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Chapter04:疵を隠す陽光

五月二十八日、水曜日。


尾道おのみちの朝は、夏の予感と春の余韻を抱えながら始まっていた。


夜の気配を払いきれずに残る雲が、空を白く染めている。その切れ間から細く漏れ落ちた陽光が、穏やかな海の水面を撫でて光の帯を纏っていた。まるで、誰かの記憶の奥底をそっと照らしているようだ、なんて詩的な思考が脳を過ぎる。

古びた石畳、瓦屋根の続く家並み。車窓から流れゆくそれらに、翠はふと、胸の奥を掴まれる感覚を覚えた。懐かしい────いや、懐かしさに似た何か。行った事のない場所に既視感を覚えるような、少し不思議な心地であった。


時刻は午前八時を過ぎたところだ。十時には広島市内に戻らなければいけない。……朝八時、ちょっと早すぎたかもな。しかも、滞在時間は一時間も取れねぇし。大の大人が組んだスケジュールの癖に、少々強引すぎたかもしれないと苦笑する。

しかし、その思いを押し留めるように、紛らわせるように……視界の先に人工的な建造物が白く浮かび上がった。


────うみかぜ学園。

白い外壁と大きな窓。建物を囲むように植えられた木々は恐らくソメイヨシノだ。その園舎は静かに、丘の上から瀬戸内の海を見下ろすように建っている。建物の脇に広がる園庭には朝の柔らかな光が差し込み、小さな笑い声が風に乗っている。澄んだそよ風のようなその音は、翠の懐かしき、そして愛しき日々をなぞって想起させていた。


「此処は学園が併設されているから、朝が早いんだよ」


白い車体から顔を覗かせ、次いでドアハンドルに触れて外界へ身をひるがえした伊織がそう教えてくれる。初夏にしては厚手のスウェット。綺麗に整えられているものの、ところどころから毛玉が飛び出ているそれが、彼の穏やかな印象を一層高めていた。


「学園、って事は学校も付属してるって事?」

「そう。小学部と中学部が併設されてる。小中学部の子達は、もう教室に入ってる時間だよ。保育部の子達は、ちょうどお外の時間で……」


そう語る伊織の表情は、どこか懐かしい風景を思い出しているように感じられた。

風が髪を弄ぶ。服の隙間から吹き込んだそれは、静かに翠のTシャツを揺らして朝日に微睡んでいた。


「────ただいま、うみかぜ学園」


ふと、伊織は静かにそう呟いた。

まるで、自分の心にだけ届くような声だった。翠は思わず足を止め、その横顔を見つめる。穏やかにんでいるその瞳には確かに、深く沈んだ翳りがあった。


それは、誰にも触れられたくない、触れる事が赦されない影だった。

あまりに自然な声で紡がれた彼の言葉は、ここ数日の中で最も伊織の本心に近いものなのだと直感する。


何も、言えなかった。

ただ視線だけで「聞いている」と伝える事しか、翠には出来なかった。


やがて、五人は門をくぐった。

玄関口に立っていた若い職員の女性が、此方に気付いてにこやかに頭を下げる。「おはようございます。何か当園にご用件ですか?」と問う彼女に、伊織が微笑みながら答えを返す。彼が頭を下げたのに釣られ、翠も四十五度のお辞儀をして……ちょっと、浅かったか。そう一人後悔を覚えておいた。


「おはようございます。藤堂先生にお話があって伺いました。今、いらっしゃいますか?」

「ええ、園庭にいらっしゃいますよ。今朝はお天気もいいので、子供達と一緒に外に出られてるんです。園庭は廊下を真っ直ぐ行った先の扉から出られますので、どうぞ」

「ありがとうございます。お邪魔します」


伊織が代表して礼を告げ、廊下へ踏み出した。靴を右手に持って、靴下でフローリングを踏みしめる。夜を宿したままの廊下はひんやりと冷たく、足音がひたひたと響いている。音を立てないように、と静かに歩けば、必然的に歩む速度は低下する。翠は足を進めながら、退屈凌ぎを図って廊下の壁に目を遣った。

