星がひとつ、筋を引いて水平線へ流れていった。
晴れた夜。広島の空には春の大三角が輝いていた。アークトゥルス、デネボラ、スピカ……それらは静かに瞬き、時折薄い
翠は怜の運転する車の助手席に座り、膝に置いたスマートフォンを手に持つ。右隣の男と二人きり、という状況がどうにも気まずい。怜が伊織を誘いたがっていた気持ちが、今なら分かる気がした。車のエンジンが低く唸り、窓の外を流れる中区の夜景がぼんやりと目に映る。
スマホの画面に指を軽く乗せると、LINEのグループチャットが表示される。「医師の上にも三年」という意味不明な名前が目に飛び込み、適当なフリー素材のアイコン──どこかで見た記憶がある柴犬のイラスト──が翠を嘲笑うように主張している。メディが勝手に決めたものだった。当の本人は、後方座席で手遊びをしつつ夜景に目を細めている。
突貫工事で作ったこのグループに、伊織からのメッセージが投稿されていた。『やっぱり今日行けないかも……!ごめんね……!』と、泣き顔の絵文字が添えられている。投稿時刻は十八時。翠が画面の左上を見ると、既に二十一時を回っている事が示されている。
伊織は燦和メディカルクリニックの夜勤が入り、結局来られなくなったらしい。術後一週間の患者を夜勤って。行った事もないその診療所のブラックさを垣間見て戦慄する。なんちゃらかんちゃら────名前は忘れたが、鎮痛と骨折ケアの魔術を使うと言っていたのを思い出す。怪我、悪化してないといいけど……そう彼の身を案じた。
その下に、初期アイコンから『了解』の二文字が無機質に並ぶ。怜だ。彼らしいな、と翠は小さく笑った。その簡潔さが妙に落ち着く。だが、その下に返した『マジかよ、置いてくな』というメッセージは全員に既読スルーされている。いや、返せよ。この後俺から話しかけづらいでしょーが。少しむっとしたのを隠すように、窓の外に目を遣る。芳香剤のシトラスが、疲労が蓄積した脳を占めて思考を奪っていった。
────車の速度が緩やかに落ちる。
到着したのは、広島市
運河に囲まれたこの街はマンションや一戸建てが立ち並び、学校や公園も点在する「子育て世代に人気」の地域だ。決して人通りが多すぎず、夜になれば住宅街の静寂が穏やかな空気を漂わせる。
……母が亡くなった後、翠も十二歳から十五歳────つまり中学生時代をこの周辺地域で過ごした。中区の高層マンションで父子で暮らしていた記憶が蘇る。刹那、罪の意識が這い寄って、追い払おうと頭を振った。
「……まさか大学どころか、住んでた地区まで同じとはなぁ……」
零したその言葉を聞いて、怜が助手席へ目を向ける。ハンドルを握る手が一度止まり、彼は後退して駐車スペースに車を停めながら、静かに返した。
「……櫻田、光南に住んでいたのか」
「俺は光南じゃなくて
「……引っ越したのか。そういえば、櫻田教授は未だに────」
「うわ!羽虫やばッ!怜、早く家に入ろう、な!?」
声を遮り、車のドアハンドルに手を掛ける。畳み掛けるように告げたそれに怯み、怜が「あ、あぁ……」と困惑の声を漏らした。
……父との生活が嫌いだった訳じゃない。けれど、あの数か月。緋を殺めて二人きりで暮らした初春の記憶は、二度と思い出したくないほど心に傷を残している。それを、悟られないよう。────怜に踏み込まれるのを拒絶して、笑顔を貼り付けた。
車のドアが閉まる音が静かな住宅街に響き、怜が玄関の鍵を慣れた手つきで開ける。翠はメディを従え、急いで室内に飛び込んだ。
玄関をくぐると、
「部屋はあるって……一軒家だったんだな、怜。こんな広い家、一人で住むには勿体ねぇだろ」
