午後五時四十三分。
結局、曇り空が終日晴れる事は無かった。空は灰色を抱えながら天球を覆い、昼と夜の境目が曖昧なまま、
その建物は閑散としており、いくつかの部門は既に今日の業務終了を謳っている。東の端にある魔法技術開発の研究部門もまた、業務時間終了間際の空気が漂っていた。けれどそこには確かに明かりが灯っていて、人が居る事をはっきりと明示している。
……当学、及び当院の研究部門には抗体研究部門、幻想生命体研究部門、魔法生体工学研究部門、魔法薬理学研究部門……あと一つ、何だっけ。兎も角、魔法と医療の融合を目指す研究部門が五つ存在している、と今日の講義で教わった気がする。気がしているだけかもしれない。何故なら今日の講義は、心臓血管外科の術式選択の話が始まるまで居眠りを決め込んでいたものなので。
廊下に立ち込める人工照明の白光だけが、窓の外の少し不穏な薄闇を拒絶している。
「……ギリ、間に合ったな」
息を整えながら廊下の角を曲がる。綺麗なターンだった。フィギュアアスケートなら何点か加点してくれてもいいと思う。だが此処は病院内の組織で、医療の現場だ。その先で待ち合わせをしていた
間もなく、眼前にガラス扉が現れた。シルバーメッキのプレートには「医療魔法応用・開発研究室」と刻まれており、その脇には控えめな観葉植物が置かれている。ドアの奥で淡く光るスクリーンの灯りが僅かに漏れて、銀色の文字が蛍光灯の光に鈍く反射していた。
扉の向こうに微かな人の気配。ノックをしようか迷ったが、その前に向こうから人影が近付いてきて────数秒と待たず、軋んだ音を立てながら扉が開かれた。
白衣姿の女性。五十代くらいだろうか、落ち着いた雰囲気で視線は真っ直ぐ此方を射抜いている。白衣の下は恐らく深緑のブラウスで、細い首元に提げられた
「どうしたの?こんな時間に研究室まで」
厳しそうな見た目に反して、声音は澄んだソプラノだった。彼女の指先と聡明な頭脳で、この中四国医療の中枢で用いられるAIが開発されたのだと思うと、凄い人物と対面しているのだという緊張が背筋に走る。
魔法抗体の開発は、当初は翠の父親である
仙田芳子は大学時代からよく聞く名前の教授であったが、実際に邂逅するのは初めてだ。自分だって大人だ、という謎のプライドが湧き上がってきて、緊張を悟らないよう得意の笑顔を貼り付ける。
「すみません、ちょっとカルテの確認がしたくて……」
極力丁寧に、愛想よく。しかし言葉がいつもより硬くなり、力の入った身体が熱を帯びるのを感じていた。が、そんな緊張をよそに、仙田教授は翠の顔を見るなりふと表情を緩めて、口元を弧に笑わせる。
「あら、貴方櫻田教授の息子さんね?確か……翠くん。ごめんなさいね、櫻田教授の事を櫻田、と呼んでいるから貴方の事は翠くん、とお呼びしたいわ。構わない?」
「えっ、あ、え?……まぁ、はい。いい、ですけど」
「お母さんにも似てきたわね。親子揃って勉強熱心な事」
「いや、別に俺は……って、え?仙田教授、母さんと知り合いなんですか?」
「ママ友、ってところかしら。うちの子は翠くんみたいに賢くはならなかったけれどね。
……マジか。いや、それを言う?今、後ろで同僚(仮)が聞いているこの場で。
緊張とは別に、背中に冷や汗が流れる感触を覚える。後ろから「コイツ、乳離れ出来なかったのか」という湿り気のある視線を感じる気がして、笑顔が引き攣る。仙田教授の事は神に匹敵するような人間だと思っていた。優秀な白魔法の使い手で、新たな魔法や技術開発をあっけらかんとやってのける彼女に敬意の眼差しを向けていたのだが────ひょっとして、その才能と引き換えにデリカシーというものを失ったのだろうか。そう、ふと考えた。
