いつしか、硝子の外には濃い藍が満ちていた。相変わらず数センチだけ開かれた窓からは、青葉の匂いが室内に染み始めている。触れただけで砕けてしまいそうな飴細工の薄い月が東の空に覗き、雲は身を離してそれを避け出した。故に、まだ逢魔時だというのにも関わらずミッドナイト・ブルーを宿した空には、一番星がはっきりと見えている。
メディとサナをまだ外のベンチに置いたままだ。病院の敷地内、とはいえ外に少女達を放置している事実が心をざらつかせる。けれど翠の脳裏には仙田教授の謝罪の声がこびりついていて、追っている謎の真相を急かす想いが渦巻いていた。考えるのは一旦終わり、と目を背ける事が怖かった。ささくれ立つ不穏な気配を見過ごしているうちに、何かが起きて、取り返しのつかない事になってしまう気がして、怖かった。
それはきっと、怜と伊織も同じだ。だから彼等は終業の時間だというのに、帰る事もせず医局のソファに腰を下ろしている。唯一デスクが与えられている怜は、パソコンの画面を無言で睨みつけていた。
「……病院が、秘匿してるのかな」
不意に、伊織が零す。
確かに手術は行われていて、当事者をはじめとした人間の「記憶」には残っている。「魔法医療の失敗」は間違いなく起こっていて、けれどそれは厳重に秘匿されている。そしてその異変について、誰しも口が重い。……病院全体が手を組んで行っていると想像するのも道理だった。けれど、それなら────それが真実なら、今自分達は敵の胃袋の中に居る事になるのだ。だからその仮説が間違いであると証明したくて、調査を続ける。だが調べるほどにそれが本当であるという根拠が見え隠れして、戦慄して……その悪循環。
誰も拾わない伊織の呟きに、秘匿ページの手術動画を確認していた翠が小さく答えた。
「怪しい、けど、秘匿する理由がねぇだろ。だって藤堂さん、手術成功してんじゃん。伊織の時も失敗したけど結果的に────待って、伊織のカルテ、残ってる?」
「それが、この件が『現在進行形で続いている』恐ろしい点だ」
デスクに座っている怜が、鋭い視線で翠を映した。数度、マウスをクリックする音がして彼はもう一度口を開く。乾いた言葉で冷酷な真実が語られた。
「綾瀬のカルテ、手術動画、全てが消去されている。……いや、秘匿されている、というべきか。今日の仕事中に気付いてな。紙のカルテならあるかと思い、探したが……それも消されていた」
「え、僕もその事件に組み込まれてるって、事……?」
「そうだ。要するに、これで五十例。綾瀬のカルテはシュレッダーに掛けられた、というものではない。白紙になっていたんだ。ご丁寧に主治医の俺のパソコンに、『当該症例は特例案件につき、魔法省直轄のセキュアラインに転送され、処理済みです』と通知を飛ばして、な。公式通知に見せかけたうえで、何者かが〈封秘〉魔法を掛けて処理したと断じていいだろう。今まで誰も秘匿を疑問に思わなかったのは、この見せかけの公式通知のせいだ」
「確かに、そうでもしねぇと不審がる医師が出てくるもんな。全国の病院でカルテ隠蔽が起きてるなら、カルテ管理が病院の管轄外になるっていう『理由』が要る。特例だのなんだの、魔法省を上手く利用しやがって」
思わず手にしたタブレットをテーブルに叩きつけてしまう。それに対して怜が視線だけで咎めてくるので、翠は一度タブレットを持ち上げてそっと置き直した。……それで先程の蛮行が「無かった事」になる筈もないのだが。
静かに怜の低音が響き、同時に窓の外の風が頬を撫でた。
「……隙間時間で残り八十七例をざっと洗ったところ、カルテやインシデントレポートの無い患者、そして魔法執行局で高度魔法士にのみ手術が公開されている症例が新たに二例見つかった。つまり、合計で五十二例だ。……1726例のうち、五十二例が秘匿されている。現状を省みて、これが魔法医療の失敗例だと言い切ってもいいだろう」
「何かモヤモヤするんだよなぁ。病院長が絡んでる気もするけど、なんか……もっと大きい陰謀がある予感もしなくはない」
「否定できないな」
翠の問いにそう答えた怜は、背もたれに身体を預ける。ぎい、とプラスチックが軋む鳴き声が小さく反響した。彼は天井を仰ぎ、暫し瞳を閉じると────もう一度パソコンに向き直ってキーボードを弾く。メモを走らせているのか、何かを調べているのか……機械の背しか見えぬ翠達には知りようがない事だった。
長い睫毛の下の双眸が、忙しなく上下左右に動いている。
「……考えたくはないが、現時点の情報だと病院全体の陰謀なのでは、という説は濃厚なままだ。だが秘匿する理由が見当たらない。綾瀬、藤堂、あと────兎も角三例を除く四十九例は死亡しているだろう」
