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Chapter05:クリスタル・ファクト

────残響する足音を追って辿り着いた園舎の裏手には、誰も居なかった。

じとりと湿度を感じる。建物の足元には苔が群生しており、土は若干濡れている。外壁の深い影が落ちて、そこだけ時間が止まったように静かだった。


その一角に、伊織は佇んでいた。


息を弾ませるような素振りもなく、彼はそこにただ、立っていた。

背を大木にもたれ、空を見上げて……手の甲で口を抑えるようにして、何かをこらえるような仕草で。

足音を殺して、近付く。音という概念すらも、目の前の彼を傷つけてしまうような気がしたから。ほんの一歩だけ間を開けた場所で立ち止まる。触れたら、壊れてしまうような気がしたから。

風が、壁際の細い草を揺らしている。影が、足元にいつまでもこびりついていた。

伊織の背中は、小さく見えた。普段の彼がどれだけ背筋を伸ばしているか、よく分かるほどに。


「……ごめん。俺、傷に触れちまった」


伊織は顔を見上げ、緩く首を振った。その瞳は依然として、翠を映しておらず、どこか遠い幻想を映し込んでいた。眼睛がんせいに、空を覆う雲の白が反射している。


「……ううん、いいんだ。僕も、急に……ごめん」


そこから先の言葉は、無かった。

沈黙が、二人の間に横たわった。


翠はその場を離れる事も出来ず、かといって軽々しく何かを言えるとも思わず、そして彼を置いていく事も出来ず、ただ立ち尽くしていた。伊織は桜の木に背を預けたまま────視線を地面に落としたまま、動かない。

数秒が、数分に感じられた。

沈黙は、嫌いじゃない。沈黙が続けられる関係こそが真の愛情であり友情だと、そう信じている。……けれど、これは違う。

胸の奥が軋む。自分の呼吸音と心臓の拍動だけが、やけに大きく響いた気がして……そこで、伊織がぽつりと呟いた。


「この学園……僕、三歳まで居たんだ」


そうなのか、と小さく頷いた。知ってる、とは言えなかった。細かく震えながら吐露する彼を壊さないよう細心の注意を払って、翠は綴られる続きを待った。


「親に捨てられて、此処で育った。記憶は殆ど無いけど……風の匂いとか、桜の感じとか、ふとした瞬間に思い出す事が、あるんだよね」


彼の視線が、ふわりと空を仰ぐ。萌黄の若葉が揺れて、薄い木漏れ日がその瞳に煌めいた。苔むしたソメイヨシノの大木は、翳って光の届きにくいこの裏庭で力強く生命の息吹を唱えていた。それが伊織を、慰めている。彼の傷を、埋めている。


「……聞いてくれる?」


その言葉は、悲しい響きを従えていた。

翠は、ゆっくりと地面に腰を下ろす。目線を向けられては、きっと話しづらいだろうから。勿論、と小さく呟いた二文字の返答は、伊織に対して全てを肯定する意味を贈っていると、そう信じたい。


「……僕ね、先天性の脳異常があったんだ。あと、それに伴っての魔法因子欠乏症。だから、知っての通り魔法が使えなかった。子供の頃は、周りと『違う』事が、それだけで怖かった」


ただ黙って、彼が紡ぐ低音のアルトに耳を傾けた。こういう事を、世では「傾聴」と云うのだろう。軽やかな風が、微弱な湿度と草の匂いを含んで吹き抜けていく。


「燦和クリニックの院長夫妻……今の父さんと母さんが、僕を引き取ってくれてね。家族として迎えられて、初めて救われたって思った。……でもね、学校じゃ────壮絶だった、かな」


伊織の手が、そっと自分の腕をさする。少しだけ毛玉の浮いたスウェットの袖が小さく捲れて、淡く白い線が覗いた。……痛い。腕が痛んでいる訳じゃない。けれど、確かに覚えた痛みが翠の表情を歪める。それに気付いた伊織が申し訳なさそうに「ごめんね」と笑った。馬鹿。お前の、せいじゃないのに。


「『神の失敗作』とか『魔法使い殺し』とか、いろんな言葉を投げられちゃって。学校には、行けなくなった、みたいな。小学五年生で不登校になって……高校は、通信でなんとか卒業して」


彼の声は、静かだった。けれどその中に秘められた重みは、痛いほど伝わってくる。

園庭の方から、子供達の笑い声が風に乗って届く。その音が、声が、彼の語る過去の影と不思議な対比を成していた。緋の笑顔が一瞬過ぎる。彼女の、色を失って闇に呑み込まれた顔が蘇る。翠は、過去に彼を重ねていた。