靴を脱ぎながらそう、口を開く。どう考えてもこの家は家族向けだ。大きい家に住みたい人間など五万といるが、目の前の彼がその類とは思えなかった。怜はそれには答えず、メディに視線を遣る。
「メディヴァは二階を使え。掃除はしてある。……流石に男と同じ部屋は良くないだろう。好きに使うといい」
「レイはボクをレディとして扱ってくれるんだねぇ。おにーさんも見習いなよぉ、毎朝ボクの下着姿をな・が・め・て・さぁ?」
彼女は紅い瞳を細め、わざとらしく翠に体を寄せる。
顔が紅潮して────否、する筈もない。上昇したのは羞恥メーターではなくイライラ・メーターだ。メディの頭を軽く叩きながら声を荒げる。
「その口縫い合わすぞ!お前が下着姿で寝てるからでしょーがこのクソガキ!」
「きゃー♡ こわぁい!おにーさん、顔真っ赤だよぉ?レイ、見て見てぇ」
「腹立ちすぎて火山噴火三秒前なんですぅ。本気で殴られてぇか!」
本当に本気で殴ってやりたいが、その一線を超えたら虐待として訴えられかねない。俺はまともな一般成人男性だ、というプライドを高く掲げ、手刀でごすごすと木魚を叩くように弾くだけに留める。
「わぁん、いたぁい」
「うそつけ。タンスに足の小指ぶつけた時の方が痛そうにしてただろ」
「それはそう。あの時、ほんとに死ぬかと思ったよねぇ」
「そんなんで死ぬかよ。ったく、反省しねぇなお前」
「そんなに褒めても何も出ないよぉ?」
「褒めてねぇわ!!」
「レディ扱いかと思ったら子供扱い?ぶぅ。ボク、もうれっきとした大人だよぉ?」
メディが唇を尖らせて抗議の目を向けている。その手が飾り棚に伸びて────翠が慌てて咎める。人の家の物を勝手に触るんじゃないよ。危ないでしょーが。伸ばされた右手を掴んだまま、ぎろ、と冷ややかな目線を彼女に向けるが彼女は臆さない。真っ直ぐなルビーの瞳が「なんで?」と訴えかけている。
「勝手に触るなよ。壊したら怜に怒られるだろ、俺が」
「おにーさんが?」
「そう、俺が。監督不行き届きだってな」
「間違いないな」
「そこは『お前のせいじゃないだろ』って肩持てよ、怜」
メディが「えぇー……」と間延びしたつまらなそうな声を吐き出し、陶器の小さなウサギを指差した。そこに悪気はない。けれど悪気のない
「でもこの置物、すっごく可愛いよぉ?レイ、これ何?」
「……家族から譲り受けたものだ。触るな」
怜の声が僅かに低くなり、じわりと怒りの色が滲む。それを感じ取ったメディは大人しく手を引っ込めた。
「むぅ……ケチ。おにーさんなら『しょーがねぇな、好きにしろ』って言ってくれるよねぇ?」
「な訳ないだろ。此処の主は俺じゃなくて怜なんだし。触って壊したら、お前が弁償するのか?」
「おにーさん」
「即答かよ。……まぁ、そうなんだけどさ。だからダメなの。ほら、いいから寝ろ」
彼女を階段の方に押しやる。深紅の瞳が不満そうに歪められたが、気付かないふりをして「早く寝ろ」と言い放つ。そのやり取りを眺めていた怜が、冷静に唇を震わせた。
「櫻田の話を聞く限り、朝になかなか起きられないのだろう」
ぎく。メディの肩が分かりやすく跳ねる。目の前の少女の弱みを握った翠が「そうだそうだ~」と便乗した。
「お前、昨日も深夜まで漫画読んでただろ。怜の家で寝坊したら置いてくぞ~」
「な、なんでおにーさんがその事知ってるの…?」
「医者の観察眼舐めんな。本棚に仕舞われた漫画の向きと位置が掃除した時と違ったんだよ」
「こわぁ……」
「たまにはいい子になって早く寝ろよ。お前の体を思いやって言ってんだからな」
「うゆ……分かったよぉ……」
コイツは、意外とこの「お前の事を思って……」の手口に弱い。それは恐らく、翠の事を大切に思っているからだ。彼がそこまで自分を思ってくれているなら。そこまで言うなら。────そして同時に、彼にとっては「この