白く塗られた廊下の側面には、子供達の描いた絵や工作、折り紙が所狭しと並んでいる。色とりどりの紙が空想の世界に形を与え、この現実に顕現させている。幼い彼等の「概念」が、形となって現界に宿っている────まさに、小さな魔法だ。

動物、ロケット、虹、海の生き物……そのどれもが、鮮やかでのびのびと静かな廊下を彩っていた。


ふと、翠の足が止まる。背後を歩いていたメディが背にぶつかって「いたっ」と声を上げた。掲示板の端に貼られた一枚の絵に、視線が吸い寄せられていた。


────ぼくのおうち あやせいおり 3歳


まだ未熟な線と、歪んだクレヨンの色彩。それでも、そこには静かに波打つ海と、小さな白い家が描かれていた。添えられたひらがなの名前を目で追って……翠は努めて優しく、傷に触れないように「彼」に向けて声を掛ける。


「これ、伊織が描いたの?」

「えっ」


静かに問いかけると、伊織は一瞬驚いたように目を瞬かせて照れくさそうに笑った。少し安心する。彼にとって「此処の記憶」が、思い返したくないようなトラウマではないのだと、そう悟って。


「昔から、絵を描くのが好きだったんだ。海が好きで、よくスケッチしてた。……此処から見える海の景色って、凄く綺麗なんだよ」


彼の指が廊下のカーテンに触れ、そっと布地を持ち上げた。途端に木造の室内に光が差し込む。真っ白な光に慣れた視線の先には、太陽を鏡のように映し込む、空と繋がったようなあおい海が広がっていた。海、と聞いて想像するようなコバルトブルーではない。植物プランクトンの豊富な瀬戸内の海はエメラルドグリーンを宿していて、生命の母であると力強く存在を示している。それを見て、もう一度伊織の絵に視線を戻す。確かに、海は青のクレヨンで描かれていなかった。緑と水色のグラデーションで塗られたそれは、彼がいかに瀬戸内海を愛していたのかを明確に語っていた。

「伊織の絵が上手いのは今もだろう」と、陽光に目を細めながら怜が挟む。


「そうなの?怜」

「嗚呼。心臓外科手術のレポートに、いつもイラストで図解を添えてくれている。緻密で正確だ」

「サナもお上手だと思います!ご主人さまの絵は、いつも心が温かくなります!」

「へぇ~。俺も見てみたいな、それ」

「ボクも。絵に詳しい訳じゃないけどぉ、気になるねぇ」


翠とメディが伊織に目を遣る。彼はひとつ苦笑いをして、けれど小さな自信を含んだ声音で唇を開く。


「あはは……そんな大したものじゃないけど、見たいなら、どうぞ」


伊織がスマートフォンを取り出し、写真フォルダを開いた。……スマホを人に見せられるって、相当だな。そう余計な事を思案する。自分だったら絶対無理だ。悪口を書いているとかそういう事はないが、写真フォルダは非常にまずい。大人たるもの、人に隠しておきたい趣味の一つや二つくらいはあるのだから。

手渡された直方体の箱を、翠は眺める。そこには鉛筆画、水彩画、デジタルで描かれた風景や動物、人体図などが並んでいた。どれも繊細な筆致と柔らかな色使いで描かれており、心に温かさと落ち着きをもたらす。上手い、と……その三文字の称賛しか思いつかない自分の語彙の少なさが憎らしい。


だが────ページを遡るうちに、十三年以上前の作品に辿り着いた途端。彼の作品が与える印象ががらりと変わる。暗い色調、冷たい質感、不穏な気配を帯びた絵の数々。荒れた筆致に、歪んだパース……伊織は二十九の筈だ。十三年前といえば、十六歳、高校生より前の頃。そこに彼を歪めた「何か」があると確信して、喉がきゅうと狭まった。その痛みに耐えながら生唾を呑み込む。依然として喉の痛みは消える事は無い。

