソコンに一度目線を流して、翠に視線を向ける。青みを宿した眼睛に射抜かれて、そういえば精査、終わってねぇんだったと現実が脳を過ぎった。途端に疲労が襲ってくる。すっかり温くなった珈琲を流し込んで、メディの造り上げたタワーの頂上に新たな缶を乗せておく。……次からはアイスコーヒーにしよう。そう、現実逃避をして。


「まだ八十件あまり残っているが、事故記録とインシデントレポートの数が合わない事に気付いているか、櫻田」

「あ、やっぱり?俺の見過ごしかと思ってた」


翠はそう言ってタブレットを睨みつける。その隣にはA4のコピー用紙が置かれている。そこに引かれた「正」の文字────それは、魔法医療事故の記録数とインシデントレポート数の差異だ。病院は通常、医療アクシデントが起きた時にインシデントを提出する義務がある。それが、いくつか足りないのだ。患者が転んだ……というだけでインシデントを書く必要があるというのに、手術中のミスという大事態でインシデントを書かない、という事が有り得るか?乱雑に引かれた正の字を見つめる。


「いくつかインシデント、あとそれと同じ患者のカルテが無いんだよな。十個、二十個……いや、三十個は無い。見つからない」

「四十九人分だ。現時点でな」


怜はそう答えると、キーボードの上で指を動かした。文字列が入力されていく様子を眺めながら、翠は思考の迷宮に身を投げる。……秘匿された四十九人の患者。それが例えば、伊織や緋と同じ症例だったら?魔法医療に適応しない患者だったら?

────この一件は、自分と家族の、天璇大学附属病院の……そんな小さな範囲だけの問題だと思っていた。だが、そうではないかもしれない。魔法医療の適応にない患者が全国で出ているとなれば……それはれっきとした事件であり、それを紐解くための共通点が患者達にある筈だ。……そうは言えど、現時点でそのどれもが仮説である。何せ、この四十九件が伊織や緋と同じとは限らないのだから。

しかし、怜はまるでその仮説が正論だと言わんばかりの表情で言葉を紡いだ。


「カルテが隠されている以上、全日本病院協会……もしくは魔法省の魔法医療監理委員会が秘匿している可能性すら浮上する。病院のトップは全日病で、魔法医療のトップは魔監委だからな。……しかし、何故秘匿されているのに誰も疑問に思わないのか」

「俺に聞かれても。なんか魔法掛けられてるんじゃねぇの?洗脳系の」

「馬鹿か。秘密に気付く可能性がある危険因子全てに魔法を掛けていると?」

「馬鹿って言うな。……ま、だとしたら俺達も例に漏れず、魔法掛けられて調査ジ・エンドだよな~。……はぁ、マジで分かんねぇ。疲れてるし脳みそ働かせたくねぇよ……そもそもこの四十九例、魔法医療の失敗かも確定じゃねぇし」

「……いや。俺の個人的な見解だが、お前の仮説はおおよそ正しいかもしれない、とすら思っているぞ。綾瀬のような例外がある可能性を除いてな」

「え、なんで。四十九例が魔法医療不適応事例って仮説が?」

「……別ルートから探してみようと思ってな。見ろ」


顎でくい、とパソコンのスクリーンが示される。それに従って翠と伊織は怜の画面を覗き込んだ。────魔法省。魔法規制管理省管轄のセキュアサーバだった。その中の魔法秩序執行・違法対策局、通称「魔法執行局」のページが開かれる。そこに記された文字列、URLの波間をマウスカーソルは泳ぎ、ひとつのページを探し当てた。

真っ黒だった。漆黒の画面に、「制限付きアクセス」の警告が赤く点滅している。

「真っ黒、だね……」と伊織が口にする。その言葉は柔らかいが、どこか緊張を孕んでいた。


「別ルートって、何だよ」


危ないサイトなんじゃねぇの。そう不審に思ったままに口にする。怜は横に長い瞳を器用に動かして翠を一瞥すると、静かに、だが確かに自信を抱いた口調で答える。


「俺は医師の端くれだが、同時に国のトップの魔法士でもあるのでな。魔法省の認証コードを持っている」


彼はそう言って、キーボードに長い指を滑らせた。

瞬間、画面が切り替わる。認証、の二文字とコードがいくつか示され、ファイルの群れに導かれた。ファイル群の中のひとつをカーソルが叩き、それが開かれるまでの数秒の間に、翠はファイル名を脳裏に刻みつける。そこには紛れもなく、「20200608医療魔法不適応案件」と記されていた。


怜の瞳がひときわ鋭くなる。アドニス・ブルーを宿した眼いっぱいに動画ファイルが映し込まれ、ぎらりと閃いていた。

……そういえば、何故怜はこの件について、自身の権限をフル活用するほど食いついているのだろうか。翠を突き動かすのは好奇心だ。妹の死に、魔法医療の失敗が関係しているなら……それを明かす事が自身の宿命だと思う。唯一の、償いだと思う。そして同時に、そこには己を許したいという免罪への渇望があった。