「……それでも、生きてきた。自分を壊そうと何度も思って、手首に血が滲むのを見て……ああ、『此処』にまだ生きてる証があるんだって、それだけ」


それだけ。伊織は、そう言った。

声を掛けようと頭を働かせても、無能な自身の脳細胞はエラーを吐き続けるのみ。

言葉を呑み込んだ。

何を言っても、薄っぺらくなりそうで。

ただ、隣に居ることしか、出来なかった。


「………でもお前は、今、此処に居る。お前は、医者になった」


紡ぎ出したその言葉が最善だとは思えない。けれど、翠にはそれしか言えなかった。


「うん。……あのね、サナと出会って変わったんだ。彼女が、僕に奇跡を教えてくれたから。医科魔術っていう新しい道を示してくれて────そこでようやく、僕は『人間』になれた気がした」


その表情には、静かな微笑が浮かんでいる。けれどそこには、神への僅かな嘆きが滲んでいた。

……最初から欠けていた、という事実。それが、どれほどの無力感を伴うものか。どれほどの絶望を従えるものか。翠には、想像する事しか出来ない。

この世界は、平等と公平を謳っている。けれど、『普通』で居なければ報われない。救われない。それが残酷な真実であり、現実である。

風がひときわ強く吹いて、葉の影が彼の瞳を一瞬隠した。


「サナはね、高校の時、家の近くの路地で倒れてて。雨に打たれて、鶏がらみたいに痩せてた。連れて帰って、食事を教えて……お風呂に入れて、着替えを用意して。」


伊織の端整な横顔を見つめた。

その瞳に映るものを、ただ受け止めようと見上げた。


「父さんと母さんがね、直ぐに受け入れてくれたんだ。クリニックで一緒に暮らすようになった。……サナがお返ししたいって言うから、『いいよ、困っている人を放っておけないだけだから』って返した。そしたら彼女、『伊織さまの夢を叶えたい』って言ってくれて……」


彼は穏やかに、そっと笑った。

風が、二人の間をすり抜けていく。


「僕、医者になりたかったんだ。でも、魔法が使えない自分には無理だ、って諦めてて。父さんや母さんみたいにはなれない、そう思い込んでた。ずっと。」

「……身近に居るほど、憧れって具体的になるよな。……苦しんでる姿も見て、それでも、『太陽みちしるべ』みたいに思える。……俺もそうだった。親父の背中を見て、医者になろうと思った」


ふと口にしたその言葉を反芻はんすうして、胸の奥がじんわりと熱くなった。

薄れていた記憶の想起によりもたらされた熱が、心の氷をゆっくりと溶かしていく。


────緋を殺した罪悪感が消えなくて、医者やってる。でも、怜みたいに前を向けてるかっていったら、怪しいな。俺、あの日の血溜まりから抜け出せてねぇよ。メディと契約したのだって、罪悪感を埋めるためか、緋の代わりが欲しかったからか……分からない────。


嗚呼、そうだ。

そうだったんだ。

違う。違った。もうひとつ、大切な想いがった。


妹の死がきっかけだと思っていた。

でも、その前からずっと……。ずっと、確かに「誰かを救いたい」と、そう願っていたんだ。


「……ヒスイ先生も、なんだね」


伊織が微笑んだ。その微笑みは、どこか、しがらみが解けたように柔らかかった。続く彼の口調は、どこか誇らしげに響く。けれどそれはおごりではなく、自分がようやく見つけた「光」を語る人のそれであった。


「ずっと自分に自信が無かったけど……僕自身の力で手に入れた魔術。サナとの出会いで借りた奇跡。それを得てから、少しだけ、自信がついたんだ」

「それで医学部に?……やっぱすげぇよ、伊織。お前は、お前が思う以上に凄い」


全部、心の奥底から思う本音だ。

「出来ない」と思い込んでいたものを「出来る」に変える事。それは、ただの希望や努力だけでは叶わない、届かない領域だ。伊織はそれを、ひとつずつ────自分の手で掴んできたのだ、と。それを知った翠は手放しで、彼を「凄い」と讃える。

お世辞など、そこには必要ない。ひたむきに歩む彼への心からの賛辞で唇を震わせる。

伊織は肩をすくめて、少しだけ照れくさそうに笑っていた。


「あはは、広島の大学は『魔術が危ない』って理由で落とされちゃったけどね。でも、愛媛の大学は可能性を見出してくれて。あの時の面接官は、僕の魔術式を面白がってくれたっけ」

「天璇に来ればよかったのに。天璇も面白いもの好きだぞ、お前が思うより。真面目な大学で俺が受かる訳ないからな」

「それは勿論、本当は行きたかったけど。中四国の医療研究の中枢だし、あそこで勉強出来たら誇らしかっただろうなって」

「行けただろ、お前なら」

「買いかぶりすぎだよ。僕、そんなに頭が良くないから。天璇は倍率が高くて諦めちゃった。……でも、場所は、何処でも良かったんだなって、今なら思う」


風が、木の葉を揺らす。柔らかな髪を撫ぜて走り去ったそれを、彼は視線で追っていた。瞳が天球を見上げる。その中心、頂点にはまだ太陽の姿は無い。白い雲の隙間からはただ、光の糸が重なり合うように紡がれていた。