言い負けた事を悟ったメディはしぶしぶ頷き、酷くゆっくりした動作で階段を上がっていった。小さな足音が遠ざかり、階段の手すりが微かに軋む音が響く。それを見送ってリビングまで上がり込んだ二人の間には、既に居心地の悪い沈黙が流れていた。
怜が窓を開ける。初夏の夜風がカーテンを揺らし、遠くの運河の音が薄く聞こえてくる。咳払いをひとつした彼の口から、社交辞令的な言葉が紡がれた。
「……まぁ、なんだ。適当にくつろげ」
「適当って。お前、接待下手だろ。珈琲くらい淹れてよ」
翠がソファに腰を下ろし、空気を緩和しようと軽く笑う。
「仕方ないだろう。俺が家に人を呼んだのはこれが初めてなのだから」
「理由にならねぇし。しかも、友達いねぇの?」
「お前の口も縫うぞ、櫻田」
鋭い眼光で射抜かれ、「ごめ~ん……」と小さく手を挙げて謝る。それを見遣った怜は無言でキッチンへ向かった。そこから程なくして、珈琲の香りが漂い始める。豆を挽き、丁寧にドリップしている音が静まり返った世界で反響する。別に、インスタントでもいいのに。真面目なヤツ。そうひとつ息を吐いて、手持ち無沙汰になった翠はリビングを見渡した。
シンプルで、無機質な空間であった。
家具はソファとテーブル、テレビと棚がひとつあるだけで、壁には絵も写真もない。窓からは春の大三角が見え、街灯の光がカーテン越しに淡く差し込む。窓枠の隙間から入る小夜風がカーテンを小さく揺らし、部屋に冷たい流れをもたらしている。棚の上には医学書が数冊積まれ、背表紙が少し色褪せているのが見えた。
怜の生活感は薄く、まるで止まった時間がそのまま切り取られているような錯覚さえ覚える。
────その視線が、部屋の隅に止まる。
そこには小さく、だが確かに、仏壇が置かれていた。
黒い木枠に囲まれた二つの位牌と、白い菊の花が静かに佇んでいる。仏壇の前には線香立てがあり、灰が僅かに残っていた。
胸が、どこかざわついた。
怜の過去に、何かがあるんだ────そう思った途端に今まで抱いた「違和感」が鮮明に思い出され、彼の秘められた内側に一本の道を結び付けている。だけど、いきなり踏み込むのはまずい。探ってるのが悟られちゃ、まずい。翠は内心で呟き、軽い口調でリビングの向こう、併設されたキッチンで円を描きながらドリップをしている怜に向けて切り出した。
「お前、一人暮らしなの?」
「それがなんだ。もう三十だぞ。未だに誰かの世話になっていると思うか?」
「一人暮らしでファミリー向けの一軒家って。……何、婚約してるとか?」
「していない。実家にそのまま住んでいるだけだ」
「実家……ご両親は────」
しまった、と思う前に言葉が口を突いて出た。翠は一瞬息を止め、怜の反応を伺う。
怜の手が、一度止まる。彼は無言でドリップを再開して……暫しの休符の末、静かに、悲しげに答えた。
「死んだ」
首を縄で絞められているような息苦しさを覚えた。
鋭利な刃物を突き付けられているような寒気と、鎖を巻かれたような胸の痛み。
「……事故?」と、彼の傷を抉る発言しかできない自分が酷く情けなかった。
「事故ではない。病気だ」
怜の瞳が、漆黒の液面を映している。その硝子玉のような双眸には、翠の姿は無かった。絞り出された声には感情が無く、どこか遠くに想いを馳せているような浮遊感があった。
「……十七の時にな。マラリアだ。アフリカ旅行中に感染して、二人とも帰ってこなかった」
翠は言葉に詰まる。怜の声は平坦で、感情を押し殺したような響きがあって。濡れた艶やかな瞳には深い翳りが宿っている。彼に過去を思い返させた責任から逃げるように仏壇に目を戻す────気付かぬうちに、そこに刻まれた名を読んでいた。一色、茂。美和。酷く無感情に記された文字列は、他人事だというのに翠の心に苦しさを呼び込んだ。
