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Chapter03:紙一重の祈りを

五月二十九日、木曜日。

正午を僅かに過ぎた天璇大学附属病院の講堂は、人の熱気にむせ返っていた。


窓の外では厚い雲が鈍く光を吸い込み、昼である事を忘れさせる仄暗さを宿している。湿気を孕んだ空気は重く、どこか生温い。吹き抜ける風も苛立ちを乗せていて、世界の機嫌が損なわれているような錯覚を人々に押し付ける。夕刻に、雨になりそうな空模様であった。

そんな中、翠は講堂の硬い椅子に腰を沈め、スマートフォンを弄びながら怠そうに欠伸を噛み殺しながら講義に挑んでいた。いや本当に怠い。怠いし居心地が悪い。早く帰りたい。幾ら悪態をついても消えない邪念を払うように、机の上に突っ伏して気を逸らす。


「ったく、なんでこんなところで今までの復習させられてるんだよ。縫合の仕方とか基礎も基礎だろ。俺達の事、バカにしてんの?」


シャープペンシルを指先でつつき、ぼやきながら隣を見る。

そこでは佑貴ゆうきが、真面目にノートを取りながら教授の言葉を一言も漏らすまいと耳を傾けていた。コイツ、そんな真面目くんだったっけ。大学時代の記憶では自分と同じ、サボり常習犯だったような気もするが。


「お前、よく真面目に聞いてられるよな」

「俺はお前と違って、模範的な卒業生だからな。魔法医療やってる身としてそれをちゃんと聞くのは道理だろ。さすがに理論の話は怠かったけど、今やってんのは臨床の話じゃん」

「臨床も興味ないね。非魔法で十分」

「いやそもそもさ、翠。お前魔法医療やれって言われたから此処に居るんじゃねぇの?」

「そりゃそうだけど」

「じゃあちゃんと受けなきゃ駄目だろ」


その言葉を聞いて、鼻で笑う。

俺が、魔法医療?絶対に御免だ。「あんな魔法」、金輪際使いたくなどない。あんな緋色に囚われて負う傷など金輪際、もう二度と、絶対に────増やしたくなどない。涙が枯れるほど苦悩し、悪夢に飛び起きる日々をもう味わいたくなどない。

……魔法が嫌いなのではない。本当は、怖いのだ。

他の誰かが使う魔法は成功すると信じられるが、自分が使うとなれば話は別だ。血溜まりの記憶が脳裏を過ぎって、心臓が止まりそうになる。祈りが呪いに転ずる予感が背筋を舐め上げて、恐怖が胸を蝕む。だから、魔法は使いたくない。もう、誰も殺したくはない。それにこれ以上自分を呪うと、きっと壊れてしまうから。

それを悟られないよう心に封をして、翠は気怠げな表情を繕った。過去に囚われている惨めな自分で居るよりは、常識を嫌う異端児である方が遥かに気が楽なのだから。


「やぁだね。俺、魔法嫌いなんだよね~。そんな講義受けるくらいならアプリで手術動画見てる方がよっぽど勉強になるし。第一、縫合に魔法使うならマジで医者要らねぇだろ。やり方覚えたら小学生でも出来るよそんなの」


揶揄うようにそう言うと、佑貴は苦笑してペンを止めた。彼の手元のパワーポイント資料にはびっしりと文字と図解が書き込まれている。


「おいおい、ひでぇよ。真面目に〈繕結〉の練習してる俺が馬鹿みたいじゃん」

「馬鹿だろ。じゃなきゃ、こんな講義受けてないでしょ?」

「違います~。俺は有志で、自主的に受けてんの。今日オペあるからミスしねぇように、な。この向上思考、尊敬しろよな」

「ハイハイ……」


魔法医療を正義だと信じられる彼の心の強さが、純粋さが、ただ眩しかった。「魔法」という、この世界を支配する常識をそのまま信じられたらどれほど善い事か。失敗など有り得ない。危険な筈がない。そう思えたなら、どれほど善かっただろうか。それが出来ない翠は、そっけなく返しながらも佑貴から視線を逸らした。逸らした先に壇上がある。そこでは父親────櫻田玄真が、淡々と講義を進めていた。彼を見ているのも、精神衛生上よろしくない。身内の講義というだけで居心地の悪さが倍増するのに、「娘を殺した殺人犯と被害者」であるという事実が心にのしかかる。

はぁ、と溜息を零して視線をスマートフォンに戻す。

怠くて、居心地の悪い講義。

事件に立ち会って、妹と同じ「魔法医療適応にない患者」に直面して、過去の傷を思い返す事が多くなった。世界はいつも通り平穏な日常を上映しているというのに、そこに不快感を感じてしまう己が憎い。

早く、終わってくれねぇかな。

酸素欠乏に陥った感覚がするのは、此処が締め切られた講堂である、というだけではないだろう。決して満たされないのに大きく深呼吸をして、これ以上余分な事を考えないよう思考を放棄した。