「へ、へぇ……親近感、湧いてきました……」
誤魔化すように苦笑を浮かべる。それに恐らく気付いていない仙田教授はにっこりと微笑んだ。この人、悪魔だ。それも、純粋無垢なタイプの。
そう教授に対しての認識を塗り替えたところで、翠は表情を改める。彼女に対して個人的に聞きたい事は山ほどある。どうして父が魔法抗体の開発主任を降りて彼女がリーダーになったのかだとか、母とどのような関係だったのかだとか。けれどそれはあくまで個人的な疑問であり、「本題」を聞き出すタイミングを逃す訳にはいかない。今日は「それ」を聞くために、わざわざ研究部門まで訪れたのだから。
「それで、あの……
「藤堂、一慎さん……うーん……そうね、調べてみるといいわ。私は詳しくないの」
「……臨床医だったのに、ですか」
後ろから、怜の低い声が響く。……教授、臨床医だったのか。
大学で仙田教授の名前を目にしたのは何らかの難しそうな研究論文の末尾で、医師になってから耳にしたのは「魔法技術を使ったアプリや抗体の開発者」としてだ。彼女が臨床で働く医師であったのは初耳だった。
「昔の話よ。二十年前に現場は退いてる。……廊下で立ち話も如何なものかしら。入りなさい、綺麗とは言えないけれど、廊下よりはいい筈よ」
仙田教授は彼等を研究室内に招き入れると、静かに研究端末のスリープを解除して椅子を勧める。確かに、研究室の中は「綺麗に片付けられた部屋」とは言えない風貌だった。病院と同じなのはリノリウムの床と、アイボリーの天井、そして白壁だけ。そこに設えられた設備、実験器具、レポートの山、そしてコンピュータの群れ────それは確かに此処が「研究を担う場所」だと語っている。室内にはバイタルサインの代わりに研究員のキーボードを叩く音が満ちており、時計の秒針の時を食む音が、四つ打ちドラムのように残響してビートを刻んでいた。
コンピュータが微かな駆動音を従えて画面を明転させる。彼女の開発した魔法AIが補助機能として組み込まれた端末だ。検索は早い……希望する名前を打ち込めば、病院全体、或いは関連施設の記録まで自動で照会できるものであった。
キーボードに白い指が滑る。軽い打音が、研究室の静けさに溶け込んだ。
どうぞ、とそこで席が明け渡される。翠は会釈をしてキャスター付きの椅子に腰を掛けると、手早い所作で「藤堂一慎」と打ち込んだ。エンターキーを押した瞬間に検索が開始され、直ぐに数件の結果が表示される。どれも、さして古いものでは無かった。
────整形外科、昨年。転倒による骨折。治療として手術・入院・リハビリ。特に異常は無く、通院も終了。
「……んん……あるには、あるけど」
ディスプレイを眺めながら、小さく唸る。
確かにカルテ自体は存在していた。「藤堂一慎」という人間自体が秘匿されている訳ではない。けれど、翠達が欲しいのは「これ」ではない。
「魔法医療が適応され、結果として何かが起きた」という記録。もっと根底に関わる記録。
「無い、な……」
そう零した翠に、仙田教授が訝しむように告げる。彼女の視線の先には先程検索でヒットした「骨折のカルテ」がある。
「無い、って……あるでしょう?これじゃないのかしら、去年の記録」
「いや、確かに整形の受診記録はあるんですけど……そうじゃないっていうかぁ……」
「確かに藤堂先生は昨去年骨折してたね……昨日も言ったけど、それで僕のところにも来てるし」
「んん……どーも、記録されてる範囲が浅いんだよなぁ」