「大事なのは、『そこで何を学ぶか』だから」


翠は彼に、感心と尊敬を含んだ視線を投げかける。

この男は、誰よりも傷ついて、誰よりも揺らいできたのに。

誰よりも真っ直ぐに、進もうとしているのだと。


「六年間勉強して、研修を経て、今に至る。僕は心を壊して、呼応するように体調も悪かったから……心と身体を一緒に治す医者になりたくて、漢方と、東洋医学をやってる」

「……凄い道、歩んできたんだな」


その言葉には、心からの敬意が滲んでいた。


「そうかな。でも……確かに、大変な道のり、だったかな。だけど、どれも無駄じゃなかったって思える」

「それがあって、今のお前がある。────全部、意味がある」

「それは、ヒスイ先生もだよ」

「……俺?」

「うん。苦しい過去を乗り越えて、受け止めて、今のヒスイ先生がある。先生が決めてきた事は、きっと間違いじゃない。『正解』じゃなかったとしても、『間違い』じゃない」


暫く、言葉を返せなかった。

伊織には、緋の事、魔法の失敗の事、メディとの契約の事……そのどれもを話していない筈なのに。だけど彼は、「間違いじゃない」と言った。翠の事を、認めようと真っ直ぐに見つめてくれた。

……どうしようもなく優しい男だ、と眉を下げる。その下から雫が溢れそうになって、空を見つめた。全部、眩しすぎる陽射しのせいにしようと、そう責任転嫁をして。


「……はは、何それ、哲学かよ」


吐き出した声は、震えていなかったろうか。歪んでいなかったろうか。その心配が杞憂だと教えるように、伊織は優しく微笑んだ。「僕は心も診てるからね」と返ってきた言葉を噛み締めて、もう一度空を仰いだ。園舎に落ちていた影は次第に弱まり、陽だまりが葉の隙間から零れている。二人の間に流れていた重たい空気が、ほんの少しだけ、軽くなっていた。


そして。

その空気を断ち切るように、彼等のもとへ怜が歩いてきた。

太陽を背負うような凛とした立ち姿に、相変わらず感情の読めない無表情を貼り付けた顔。だが、その背に乗っている空気は優しかった。昨晩から感じていた変化に、心の中で変わりすぎだろ、と茶化す。

……違うな。最初から、こうだったんだ。

俺が、彼の────彼等の真実を知らなかっただけで、ずっと。


「……次は研究部門だ。仕事の関係上、此処にも長居はできん。今日の夕方、研究部門へ向かうぞ。準備しておけ」

「うげ……講義、あるんだった……」


現実を思い出して頭を抱える。休む暇もなくクソ怠い講義かよ。最悪だ。もう寝てやる。絶対に寝てやる。評価なんて知らねぇ。昨日思った教授への慈悲と共感が嘘のように、翠はそう講堂での過ごし方を決定して立ち上がる。

まさか寝るつもりか、という冷たい視線が飛んでくる。……だが彼はそれを咎めなかった。溜息を吐くと、ひとつ目を細めて続ける。


「お前達が園庭を離れているうちに藤堂園長が教えてくれたが、この学園の子供のうち、数人が病気で入院したそうだ。天璇病院で、魔法医療による治療を受けた、と」

「……まさか。そのカルテが、もし無かったら────」

「そうだ。彼等もまた、『秘匿』されているかもしれないという事だ。そしてそれは同時に、魔法医療の失敗を意味する」


魔法医療の、失敗。

その言葉が落とす影の重さを、その言葉が墜とす星の暗さを、翠は知っていた。誰よりも、よく知っていた。

握り締めた掌に力がこもる。ぎり、とそれは小さく音を立てていていた。


「……魔法医療の欠陥を、誰かが隠蔽してる。絶対許せねぇな……患者の命を救うっていう志が、足りねぇんじゃねぇの」


伊織が言葉を重ねる。


「医療は、『心』を無視しちゃいけない。僕みたいに……壊れる人が、出る」


その一言は、彼自身の語った過去を裏打ちするものだった。

重いけれど、真実。

先程唇から紡がれた過去が、絶望が、その言葉に色を与えた。形を与えた。


妹を殺めて背負った業。

両親を失って繋がれた枷。

そして、得ずして生まれ落ちた故の傷。

それらが透明な水晶のような彼等の世界を、真実という色彩で鮮やかに彩っていく。そこに描かれた「真実」という一枚の絵画は、血濡れた緋色を彼等に見せつけている。見せしめている。


「……ならば、此処で足踏みしている訳にはいかないな」


怜の呟きを受けて、海からの匂いが一同の背を押した。

……いつの間にか、風は凪いでいた。

それでも、桜の葉は静かに揺れている。あの桜の下で交わした言葉は消えない。見つけた真実は、消えない。思い出した宿命は、消えない。

それらをしっかりと胸に刻んで、彼等は戦いの場へと、一歩を踏みしめた。

あの日抱いた心の篝火かがりびは、まだ光を灯し続けていた。



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