手放した思考を呼び戻すように、「午前の部はここまで」という声が降ってくる。ようやく、休憩か。心底ほっとしてスマートフォンの画面を暗転させる。

背もたれに寄りかかれば椅子が軋んだ。早く外の空気が吸いたい。この牢獄から早く脱したい。そう思って立ち上がろうとした刹那、講堂のドアがゆっくりと開かれた。


目に飛び込んできたのは、怜と伊織の姿だった。

例の無表情な鋭い眼光が真っ直ぐに翠を捉えている。伊織はやや気まずそうに微笑みながら、それでも翠の姿を認めると手を振った。


「櫻田、昼休憩だ。行くぞ」


怜の声は低く、乾いた命令のような響きを従えている。

翠は肩をすくめると彼に対して皮肉を綴る。


「了解ですよ、一色センセ。ったく、なんでそんな偉そうなんだよ」

「実際に偉いからな。未だ講習が終わらないお前と違って」

「ハァ~~~?ふざけんなよ、マジで殴るぞ」


口喧嘩じみたやり取りに、伊織がくすりと笑う。


「まぁまぁ、ヒスイ先生。レイ先生、ほんとはずっとヒスイ先生の事を気に掛けてたんだから。僕達の昼休憩は先に始まってたのに、先生たらずっと講義が終わるの待ってて……」

「黙れ、綾瀬」


怜の冷たい一言に、伊織は肩をすぼめて苦笑した。そんな二人を見ながら、胸の奥にじんわりと温かなものが灯る感覚を覚える。────この二人と一緒なら、少なくとも退屈はしない。彼等は自分を、認めてくれたから。冷たい過去があった事を知ってくれたから、選んだ道は間違いじゃないと言ってくれたから。

確かな信頼が、芽生え始めている事を悟る。この二人の前では、「櫻田翠」を取り繕わなくてもいいのだ、と。


「翠、怜といつの間に仲良くなったんだよ」


佑貴が肘で右手をつつきながらそう問い掛けてくる。

それに対して適当に接しながらも、自然と口元が緩んだ。この小さな絆が、今の翠には何よりも支えだった。


「別に仲良くねぇよ。……てか佑貴は怜と知り合いなの?」

「当たり前だろ。同期で同じ心臓外科だぜ?知らないワケないだろ」

「ふぅん……アレ?怜って緊急科じゃなかった?」


そう問いながら怜を見上げれば、彼は説明が面倒だと言わんばかりの声音で「ダブル・ボードだ。午前は心臓外科、午後は緊急科に所属している」と綴った。コイツ、二つの診療科を掛け持ちしているのか。ほんの少し感心した。そう、ほんの少しだけ。

「な?超人だろ?」と自分の事のように佑貴が笑う。


「ダブル・ボードしてる翠のパパに憧れたんだよな、れ~い?」

「気色悪い。それに教授を『櫻田のパパ』などと呼ぶな。失礼だ」

「親父に礼儀もクソもねぇけど怜に同意。パパって呼ぶな気持ち悪い」

「ひでぇな、お前ら」


佑貴は目を細め、眉を下げて笑うとペンケースから黄色の蛍光ペンを取り出した。昼休憩だというのにこれから講義のまとめに入るらしい。……今日、オペがあるんだったか。その念入りな予習復習は、手術を必ず成功させるという強い希望の下にあるものなのか。それとも、失敗の恐怖を潰そうと奮闘している事の表れなのか。それは彼にしか知り得ない事であった。ただ、彼のその「努力」を遮る権利は、翠達に与えられてはいない────それだけは事実だ。

それを知った怜が「すまないが真田、櫻田は借りていくぞ」と冷淡に告げる。


「何?昼飯?いーよいーよ、俺の翠をよろしく」

「誰がお前のものになったんだよ」

「あはは、いいから行ってこいよ。お前に友達が出来てお父ちゃん泣きそうなんだから」

「だからぁ……」


そこでこれ以上会話を続けても何も進展がない事を悟り、溜息をひとつ。佑貴の邪魔をしてはいけない事、自分にも「使命」がある事を念頭に置いて顔色を引き締める。


「……じゃ俺、行ってくるから」

「行ってらっしゃい。どこに行くか知らねぇけど、応援してるぜ、なんか」

「サンキュ。俺も応援してる、手術」

「任せろよ」


不安と希望を抱きながら手術という大舞台に向けて尽力している佑貴と、魔法医療の欠陥という穴を暴き出そうと真理を覗き込む翠。目的も、やる事も違う。けれど、「闘いに身を投じている」事は同じだ。だから互いを激励して、二人はそれぞれの道に一歩を踏み出す。


────そこで、ふと思った。

もし彼が直面する「未来」に、自分達の調べている事が関係していたら。

その未来に、魔法医療が適応していなかったら。

急に不安になってきて、佑貴に釘を刺した。立ち止まった翠を見上げて、彼は不思議そうに首を傾げる。


「……ま、もしなんかあったらスマホにでも電話入れろよな。すぐ飛んでくから」

「バーカ。手なんて借りるかよ。心配性だな」

「保険だよ、保険」


何の保険だよ、と笑い飛ばす声が聞こえる。

全部、ブラックジョークだったらいいのにな。魔法医療は従来のデータ通り安全で、どこにも不審点がなかったなら、良かったのに。そう思案しながら翠は、やや低い語調で呟いた。


ほうりは、のろいと紙一重だからな」



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