「さっき見た。けど、確かに死亡してるな。非魔法に切り替えられたけど間に合わなかったってパターンもあるし、魔法医療を無理に続けてそのまま……って例も」
「……その失敗例に関してならば秘匿する理由にはなるが、手術が成功した例がある以上、成功例を隠す意味が分からない」
「どうせ、非魔法医療が駄目だとかそんな理由だろ。現に俺、医学界に白い目で見られてるし」
反射的にそう返す。適当な事を口走ったつもりだったが、その仮説もアリかもしれない、と思案する。伊織と藤堂、そして緋の手術……それらの共通点は「魔法医療が失敗し、非魔法医療に切り替えて成功した」という事だ。他の四十九例は知らないが、もし緋達と同じなら、秘匿される理由のひとつに「魔法医療の欠陥を見破られたくない」或いは「非魔法医療の方が先進的と知られたくない」という思惑があるのではなかろうか。となればつまり魔法医療を妄信している輩が「敵」という事で、即ち敵は天璇だけに限らず、〝全日本の病院協会〟────?
そう思考がエスカレートしたところで、怜が「あまり飛躍させるな」と釘を刺す。
なんだよ、俺の推理、違うのかよ。つか、お前も最初全日本病院協会を疑ってたでしょーが。そう
「何だよ、否定ばっかしやがって」
「否定ばかりではないだろう。以前の『魔法因子が暴走して、或いは何らかの原因で大量放出されて破裂が起こった』仮説は肯定した筈だが。それにお前の推理自体を否定している訳では……」
「あーハイハイ、言葉の
「……。非魔法に舵を切られたもの全てが秘匿されているのだと思っていたが、調べているうちに、秘匿されているものと公開されているものが出てきた。先ずは、これを見てほしい」
そう言って彼が示したのは、紙カルテを電子化した昔のものだった。どこのページの情報かを最初に確認する癖がついたのはごく最近だ。それは紛れもなく天璇大学附属病院のページで、この病院が職員向けに公開したものである事を弁じている。
天璇大学附属病院は中四国地方の医療の中核であるが、全国的に見れば地方の病院だ。ちょうど電子カルテが本格的に発表されたこの時代……地方医療の中枢、天璇病院では未だ紙カルテを使用していたらしい。
視線を文字列に移し、そこに書かれた明朝体を追って────。
────翠の喉が、小さく鳴った。
2005年、三月二十一日。その数年前にも脳手術が行われており、執刀医はどちらも仙田芳子。……正確には、2005年に行われた手術は複数の診療科、複数の執刀医で対応している。
脳細胞をはじめとした全身の内臓細胞が壊死しかけている状態。魔法医療による治療が試みられたが、効果なし。余儀なく非魔法で臓器移植と壊死した細胞の切除が行われたが……術中に死亡が確認。細胞が壊死した理由は記載されていない。何の疾患で、どうして。……それらの情報を呑み込む余地がないほどに、翠の双眸が捉える先にあった文字は衝撃を与えていた。
……
無感情に刻まれたそれは、紛れもなく、翠の母親であった。
知っていた。母は彼が十歳の頃に他界した。病気だった、だがもう手遅れだったと父が涙していたのを見ていた。滅多に嘆かない、そして泣かない彼が肩を震わせ、机に海を創りあげていた光景は忘れられない。それが彼の傷である事は幼くとも容易に想像出来て、何故母が死んだのかは一度も聞いてこなかった。
────それが、こんなにも酷い病状だったなんて。
……そんな想いを悟られぬよう、翠は母の名から目を逸らした。
落ち着け。落ち着け、俺。重要なのは母が死んだ事じゃない。仙田教授が執刀をしたという事と、魔法医療の失敗が公開されているという事のみが要点だ。私情に惑わされて真実を見誤るな────そう思考を巡らせて唾を一度呑み込んだ。吐き出した声が、まだ小さく震えていた。
「……これが、何故公開されているのか、って事か」
「そうだ」
そう短く答えた彼は、翠の心の傷、そして患者が親族である事には一切触れてこなかった。名前を見れば、関係は一目瞭然だというのに。それが彼の優しさである事は知っていた。だから自分も、これ以上動揺すべきでないと判断して……深呼吸の後に、気持ちを切り替える。
「……これ、天璇の職員専用のページだよな?」
「嗚呼。魔法医療が失敗した事例、非魔法医療が行われた事例、そして患者が死亡した事例。それらは同じなのに、これは公開されている」
「執刀医が仙田教授ってのも気になる……教授、母さんの手術してたのか。……まさか、それに失敗して尻ごんで、臨床を────」
「それは分からん」
返答の後に再び沈黙が落ちた。
……もう一度、状況を整理してみよう。