「……寂しく、ないのか」
要らぬ言葉だ。そう、分かっている。けれど阿呆な自分の喉は、震える声でそれだけを紡ぐ。
「慣れた」と一言、キッチンから聞こえた。その声は低く掠れていて、それだけで彼の胸中を察する事が出来る。
「……両親は、別に立派な人間だった訳ではない。いい成績、いい学歴……彼等が見ていたのは『俺』ではなく、『出来の良い息子』だった。毒のように纏わりついて、うざったいと、消えてほしいとすら願っていた。その願いを、神は叶えたのだというのに。」
……居なくなると、何も残らなかった。
怜のその言葉が、翠の喉を締め付ける。その言葉が、胸の奥に刺さる。瞳を長い睫毛の下に伏せ、過去の亡霊に囚われた彼に、自身の姿を重ねた。緋の冷たい手が脳裏に浮かぶ。メディの歪な嗤いが、鼓膜に蘇る。
「……親父が言ったと思うけど。……俺も、妹を亡くした。俺の魔法のせいで、死んだみたいなもので。……ごめん、俺の話なんて、興味ないよな。でも────大切な存在を失う苦しみは、
過去を、誰かに言うつもりなど無かった。
「辛いんだ」と嘆くのも、「悲しかった」と涙するのも……緋を殺した自分には、与えられていない資格だと思うから。けれど────怜の話を聞いて、彼を慰めたいと思った。救いたいと、思った。失う事は、痛いから。影のようにずっと付き纏う罪は、重いから。彼が抱えている痛みが伝わる。それを軽くしてやりたいと思うのは、きっと人間の性なのだ。
怜が顔を上げ、初めて目を合わせた。青みがかった髪が光に照らされ、その瞳に僅かな揺れが見えた。彼は笑みを繕う。そこには確かに、慈愛と優しさが存在していた。
「……似たようなものだな、お互い」
いつもの冷徹な彼の口から発せられたとは信じ難い、ぬくもりと脆さを宿した言葉。翠はそれに対し、「だな」と短く返す。彼が向けたあたたかな慰めと同じくらい、否、それ以上の想いを込めて。二文字でどこまで伝わったかは分からないが、悪いように受け取られていない事だけは明確だった。
短い沈黙が流れる。
時計が、二十二時を告げていた。
スリッパが床を踏みしめる音が聞こえて、翠は顔を上げる。
「秘匿データは藤堂一人では無い。お前も見ただろうが、OPE・STREAMで過去に配信されていた手術────その全貌があそこには在る」
「……現時点での四十九例、って事だよな」
「そうだ。そして藤堂とお前の妹以外の四十七件は死亡が確認されていた。……だが、どの患者においてもカルテとインシデントレポートが存在しない。確信した。魔法医療の失敗は隠されている……俺は、もう二度と誰も失わせない」
医局で彼が口にしていた台詞が鮮やかに蘇る。
────失ったものを取り戻す事は出来ない。ならば、失う前に守るほかに道はない。俺はもう二度と、取り返せないのだから。
その意味を、翠は識る。
その言葉は静かに、怜の決意に輪郭を与えた。
翠は彼の姿を見つめた。彼の言葉に、緋への罪悪感と重なる何かを感じていた。
怜が珈琲をテーブルに置く。陶器と木面が重なる高音が響いて、漆黒の液面が上下する。香ばしい匂いが鼻腔を突く。「飲め、冷めるぞ」と背中を押されて、翠は優しくそれに口付けた。
「うまっ。お前、珈琲淹れるの上手いじゃん」
「両親が好きだったからな。淹れ方を覚えただけだ」
「へぇ……」
よい珈琲とは、 「悪い」要素を極限まで除いた珈琲だ……どこかの著書で目にした記憶が脳を過ぎる。誰の本だっけ、そう思案しているうちにもうひとつの名言が浮かんだ。
『珈琲とは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように清く、愛のように甘い』