暗いタッチで嘆くように、いきどおるように描かれたそれらはあまりに痛々しい。

今、隣に立って微笑んでいる伊織の穏やかさとはとても結びつかなくて……。けれど今まで彼が零した重みと翳りのある言葉、そしてこの手元に記録された作品の数々が────彼の心に巣食う傷を確かに弁じていた。


「……悪くない。っていうか、むしろ天才の部類に入ると思う、これ」


ようやくの言葉だった。喉の奥に、何か引っかかるものがあった。

絞り出した声は、平静を保てていただろうか。暗い響きを、従えていなかっただろうか。そんな疑念を悟られぬよう、翠は笑みを浮かべる。スマートフォンを返された伊織はちょっと困ったように、けれど嬉しそうに目を細めて笑っていた。


再び鳴り出す、行進の足音。それだけが占める室内は寂寂じゃくじゃくとしており、誰も口を開かなかった。廊下は決して長くはない。その終着点に、ひとつの扉が待ち構えていた。先頭を歩いていた伊織が一息にそれを開く────その先に在ったのは、朝を透かすような光が地面にまだら模様を落とす、芝生の園庭だった。


砂の匂い。木々のざわめき。子供達の笑い声が遠くから聞こえてくる。空気は澄んでいて、それなのに翠の胸の奥には奇妙なざらつきが残っていて。……この前から、どっかおかしいよ、俺。思考を紛らわすように、翠は園庭の「間違い探し」を始める。間違い探し、というより違和感探し、だ。子供の存在も、小型の遊具も違和感はない。この場で、違和感があるとしたら────。


視線が、自然とベンチの方に向いた。

そこには一人の老人……否、壮年男性というべきか。六十代前半の男性が腰掛けていた。


背筋はしっかりと伸びていて、身に纏うカーディガンも上品だ。だが、その下に覗くシャツにはキリンの模様があしらわれていた。その茶目っ気のある身なりで、翠にも彼が穏やかな人間である事が理解できる。

彼は翠達の気配に気付くと、すっと立ち上がった。その視線は一同の顔を横に移動して、最終的に伊織に向けられた。優しげな細い瞳がさらに細められる。短い糸を刻んだ双眸と、弧を描いた口元。彼はそんな表情に見合ったあたたかな声音で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「伊織君、久しぶりだね」

「お久しぶりです、藤堂園長」


伊織の声が、ほんの僅かに震える。懐かしさと緊張と、何か別の感情が入り混じったような声音だった。


「すっかり立派なお医者様だ……これは、去年と、五年前にも言ったね」

「あはは……とんでもありません。僕なんて、まだまだ新米です」


先日は夏を思わせる強烈な陽射しが肌を刺していたというのに、今日はまるで春のように柔らかに降り注いでいる。さわさわと草が笑う。まるで、言葉を交わす師弟────或いは親子の彼等を包んで慰めているみたいだと、不意にそう思って。翠も怜も口を挟まず、二人の再会をただ優しく見守った。

藤堂という男の、目元のしわが深くなる。


「謙虚なのは、いい事だ。君は、立派な人間だよ。……私の子供であった君に、で世話になった事は絶対に忘れやしない」


────治療。

思考が、一瞬だけ止まった。表情に出すつもりは無かったし、口にするつもりも無かった。彼等の再会に水を差すのは無粋だと思うからだ。……けれど、「此処に来た理由」を思い出して、聞くべきだろう、と心の中のもう一人の自分がGOサインを出す。視線は、自然と伊織から園長のもとへと向かっていた。