魔法医療の失敗が、秘匿されている。その数は五十二例。うち三例は確定で非魔法医療に切り替えられ、生きている。残り四十九例は死亡。彼等が非魔法に切り替えられたかはばらばらで、切り替えられたものの失敗した例もあれば、魔法医療を強行して亡くなった例も確認できた。秘匿された情報は魔法省・魔法執行局のセキュアサーバでのみ一部公開されているが、そもそも秘匿に使われているのは魔法省の人間のみが使える封秘魔法。つまり犯人は魔法省の人間である、とまで言える────。
「……待って」
瞳を横に押しやって数秒間脳をフル回転させる。
母の手術は公開されている。秘匿されている症例と「魔法医療の失敗」「非魔法医療の実施」「死亡」は同じなのに……いや、待てよ。
「でもそれだと俺の仮説が正しい事になるんじゃない?非魔法医療が失敗したから、『ハイ残念、非魔法は時代遅れで~す』って公開される。
「……ならば、これはどうだ」
マウスカーソルがもう一つのタブに触れ、クリックされる。それもまた、先程まで表示していたページと同じ天璇病院のものだ。母のカルテよりも古く、そこには達筆な手書きの文字が並んでいる。……
「
「僕の、逆だね」
伊織がそう返す。怜は頷き、手元の珈琲で唇を濡らしてから続きを綴った。
「三十年前、奇跡的に残っているカルテではあるが、お前の言う『破裂』が起こる可能性があったために魔法医療ではなく非魔法による大動脈置換術が行われた事例だ。彼はまだ生きている。非魔法医療の成功例だからといって公開されない理由にはならん。それに死亡した四十九例……非魔法に切り替えられたものも失敗しているだろう。今お前自身が至ったように、先程の仮説が正しいならそれらも公開されて然るべきだ」
「んん……てか、なんで鹿野さんが生きてるって断言できるんだよ」
「調べてみた。鹿野新は鹿野鮮魚、鮮魚店の社長を現役で勤めている。ホームページを見ただけだが、近日更新されているそれに彼の名が掲載されている以上、生きていると断定できよう。……最も、医療魔法法が成立したのは1992年だ。手術が行われた三十年前は1995年。まだ魔法医療が普及しきっていなかったから、とも取れるがな」
「はぁ~……へぇ……」
「……もっと具体的に言えば、2009年までは魔法医療、非魔法医療問わずどんな医療でも公開されていた。だが2010年を皮切りに少しずつ秘匿患者が現れ、2013年から増加傾向にある。秘匿されたのは合計五十二例。そのうち成功例は三例で、残りは死亡……だ」
「じゃ、成功例を隠す理由、ほんとに何なんだよ……」
壁に背を預けると、今日の疲労がどっと襲ってきた。肩をすくめて「お手上げ」を示してみる。……情報は増えてきた。手掛かりもある。けれど、真相が見えない。一体誰が何のために秘匿しているのか分からず、翠は窓の外を眺めた。メディとサナは、まだ律儀に待っているのだろうか。敷地内に設けられた街灯の淡い灯りがぼんやりと輝いて、視界が少し霞んでいるように思える。
思考を放棄しかけている翠を見遣り、怜が静かに口を開く。
「……ここからは個人的な俺の見解だが」
何かに気付いているような匂わせをした彼の発言に、焦点が吸い寄せられる。怜は暫く瞳を伏せていたが、やがて決意したように顔を上げた。
「……この事件は全て、患者の血液、或いは細胞に問題があって起きたアクシデントなのだと思っている」
「そりゃ魔法医療の適応にない、ってならそれも有り得るけど。隠す隠さない以前に、何が問題で患者から血が噴き出したのかも謎だし。……つか、最初はそこからのスタートだったんだもんな」
「そうだね、魔法医療の失敗が『秘匿されてる』事自体に着目していたけど、医療アクシデントが起こった『理由』に答えがあるなら────患者の体質に問題があった事に秘密が隠されてる可能性もあるよね」
「だろう?……カルテが無い、ならば『別のカルテ』を見てみようと思ってな」
怜の視線が上に持ち上げられる。翠と伊織も、彼に
その先にあるのは、壁掛けのテレビだ。家庭用のそれよりやや小さめの箱からは夕方のニュースが垂れ流されている。いつかの朝に見たものと殆ど同じ内容────健康診断を推奨するもので。……そうか。翠の頭に衝撃の電流が走る。
「あっ、健康診断の結果!」
「そうだ。魔法AIに秘匿患者の健康診断の結果を調べ出してもらった。その結果……」
「その結果……?」
思わずごくりと喉が鳴る。
怜は一度、言葉にするのを躊躇うように息を吸って……だが次の瞬間には覚悟をその双眸と態度に示して、一息に告げた。
「────それもまた、秘匿されている」
がく、と膝から力が抜ける。秘匿されてるのかよ。じゃ、意味ないでしょーが!