声のトーンが微弱に低くなる。翠は顎に手を添え、唇を軽く押して思考の海に潜り込んだ。……自分達が調べてきた事が本当ならば────いや、藤堂の話が本当ならば。彼は五年前に天璇大学附属病院で心臓手術を行った筈なのだ。軽く擦りむいてしまって……などというレベルの話じゃない、もっと深刻な治療の記録が残っていて然るべきだ。それが、病院の責務なのだから。
けれど、どこにも残っていはいない。診療記録も、手術記録も、カルテの添付も、何一つ。
電子カルテシステムの仕様上、カルテの記録は操作ログ付きで保存されている。意図的に消す事は不可能ではないが、簡単でもない。……やっぱり、〈
封秘魔法を扱えるのは魔法省の人間。そして研究部門の人間は魔法省所属。……だが、「魔法省によって追われており、組織内の魔法執行局で記録されている一件が、その内部の人間に秘匿されている」というのは、一体どういう事だろう。省内での問題なのか、それとも……。
迷宮化し出した思考にもやが立ち込め始める。ぐるぐると思案するのは得意じゃない。翠のモットーは「即決」なのだから。
型落ちした古いコンピュータさながら、円環のロード画面を顔面に貼り付けている翠を見遣った怜が溜息を吐いた。そして代わりに教授に向き直り、淡々と告げる。
「────ならば、話題を変えてみるか。……仙田教授、
予想外の質問だったらしい。仙田教授は瞳をしばたたく。何故?という疑問が、大人びた顔に浮き出ている。
「神楽岡先生?……彼の事なら、私より櫻田教授の方が詳しいんじゃなくて?男同士だし、オペを組むことも杯を交わす事も多いでしょう」
「櫻田教授が神楽岡さんと同じ舞台で手術をしたのは、十五年前が最後です。それ以来、彼は一線を退いて研究に従事していると聞いています。緊急科にも手を貸してくれますがね」
その説明に、教授はふと目を細めた。そこには確かな、櫻田玄真への信頼の色が含まれている。
「……確かに。研究室でよく見かけるわね。貴方は私と違って臨床医でしょう、ずっと此処に居ていいの?と問いかけた時に『今はこちらの人間です』と言っていたのはそういう事なのね……」
「親父、また言葉足らずな……すみません、うちのダメ親父が。だからリーダーも降ろされるんですよ、言葉も足りねぇし考えも足りねぇから」
「あらあら、ダメ親父って。そんな事言っちゃ駄目よ、翠くん。櫻田教授、仕事熱心なんだから」
「はあ……」
「それにしても一色くん、貴方……随分と櫻田教授の事をよくご存じね」
「弟子ですので」
怜が静かに答える。彼の言葉にはいつも通りの冷静さと、ごく僅かに熱が混じっていた。
────弟子。そういえば、怜が父に強く執着していたのは、そういう理由だったのか。好敵手で、暗い過去を持っていて、同級生で……そして、父の弟子とは。なんか、ここ最近でコイツとの間に多くの共通点が芽生えた気がする。自分を中心とした関係図の線が増えすぎて図面が真っ黒になっている予感がしたもので、翠は小さく苦笑した。
「……神楽岡先生、ね」
仙田教授がぽつりと呟く。
「彼は不思議な人よ。十五年前……翠くんの妹さん、
……やっぱり、その話に繋がるのか。
先程浮かべた笑みは、次第に真っ直ぐな口元へ変化していた。触れられたくない、触れたくない記憶だ。脳の奥底にこびりついて離れない癖に、それを示されると動悸がして吐き気を覚える。所謂、トラウマというやつなのだろう。
だが、一連の事故、或いは事件を暴くためにそれが必要ならば────覚悟を決めてその話を受け止めなければならない。そう、分かっている。
「私はもう臨床を退いていたから、詳しくは知らない。でも聞いていたわ。あの時彼は、確かに失敗したと」
空気が重くなるのを感じた。それは、自身の中の嫌な記憶がそうさせているだけなのか、全員が感じているものなのか。……恐らく後者だ。怜と伊織の瞳にも、影が落ちているのを翠は見た。蛍光灯の光さえも、少しだけ色を失った気がしていた。