けれど、怜は違う。怜にとっては緋も伊織も他人の筈だ。

伊織の主治医として……という事は理由のひとつなのだろう。むしろ、それが大きな原動力の筈だ。彼はいつだって、患者の事を第一に優先する。起こった悲劇は二度と繰り返さないという強い意志を感じる。

────しかし、どうしてそこまで他者に首を突っ込むのか、翠には理解しかねる。何かがあるのだろうか。勇者のようにひたむきに、他者に手を差し伸べ続ける彼に。


「……お前さ、何か隠してない?」


疑っているような口調になって、「言いたくないならいいけど」と慌てて取り繕う。そんな翠を一瞥した怜は静かに答え、スクリーンに再び目線を映した。


「別に、隠すような事ではない」


その言葉が、闇を孕んでいる気がして仕方がなかった。

冷たい双眸の奥深くで、何かが涙を流している。


「……失ったものを取り戻す事は出来ない。ならば、失う前に守るほかに道はない。俺はもう二度と、取り返せないのだから」


酷く重い響きを含んだ声を振り絞る。何が、と問い返そうとして────そこで動画が再生された。翠の言葉を動画の中の電子音が遮って、それ以上を聞く事は叶わなかった。


ファイルの中身は、一件の動画だった。

再生されたそれは、手術の一部始終。

執刀医が胸部にメスを当てる。開胸器で胸骨を開き、心臓と心血管を露出させる。……心臓手術だ。翠は息を殺して続きを目に焼き付けた。

指先を患部に押し当てる。呪文が唇から紡がれる。白光が収束し、画面が一度白飛びし────。


「!」


────次の瞬間、心臓から血が噴き出した。目を凝らせば、どこから出血しているのかが見て取れた。表面を走る血管、つまり冠動脈からだ。心電図の波形が歪み、警告音が鳴り響く。倍速で見ているのかと疑うほどに、医師と看護師の動きが慌ただしくなる。先日手術室で見ていた光景と同じものが、その先に綴られていた。


「……お前が言っていた『破裂』の瞬間だ。綾瀬の時もそうだったが、魔法を使用して血飛沫が上がる、というのは体内の魔法因子が局所的に高圧状態になっていたから、としか考えられん」


怜が冷静に語る。


「……マジかよ。俺の天才ぶりが証明されちゃったな……」


思わずそう引き攣った笑みを零したが、即座に隣から皮肉が飛んできた。


「証明されたのはお前の運の良さだ。全てが同じ事例とは言い切れない。だがこれで分かっただろう……秘匿された四十九例は、魔法医療不適応の患者である可能性が極めて高い」

「そしてそれは、病院……或いは病院の上層組織で隠し通されてて、魔法省のみぞ知る悲劇、って事かな」

「そうだ」


伊織の呟きを怜が肯定する。……病院のデータベースには患者の記録が無い。だが、魔法執行局の制限ページには確かに彼等の手術の「失敗」が記録されている。魔法執行局に見つかっている、という事は即ち魔法省にマークされている、という事で、しかし未だにその悲劇は繰り返されている────。


「……これ、想像以上にヤバい事態、だったりする?」


危機感を孕んだ口調で、そう零す。怜が小さく「かもしれん」と答えた。

……そこに在るのは何の陰謀か。そこに隠されているのはどんな真実か。駄目だ。疲労が蓄積した脳でこれ以上思考を働かせられない。翠は手元の新しい缶コーヒーを開栓して、喉に流し込んだ。常温になったそれは、胸焼けしそうなほど甘ったるかった。


「……何故この四十九例が医学界で秘匿されているか分からない。医療の失敗は秘匿で終わらせてはならないのだから。俺は医師、でなく医療魔法士、としてこの症例を洗ってみようと思うが……推理は門徒外だ。次はお前が考えろ、自称天才」

「無理だろ、俺探偵じゃねぇし。ホームズどころかワトソン役も無理。辞退する。伊織に頼んで」

「えっ、僕!?僕も推理は、小説程度の知識しか……」


嫌な役目の押し付け合い。たらい回し。誰も探偵役を買ってなど出ない。

しかしそうは言っても、既に彼等はこの渦巻く事件に足を踏み入れている。「探偵」としてこれを暴くいわれは無い。けれど、「医師」として────彼等はこのアクシデントの真実を公にする義務がある。此処で諦めて目を背ければ、悲劇が繰り返されるだけなのだから。伊織は助けられた。だが、次も助かるとは限らない。翠はぐっと掌を握り締める。