……フランスの政治家、タレーランの言葉だ。確かに目の前で揺れる液面は宵闇のように黒く、マグマのように熱く、不純物のない清らかさで────そして、傷ついた心を慰めるように甘い。やっぱ、珈琲淹れるの上手いな。そう怜を心の中で称賛して、翠は再びカップに口をつけた。
「……昔の話、もうちょっと聞いていい?」
駄目に決まっているだろう、と冷たい視線を向けられる前提で、そう問いかけてみる。怜は横目で翠を見て、珈琲で唇を一度濡らして……「構わん」と呟いた。そこにはもう翠への抵抗はなく、寧ろ「彼になら曝け出しても構わない」という信頼さえ伺えた。
「え、いいの?」
「別に構わん。お前はふざけてばかりいるどうしようもない男だが、いざという時は茶化さぬ男である事くらいは分かっている」
「何それ、褒めてんのか貶してんのか分からねぇんだけど」
「褒めているだろう」
む、と紺藍の瞳が睨んでくる。ごめんって、と苦笑いを零して、もう一度彼に向き合う。先程言われたように、そこにはもう、茶化しの色は含まれてはいなかった。
「じゃあ、十七歳の頃ってどんな感じだったんだよ。アフリカ旅行って、急に決まったの?」
話したくなければ黙っていていいけど。そう優しく添えて、翠は彼の紡ぐ言葉を待った。怜は一瞬目を伏せ、ソファに座り直した。成人男性二人の重みを受けた革のソファがぎし、と小さく
「……高校二年の夏だ。両親が結婚二十年の節目を祝うと言い出してな。南アフリカの生態系が勉強になるからお前もどうだ、と母が提案してきた。俺は当時、勉強の押し付けでうんざりしていたから冷たくあしらった。『勝手に行ってこい、二度と帰ってくるな』……とな。母が最後に、『これからも、いつだって連れて行ってあげるから』と笑っていたのを覚えている」
「……それで、マラリア?」
「嗚呼。帰ってきたのは骨だけだった。学校から帰ってきた時、帰宅している筈なのに家には誰も居なくてな。電話が鳴っていた。病院からの連絡だった」
怜が小さく笑う。その笑みに、自嘲と自責が混じっている。
「居なくなってほしいと思っていたのに、居なくなると部屋があまりに広くて、あまりに静かで……寂しかった。最初の数日は幻聴で何度も電話が聞こえて、母と父の声が聞こえる気がして、夜中に起きていた」
そこで文章は区切られた。翠には、その先に「俺が望んだようなものだ」という続きが聞こえるような気がした。珈琲を喉に流し込み、カップをテーブルに置く。薄く色づいた陶器は、目の前の彼の肌と同じくらいの白だった。あの日の雪景色のような、白だった。
「……俺もさ、緋が死んだ時、似たような感じで。血溜まりの中で魔法唱えて、失敗して……妹が消えた。寂しいってより、俺が殺したっていう感覚の方が強かったけど。ずっと聞こえてたよ。
「……失うとは、そういうものだ。だから、俺はもう誰も失いたくない。我儘だ。医療漫画の金字塔ですら、『人間が生き物の生き死にを自由にしようなど烏滸がましい』と言っているのに……それでも俺は、これ以上誰かが死ぬのを見たくはない。お前もそうなのだろう?」
その言葉を受けた翠は目を閉じ、ソファに深くもたれた。薄い瞼越しに、仄かな明かりが眼球を照らす。開けられた窓から初夏の薫りが漂う。少し湿度を持ったそれは、濡れたアスファルトの匂いがした。
「俺は……分かんねぇよ」
小さく呟いた。聞こえてなくてもいい、と思っていたのに、怜の鼓膜はしっかり震えていたらしい。視線を感じて、翠は顔を背ける。
「緋を殺した罪悪感が消えなくて、医者やってる。でも、怜みたいに前を向けてるかっていったら、怪しいな。俺、あの日の血溜まりから抜け出せてねぇよ。メディと契約したのだって、罪悪感を埋めるためか、緋の代わりが欲しかったからか……分からない」