「それでも、彼は悩む事なく、今も現役を続けてる。どうしてそこまで強くいられるのか、私には分からない」
数秒間、彼女の言葉が途切れる。
それはまるで、自分自身を責めるような沈黙だった。
「私は……いえ、私の事はどうでもいいわね」
視線が落ちる。胸元のロケットペンダントにそっと指が触れた。
静寂が、研究室の中に深く根を張る。重みを携えた居心地の悪さが植物のツルのように室内を占めて、それは緋色の蕾を垂らしているように思えた。
仙田教授の声音は穏やかであったが、どこか意味深な響きを孕み、空気をひりつかせていた。心の中で何かがうねる。緋の話を耳にすると、ずっとこうだ。抑え込んできた気持ちの箍が外れ、感情が津波のように込み上げてくる。
「……仙田教授」
思案するより先に声が出た。自分でも驚くほど低く、そして乾ききった声だった。
「教授は……妹の、緋の手術を……『
ロケットペンダントを握っていた彼女の指が、ぴくりと震える。それでも彼女は顔を上げず、ロケットをそっと掌の中で包んだまま、瞳を伏せていた。
────櫻田緋の手術もまた、病院では「
それは、一体何故?緋の手術は、特別なのか?それとも、彼等の中で何か別の意味があるからなのか────?
「……緋ちゃんの事を憶えているのは、私達の、罪の戒めだからよ」
そう、ぽつりと絞り出された。
記憶している。忘れてなどいない。十五年経っても……。
緋が「死んだ」のは、翠の魔法が失敗したから……という真実は、翠本人にしか知らない事だ。手術に立ち会った人間は、自分達の治療が失敗したからこそ起こった悲劇だと思っているのだろう。俺のせいなんです、教授のせいじゃ。そう言おうとしたが、喉が狭まって、声が出なくて、それを綴る事は出来なかった。
憶えている。憶えている、のに。
どうして誰も、口にしないのか。
どうして記録が、残っていないのか。
翠にとっては、大切な家族だった。たったひとりの、妹だった。
拳が震えて、喉が焼けるように熱くて。堪えようと思って、教授に「そんな事ありませんよ」と言おうと思って、必死に息を吸う。そう繕おうと思ったのに……吐き出された言葉は、酷く鋭利なものに変貌していた。
「……どうして、罪の戒めなんて言うんですか。どうして、緋は、死んだんですか」
愚論だった。自分でも、分かっている。
お前が殺した癖に。お前が、喰わせた癖に。自分が可愛くて他者を貶めようとするなんて最低だ。なのに唇から零れた言葉は「それ」で。
目の前の人は、少なくとも医師だった。緋の命を救おうとしてくれた側の人間だ。
そして同時に、緋の手術と直接の関係が無い人間だ。母親と縁があったからといって、妹と関係があった訳じゃないのに。
責めるべき相手じゃない。責めたい訳じゃ、なかった。
仙田教授は何も言わなかった。
ただ、ロケットを握りしめて、小さく、小さく瞳を閉じる。
沈黙の中で、彼女の肩が震えているのが見えた。
ようやく、彼女は言葉を紡いだ。
「……ごめんなさい、翠くん」
それは謝罪の言葉であり、懺悔でもあった。過去に戻る事など出来ない。未来を作り変える事など出来ない。この世界で時を操れるのは神だけで、運命を決められるのもまた、神だけなのだ。
翠が緋色の枷にいつまでも囚われているのと同じように、目の前の彼女や神楽岡、そして父もまた、枷に繋がれているのだろう。前に、歩めずにいるのだろう。
翠は
罪の意識に苛まれているのは、自分一人ではないのだと。
翠は識った。
あの時の手術を「記憶している事」だけが、記録のない今────残された者達に出来る、唯一の贖罪であるのだ、と。