「……このオペ、結局成功、したのか?」

「嗚呼。執刀医が非魔法医療に変更して成功している。患者はまだ健在、の筈だ。このオペの後に何らかのトラブルが無ければな」

「ふぅん……名前分かる?」

藤堂とうどう……一慎いっしん、だな。尾道おのみち在住……近いな」

「じゃ、これ此処でした手術の可能性もあるくね?だって尾道の総合病院ってさ、今医師が少なくてオペしてないだろ。特に心臓外科」

「前例は櫻田教授から聞いた一例だけだと思っていたが────まさか。他にも同じような症例があったと言うのか……?」


沈黙が落ちる。「秘匿されている医療アクシデント」という現実が、いやに大きい臨場感を携えて一同の間に立ち込める。確かに、あった。失敗した記録が残っている。失敗したオペは、存在している。それが、この天璇大学附属病院で行われた可能性が示唆されて、翠の背に冷や汗が伝った。自分の知っている誰かが、この件に関係しているような予感がして。自分の知っている誰かが、心に野望を抱いている予感がして。自分の知っている誰かが────人類を脅かす、敵になるような予感がして。

伊織が、ぽつりと呟いた。

その言葉に、敏感になった身体が素早く反応する。


「……僕、その人……知ってる、かも」


翠と怜が同時に彼を見た。山吹色を含んだ瞳がゆらゆらと揺れて、秘められた過去をその中で反芻している。伊織は慎重に言葉を選びながら紡いだ。声が、微弱なビブラートを描いている。


「藤堂一慎、先生。僕の記憶が正しければ……尾道の養護施設の園長先生、だと思う。確か、去年骨折したとかでリハビリに一度僕の病院を訪ねてきて、うちは内科だから……でも追い返すのも申し訳なくて、医科魔術で痛みの緩和だけした、んだよね、サナ」

「あ……藤堂さまですか?昨年、確かにおいでになりましたっ。サナの頭を撫でてくれたの、よぉく憶えていますっ!」


翠の瞳に期待が灯る。

……どんな謎であれ、解決のためには情報が肝だ。情報量はそのまま力になる。それは魔法においても、推理においても重要な事だ。あらゆる可能性を試す。あらゆる可能性を潰す。そうした先で、残ったものが────どんな歪な形をしていても、真実なのだ。どこかの名探偵が口にした台詞を思い出して、視線を持ち上げる。

缶のタワー建築を終了したメディが、のんびりとした口調で「やる事、決まったぁ?」と声をかける。当然。そう答える声が、怜と重なった。


「尾道へ行く。そこに、何かがある」

「同意見だ。……なら、」


怜がそう告げ、一瞬言葉を詰まらせる。それに気付いて翠が彼を横目で見た。

自分より僅かに低い背丈。瞳が、静かに伏せられているように感じた。まるで、何かを躊躇っているように。……どうしたんだよ。そう声をかけようとして息を吸いこんで────そんな翠にわざと重ねるように、怜は唇を開く。


「……なら櫻田、俺の家に泊まれ」

「……はぁ?」


突拍子も無い提案に、心配していたのが嘘のような素っ頓狂な声が飛び出る。泊まれって、なんで。家くらいあるっつーの。つか、先週からずっとバスで片道二時間も揺られながら通っていたのに、今更「泊まれ」?

不信感を抱いている翠に気付いたのか、怜は溜息を吐きながら答える。


「……好き好んで泊めようと言っている訳ではない。尾道に向かうにしても、俺が空けられるのは午前中の僅かな時間と夕方だけだからだ。お前だってまだ講習があるのだろう。午前十時には市内へ戻ってこなければならない。そんな都合のいいバスがあると言うのか?」

「……ない」

「だろう?しかしこれは本来、天璇大学附属病院の問題だ。それに付き合わせておいて、泊まる場所も提供しない、というのは社会人としてどうだ。別にホテルに泊まりたいならばそれでも構わん」

「……。」


少しだけ、興味はあった。目の前のこの好敵手が普段、どんな部屋でどう過ごしているのか。……そして同時に、この男の心に巣食う闇とは一体何なのか。

まるでお泊り会だ。いつまで経っても「他者の家に赴くのは胸が高鳴る」というのはつくづくガキだな、と考える。

怜は本当に渋々、といった様子で、苦虫を噛み潰しているような顔色で口を開く。


「……医局にも近い。綾瀬も来るなら部屋はある」

「え、僕も?僕、住んでるの尾道だけど……」

「正直櫻田と二人きり、というのは非常に気まずい。緩和剤が要る」

「……酷くね、それ」


淡々と告げる怜を一度睨んでおく────その視線が彼と合った。彼ははぁ、とひとつ溜息を吐くと、至極嫌そうに「……それで、来るのか、来ないのか」と問いかけた。


「有難いけど、うちの外来の混み具合とかによるなぁ……確定、とは言えないかも。夕方までには連絡するよ、レイ先生」

「分かった。櫻田は?」


視線がゆったりと向けられる。その硝子玉のような瞳孔を覗き込んで、翠は短く答えた。


「……行く」


窓の外は五月下旬のやや鋭い光が差し込んで、一週間前の雨空とはまるで別世界だった。白い鳩が群れを成して群青を切り裂く。萌黄の木々は静かに歩道に黒を落として、葉の隙間から覗く光の糸は柔らかい。

胸に、小さな光が宿る。

正義にも悪にもなりうる好奇心────それは確信とも希望ともつかない。

けれど確かに、翠が歩む未来を照らす、ひとつの恒星であった。




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