……しかし怜が言いたいのは「それだけ」では無いようだった。彼は「だがこれで確信した」と低く呟く。確信って、何が。頭の中をクエスチョンマークが占めている。自力で考えろという視線が痛い。しょうがねぇだろ、前も言ったけど俺は探偵じゃあるまいし。テレパシーで伝わらないかと思いながら睨み返す。
「健康診断の結果まで秘匿されている、という事は……裏を返せば『健康診断の結果によって欠陥が暴かれる可能性が考慮された』からだ。診断で検査される中で、患者の体の造りや状況が最も分かるものは……」
「血液検査、かな」
伊織が答える。怜はそうだ、と言いながら視線を背後の翠に向ける。その
「綾瀬の血液検査の結果は俺が見ている。データは白紙にされてしまったがな。……櫻田、お前も目にしただろう」
「術後のやつ?見た見た、確か殆ど正常で、魔法抗体の数値が今まで見た中ではちょっと高くて────まさか」
新たな観点に、思わず目を見開く。
そうか、盲点だった────。カルテは秘匿されている。健康診断の結果まで、厳重に。だがそれは裏返せば「そこに欠陥が潜んでいる」事の暗示で、以前目にした「秘匿症例」の伊織の検査結果で高かったものは、体内の魔法抗体数を測る数値!
魔法抗体数値、MA値は個人差が大きいため「異常数値」というものは無いと習っている。MA値は血液検査を行うと自動計測され、調査と管理の名目で魔法医療監理委員会に提出される。そしてその委員会は魔法抗体の開発運営に携わる組織でかつ、魔法省の組織でもある!
点と点が繋がった感覚を覚えた。暗雲が立ち込めていた脳裏で、ひとつの星座が形作られて煌めく。
「暴論だと嗤ってくれてもいい。何しろ、俺の推理はこの病院が、そして魔法省が大々的に掲げる成果に適合できない人間が居た、と嘲っているようなものなのだから」
怜が吐き出す声は、もう二度と誰かを失わないために貫く正義の意志と、天璇大学附属病院という箱庭を愛する熱意がせめぎ合った苦悩を匂わせていた。だが、彼自身もその「新たな視点」が真実に近いと確信しているのだろう。瞳を揺らし、葛藤しながらも……静かに、言葉を紡ぐ。
「現に櫻田和葉と鹿野新の血液ではその異常は確認されていない。……カルテが無い以上、伊織以外の五十一例がどうかは分からないが……もしカルテが見つかり、全てにそれが共通していたなら────つまり、彼等は『魔法抗体に不適合だった患者』なのだろう、とな」
「確かに、2013年……秘匿患者が増え始めた年、って言ったら魔法抗体の開発年度だもんな」
声が、僅かに低くなった。怜が翠を横目に眺めて「だとすれば、魔法抗体が適合できなかった『何かの理由』が患者達に共通している筈だ。何の異常があって適合できなかったのか、今は分からんがな」と零す。空気の温度が下がり、重さが増した感覚があった。
「あのぅ、魔法抗体って……悪魔の細胞を
「綾瀬、よく知っているな」
「一応、医学部時代に習ったから。うちのクリニックでも子供に接種してるし……」
「……悪魔、かぁ」
そう言って、メディの事を思い出す。早くアイツのとこに行ってやらねぇと怒るかな。野暮な事を考え、次いで「悪魔」という単語を脳内で反芻した。
悪魔。魔界に住まう幻想生命体。背に
「悪魔といったら異界学。異界学つったら、学問。大学の。……明日、大学行ってみる?」
翠は既に、確信していた。
この事件は、謎が渦巻く悲劇は、近いうちに終焉を迎えるのだろう、と。
そしてそれは……決して、物語のような大団を迎えないのだろう、と。
三日月よりさらに細い衛星が、唯一全てを識っていた。