「……治療って、何の事ですか?」


咄嗟に出た問いだった。

藤堂が顔を上げ、初めて翠をじっと見る。


「おや、君達は……」

「あ、えっと……俺は櫻田翠です。こっちは左からメディヴァ、怜、サナクシエル。伊織の……あー、同僚、みたいなもんです」

「そうか、仕事仲間なんだね」


園長の口調は柔らかかったが、瞳は鋭さを持っていた。その眼光に穿たれた翠の肩がびくりと小さく跳ねる。人をよく見た者の、それだった。


「私は藤堂一慎とうどういっしん。このうみかぜ学園の園長をしている者だよ」

「藤堂さん。よろしくお願いします」


そう頭を下げておく。そんな翠の横で、怜が一歩前に出た。彼の瞳は真実を強く渇望していた。口調を整え、真っ直ぐに彼を見据える。


「朝早くからお邪魔して申し訳ございません。……あまり時間がないので、単刀直入にお伺いします。2020年、つまり今から五年前。藤堂園長、心臓手術を受けられませんでしたか?」


質問を投げている怜の気配が緊張を孕む。視線が厳しくなり、僅かに身を乗り出しているのが分かった。思わず、翠も息を呑む。反応を待つ数秒の時間が、いやに長く感じられた。


「……えぇ、受けましたよ」


やがて返ってきた声は、意外なほどに穏やかだった。藤堂は思い返すように瞳を持ち上げて、緩やかに口を開く。


「心筋梗塞で、天璇大学附属病院に運ばれました。詳しくはないのですが、心臓の魔法因子量がおかしかったとかで近隣の病院では無理だった、と聞いたような。魔法医療を受けたと聞いているんですがね。昔はバイパス術……が主流だったん、ですよね。私が受けたのは、魔法で詰まった血栓を溶かす治療だった、と」


────違う。

心の中で、即座に否定する。その手術は確かに見た。あれは明らかに、魔法医療で完結したものでは無かった。非魔法的な、古典的な方法によるオペにかじを切られた筈だ。それとも、本当に魔法医療で事は成され、悪質な人間によって「手術の動画」自体が捏造されているのか?


「……しかし通常の魔法医療を用いた手術で、しかも成功しているならば病院がそれを『無かった事』にする理由がないだろう」


混乱を極めた翠の脳に訴えるように、怜が低く耳打ちする。思考を先回りしたような言葉だった。……確かにそうだ。「いつもの医療」ならば秘匿される必要が無い。静かに────だが確信を持って、怜は紡ぐ。


「術後に、何かにありませんでしたか。看護師の様子がおかしかったなど、何でも構いません」

「様子、ですか……」


その問いに、藤堂は少しだけ考え込んだようだった。瞳が暫し伏せられる。思考を巡らせている沈黙の後に、眉を寄せ、思い出すように口を開いた。


「……そうですね。特に大きな事は────いえ、そういえば……担当医が、変わったような気がします」

「担当医、ですか。……誰だか、覚えていますか」

「ええと……確か、神楽岡先生、だったと思います」

「神楽岡さん────?」


その名前に、翠の呼吸が数フレーム止まった。

神楽岡さんが、主治医?緋の手術を執刀していた記憶が蘇り、彼が落とした影に糸が繋がれる。緋の手術に、彼は立ち会った。そして、伊織の手術にも。……偶然か?それとも。

そんな訝しむ気持ちとは裏腹に、藤堂は朗らかに微笑んだ。


「あぁ、でも私は今こうして元気ですしね。伊織君の尽力もあって、随分助けられました」


襲い来る疑いを払うように、翠は視線を伊織に向ける。彼は否定する事も謙遜する事も無く、ただ穏やかに微笑んでいた。


「僕はただ、手助けをしただけですよ」

「伊織、手助けって……」

「五年前、僕がちょうど初期研修を終えて尾道に帰ってきた頃、園長が相談に来てくださって……。医科魔術で心と体のバランスを整える治療を試みたんだ。東洋医学の応用だね」