しん、と静まり返る。その空白の時間が怖くて、「ごめんな。俺が愚痴るつもりじゃなかったのに。忘れて」と笑った。怜はいくつか言葉を呑み込んだように唇を何度か震わせて────けれど、最終的にはっきりと翠に告げた。
「俺の憶測でしかないが、この事件を紐解いていけばお前の妹の真相も明らかになる。その時自分を呪うか
「……は、いいヤツぶりやがって。……でも、そうだな」
魔法医療の適応にない症例。隠蔽された診療録。
それらの謎……点と点を繋いで導き出される答えの星座だけが、翠の傷を埋めてくれる筈だ。「真実」をもって、己を救ってくれる筈だ。
今以上に縛り付ける呪いになるかもしれない。楔になるかもしれない。しかし────希望になる可能性は大いにある。
命を救い続けるのは、己に与えられた
「明日、尾道で何かが分かるかもしれない」
怜がそう言って、手元のタブレットに視線を遣った。
「分からないかもしれねぇけどな。袋小路に閉じ込められる可能性だってある」
そう言いながらも、翠は彼の抱える画面を眺める。
「そうなったらまた調べ直すだけだ。俺は諦めん……命が懸かっているからな」
「違いねぇな」
「……お前の仮説が正しければ、魔法医療の欠陥を暴ける」
「天才の俺に任せとけよ。お前の出る幕、全部奪ってやる」
「そうであれば、それに越した事は無いのだがな」
不敵に笑ってみせた翠を一瞥して、怜は静かに立ち上がった。
空は黒々とした宵闇に包まれており、窓に蛾が集っている。
────夜四つ、亥の刻。広島の街並みは、光を失ってすっかり寝息を立てていた。
「……俺はそろそろ寝る」
「二階?メディに貸しちゃっただろ、悪い」
「大丈夫だ。奥に和室がある……。来客用の布団をこの部屋にも持って来るから、お前は此処で寝ろ」
彼はそう言って、リビングを後にした。スリッパがフローリングを叩く軽やかな音が残響する。翠は一人リビングに残され、仏壇の菊の花が視界の端で揺れるのを見た。怜の家は静寂に満ちており、時折外から聞こえる車の音が遠くに響くだけだ。皐月の終わりを謳う夜風が窓の隙間から入り込み、カーテンを優しく揺らした。
翠はソファに寝転がり、瞳を閉じた。
怜の両親、緋、メディ。彼は両親を失って医者になった。翠は緋を失って、メディと契約した。同じ傷でも、進む道が違う。怜は強いのか、それとも自分と同じで、ただ逃げているだけなのか。
緋の血溜まりが脳裏に浮かぶ。
あの時、魔法が効かなくて震えた深紅の掌が、高い解像度で思い出される。
緋の瞳が閉じる瞬間、翠は何も出来ぬ子供だった。メディの紅い瞳が、その日の緋を思い出させる。
────契約したのは、俺を救うためじゃなくて、俺が自分を許せないからだ。
怜は両親の死を「慣れた」と言った。
けれど、翠があの日を克服する事は無い。
十五年間、無かった。そしてそれは、これからもずっとそうなのだろう。
十五年という月日が経っても、緋の声が頭から離れない。
窓の外では、春の大三角が雲間から顔を覗かせていた。翠はテーブルの上の二つのコップを見つめ、次いで怜が「布団を持ってくる」と言っていたのを思い出して、狭いソファの上で寝返りを打った。静けさが体に染み込み、眠気がゆっくりと襲ってくる。
明日、尾道で何が待っているのか。魔法医療の失敗、秘匿された四十九例。怜の執念と、翠の仮説。眠りの海に堕ちる前、彼は怜の背中を思い浮かべた。細い線。自分より僅かに低い背丈。だが怜は確かに、自分の足で立っていた。自分の足で、進んでいた。
……アイツ、俺より強いかもしれねぇな。
部屋の灯りが、暫くの後に消える。
夜空を彩る三角形だけが、