「医科魔術ってそんな事まで出来るのかよ……すげぇな」

「何でも出来る魔術、って訳じゃないよ。医科魔術では外科的治療は出来ないし」

「そうなの?切ったり縫ったりする方がよっぽど『治療』っぽいのに。概念的には簡単だと思うけど」

「基本的にはそう。でも……サナは使


その言葉に、翠はようやく腑に落ちたように頷く。そして同時に、彼が外科より内科を志した理由のひとつが「それ」なのだと察した。


「成る程……。それで、黒魔法的な外科治療は扱えない、と」

「そういう事」


天使は白魔法の使い手だ。悪魔が用いる黒魔法とは相性が悪く、適応しない。逆もまたしかりである。天使を殺すのは黒魔法による破滅であり、悪魔を殺すのは白魔法による浄化だ。彼等は光と闇、善と悪のように均衡を保っている。それは異界という存在が露わになって百年あまり、変化しない規則であった。

────創造と守護が、白魔法。破壊と断絶が、黒魔法。

白魔法と黒魔法では、概念の検索の時に接続する異界が違う。よってそれらは完全に分けられており、医療においても白魔法的治療と黒魔法的治療は明確な違いを持っている。白魔法的治療とは縫合をはじめとした「繋ぐ」医療で、黒魔法的治療とは切開をはじめとした「切り裂く」医療、というように。


「……でも、魔術ってホントにすげぇよな。未解明の魔法と違って、理論化されたものだから安全だし。魔術医療も、もっと広まればいいのに」

「そうとも限らない」


隣で怜が口を挟む。彼は横目で翠を見遣ると、淡々と言葉を綴る。その冷静な言葉は、どこか冷酷だ。けれどそれは、紛れもない事実だった。


「安全なのは、解明済みの概念を扱う『解明魔術』だけだ。ゼロから概念をプログラムする『創造魔術』の安全性は低い。……低い、どころか術者の生命を蝕むリスクすらある」

「……けど、魔法を使えない人にとっては────希望であり、奇跡である事には変わらないんだ」


伊織の瞳が揺れているのを、翠は見ていた。

彼は、ほんの少しだけ瞳を伏せていた。光の届かない場所で微かに揺れているその双眸に、微かに、何かが見えた気がした。


「────せんせい、せんせい!いっしょにあそぼぉっ!」


伊織、と声を掛けようとして吸った息が、遮られる。

園庭に響く子供達の声が空気を震わせた。年端もいかぬ幼子が一斉に駆け寄ってきて、伊織の腕や袖を無邪気に引っ張る。顔に浮かぶ笑顔はどこまでも無垢で、水晶のような透明な色を宿している。視線の先にあった空の青を忘れそうな勢いで、世界が一気に彩りを取り戻した。


「わ、っ。みんな、元気だね……!」


伊織が困ったように笑う。そこには先程の翳りはなく、いつも通りの彼の笑顔があった。集まってくる子供達を見て、サナとメディが待ちきれずに駆け出した。


「サナも!サナも遊びたいですぅ!」

「サナずるぅい!ボクもボクもっ!」


きゃあきゃあと走り回る二人の姿に、子供達の歓声が重なる。笑顔と紡がれる声がクインテットを奏で、園庭が初夏の陽射しに煌めいていた。

────だが、その賑やかさとは裏腹に。

翠の中には、ひとつの確信が静かに手を挙げていた。


「……藤堂さん」


不意に口を開いた声音が少しだけ低かった事に、自分でも気付く。ベンチにはいつからか影が落ちており、藤堂の瞳が流れゆく雲を映して静かに揺れていた。


「病院には、貴方のカルテがないんです」

「……私の、ですか」


翠は目を逸らさず、真っ直ぐに言葉を紡ぐ。

眼前に、太陽が在る。天球に低く提げられているであろう、今姿を隠しているそれは────翠に対して真実を暴き出せと指顧していた。


「怖がらせたい訳じゃない。不安にさせたいとも思っていません。……でも、俺達は今、とあるひとつの事件に直面してる」


沈黙が落ちた。翳った空の下で、冷たい潮風が足元を撫でていく。


「その中で、『記録が消された患者』が何人も出てきてます。……そのうちの一人が、貴方なんじゃないかって」


貴方なんです、と断言する事ははばかられた。殆どが死んでいるんです、とも言えなかった。それはささやかな優しさであり、見知らぬ「犯人」を庇おうとしている深層心理によるものだった。全部、嘘だったなら良かったのに。世界はいつも通り平穏で、何の事件もしがらみも起こらなくて、今日が何でもないただの一日だったら良かったのに。……けれど、現実はそう上手くいく筈もなくて。

藤堂は小さく息を吐いた。遠くで笑う子供達の声に、答えを探すように。


「……当時の主治医がね、『カルテに残せない事を、謝らせてほしい』と……そう言っていました。詳しい事は聞かされていないんですがね、ただ……私の症例はどうしても記録できないのだ、と。頭を下げられましたが、私は先生方のお陰で命を救われましたから……承諾しました。何か、都合が悪い事があったんでしょう」

「主治医。神楽岡さんですか」


視界の端で、怜が僅かに身を動かした。……先程から、神楽岡に対しての疑心が顔を覗かせる。「そう……でしたかね、神楽岡先生だったような、違ったような」と曖昧に答える藤堂に、背筋を冷やす何かを感じた。それをなだめようと視線を横に流し、脳を回転させる。


「……怜、神楽岡さんって、魔法医療が失敗した手術に関わってるよな」

「嗚呼……どの手術にも居た。そして言い換えれば、神楽岡さんが関わった手術のカルテがことごとく秘匿されている、とも言える。偶然とは思えない」

「それに、何かあるの……か」


翠は唾を呑んだ。まるで腫瘍の芯にメスが届いたような感覚を覚えた。だが同時に────その中核に根付く腫瘍が、妹を救った「彼」なのでは……という疑惑は、翠の心の重要な組織にまで刃を押し当てたような痛みを芽生えさせた。

神楽岡が事件の心臓を握っているのか。それとも、彼は無関係なのか。彼自身もまた、誰かの指示に従って動いているだけに過ぎないのか。白と黒、その間にある筈の灰色さえも疑わしい。いずれにせよ、安易には立ち寄れない領域だ……そう無自覚に悟る。一度作用したら、踏み込めば、二度と戻れなくなる気がして。いやに慎重になった彼を横目で眺めて、怜が小さく呟く。


「……神楽岡さんの事も気になるには気になるが、彼が全てを知っているとは限らない。四十九件全ての実態を把握しているとは考え難い。……何らかの組織が関与している仮説がある以上、記録を秘匿している組織を洗う方が先だ」

「つっても、どうやって」

「天璇病院の研究部門に情報があるかもしれない、と思っていてな」

「研究部門……?あぁ、魔法抗体やら新しい医療法やらを研究してるエリート偉人開発部門か」

「……病院では消されている記録が、魔法省側では残っている可能性がある。病院は厚労省の管轄だが、研究部門は文科省と魔法省の管轄下にあり、別の組織だからな」


思わず、成る程と唸った。同じ建物にあれど、組織が違えば扱う情報も違う────父親が緊急科医と研究医を兼業していて「違う組織だから情報のやり取りが難しい」と小さく嘆いていた過去を思い出す。盲点だった。


「それと、もう一つ」


怜が指を一本立て、「カルテが存在しないというより、『』可能性がある」と告げる。……言っている意味が分からない。存在しているのに、見えない?それはつまり……。眉をひそめていたところで、じとりとした視線と共に「少しは考えろ」と飛んでくる。


「カルテが無い以上、〈封秘ふうひ〉魔法が掛けられている可能性がある。可能性、と言うよりも……ここまで完璧に隠されているなら、十中八九これが使われていると断じてもいいだろう」

「封秘魔法……ってなんだっけ、レイ先生」


そう、子供達から解放された伊織が彼に問う。向こうから子供達、そして二人の異界存在が笑う声が風に乗って流れてくる。


「情報を完全に隠蔽する魔法だ。記憶操作にまで及んでいないのは術者の地位が低い事を意味する。魔法省の上部の人間が扱う〈封秘〉は、記憶まで完全に消去するからな」

「で、魔法省管轄の研究部門を探ってみよう、と」

「そういう事だ」


ふぅん、と曖昧に頷きながら視線を声の方へ動かすと、メディが風船を膨らませているのが見えた。頬が鬼灯ほおずきのように紅く染まっている。その隣で子供達に笑顔を振り撒きながら、膨らんだ風船を手渡しているのはサナだ。青、赤、黄色、橙────風船が空へ、地へ、ふわりふわりと舞っていた。

それを、一歩分だけ前方に居る伊織が見守っていた。静かに、そして、穏やかに。


「……そうだね」


彼はぽつりと呟いた。


「研究部門を調べながら……そこの人に、神楽岡先生の話も聞いてみようか」


そうだな、そう返事をしようとした刹那────ふわり、風船がひとつ、不意に風に乗った。

ふうせんが! 子供の一人の顔が歪む。唇から嘆きの声が零れ、それは風となって風船をさらに上空へ誘った。それを許さないと制するように、伊織がすっと手を伸ばす。空へと逃げかけた糸を見事に掴み取って、逃げかけた天空の使徒は大地に再び接続する。涙を浮かべた幼子の瞳が見開かれ、そこに安堵の色が宿った。誰もが、胸を静かに撫で下ろしていた。


────だが。

その瞬間、翠の視線はある「違和感」に吸い寄せられていた。

伊織の腕、長袖のスウェットの隙間から覗く白い肌に浮かぶ、無数の、薄く重なり合うしま模様。

「それ」が見えたのはほんの一瞬だった。見過ごしていれば、無反応で居られたら、どれほど良かったか。素直な喉元から漏れたのは「あ」という一声で、無意識のもとで紡がれた次の台詞は、彼の心の傷を蘇らせるのに十分な鋭利さを宿していた。


切り傷、?


それも、一度や二度の話では無い。何度も、何度も何度も何度も引かれた筋。自傷を繰り返した者だけに刻まれる、過去の軌跡であり痕跡であった。


「ッ!?」


伊織の顔色が、みるみるうちに青ざめた。翠と目が合った訳ではなかったが、彼は何かを悟ったように────いや、悟って。風船を子供に手渡すと、無言のままに身を翻して去っていった。

足音が、湿った土と芝生を掠めるように遠ざかっていく。

動けなかった。

それが、単なる過去の痛みではないと、直感してしまったから。


風が、追い風になって吹き抜けた。それはどこか甘い潮の香を連れている。

砂埃が舞い上がる。四月の気配を思い出させる陽射しが乱反射する園庭で、子供達の声が遠ざかっていく錯覚を覚えた。

翠は息を呑み込んだまま、地面を見つめていた。


────見間違いじゃ、ない。

伊織の腕に刻まれていた無数の横縞は、細く、浅く、けれど幾重にも重なり、いくつかは古く白く変色していた。今しがた逃げるように去っていった後ろ姿が、あまりに痛々しくて。あまりに悲しくて。その傷に触れる事が躊躇われる。だって、自分がそうだから。


……けれど。

けれど、見過ごせない。


翠と同じように、どうすべきか迷っている怜の瞳に訴えた。


「……怜、ちょっと離れる。サナとメディと、此処を頼む」


既に、一歩を踏み出していた。振り返って、一応の確認をする。やめろと言われても行くつもりなのだから、本当に「一応」だ。怜は何も言わずに頷いた。目線だけで、彼の雄弁な瞳は「行け」と促している。それに何も返さず、翠は伊織の後を追いかけた。


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