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Chapter04:驟雨の気配

講堂を出ると、アスファルトがじんわりと湿気を吸い込んでいた。空には厚い雲が垂れ込め、陽光を完全に遮っている。昼だというのに、世界は灰色一色に染まっていた。

昼休みを告げるチャイムが、敷地内に低く鳴り響く。手元のスマートフォンに示された天気予報は予想通り夕方からの雨を知らせていて、それを見遣った翠はスリープモードにしてズボンのポケットに押し込んだ。

銀杏並木の葉が、微かな風に擦れ合ってざわめいている。吹き付ける風には雨の匂いが混じっていた。湿った土と、葉と、そしてどこか懐かしい線香の香り。


「……懐かしい匂いだな」


意識せずとも肺の全てに、キャンパスの空気が染み渡っていく。消毒液と古い紙の匂い、どこかで焚かれた線香の残り香。それらが混ざり合った天璇大学独特の雰囲気が、胸を静かにざわつかせていた。怜も同じ卒業生だ、何か感じるものもあるだろう……そう思ってちらりと隣を見たが、彼は相変わらず無表情でただ前を向いて歩いている。


「ね、怜。お前もこの匂い、覚えてるでしょ?大学の時のさ」

「『天璇の香は田舎の実家の香』の話か」

「お前からそっちの噂話が出るとは思わなかったけどな。どっちかって言うと教授達が言ってる方を言うかと」


思わず笑みが零れる。

目の前の、頭の硬さがウルツァイト窒化ホウ素の男の口からまさか学生の間の噂話が出るとは夢にも思わなかった。というのも、翠にとっては教授が言っていた別の言葉の方がずっと印象に残っていたからだ。


────『天璇の香は死を想起させ、生を教授する香』。


此処は、命と死が交差する場所だった。

天璇大学の魔法医療実習では線香の煙を使って魔法の出力を可視化する。しかしその線香はただのそれではなく、生命の概念を書き込まれた「生きた線香」であった。

ただの香ではない、命を宿した異形の存在。


医療魔法が作用するのは、常に生に対してだけで、無機物に作用する事はない。医療魔法とは、「命あるものを救う」概念から生まれ落ちた魔法であるからだ。それを知らぬふりをして学生達は、線香を焚き、魔法を言祝ことほぐ。


こんな事で懐かしい気持ちになっちゃうんだな、俺。

翠は鼻腔に纏わりつく生温い匂いを振り払うように顔を持ち上げ、小さく息を吐いた。


「……線香なんて匂いが出るやつじゃなくて水蒸気とかでやりゃいいのに。スチームみたいな」

「大方予算の問題だ。天璇は中四国地方の医療の中心地であるが、あくまで地方の医療組織。そもそも中四国にそこまでの金はない」

「大人の世界って、夢がねぇよな」

「現実とはそういうものだ」


淡々と返す怜に、肩をすくめておく。そして逆隣を歩いている伊織と顔を見合わせて小さく笑った。

講堂から研究棟へ続く道は、広島の街並みを背景にしながら静かな緑に囲まれている。学生達のざわめきが遠く、翠達の足音だけが熱を帯びたアスファルトに響いた。

そこで伊織が「それでヒスイ先生、具体的に誰に聞くとかあるの?」と訊いてくる。


「んー、俺も卒業したのなんて六年前だし、色々システムとか変わってる気もするけど……異界学の教授に聞いてみようと思ってさ」

「異界学かぁ。懐かしいな、サナが住んでた天界の事とか天使の事とか、他人事じゃないから興味深かった記憶があるよ」

「俺も、メディが居る分ちょっとは興味あったな」

「……あ、ところでサナとメディちゃん、連れて来なくて大丈夫だったかな」

「来てもつまんねぇだろ。メディに関しては事件解明って柄でもないし」

「確かに、そうかも。というか僕も来て大丈夫だった?大学は部外者だし……」


それに対して、怜が「綾瀬は天璇でも働いているから大丈夫だろう」と静かに答える。その後に「万一があれば、俺が話をつける」と続いた。

翠は悪戯な笑みを浮かべて俺も庇えよ、と割って入る。伊織に対する対応と自分に対する対応が違う気がして仕方ない。えこひいきするなよ、という意味合いを込めて言葉を贈る。


「何故だ。お前はそもそも此処が母校、庇う必要はない」

「冷たいヤツ」


そのやり取りに伊織が柔らかく微笑んだ。そんな彼を見て、話題をそっと異界学に戻しておく。


「ま、異界学、つっても人間は直接異界に行けねぇワケだし、あくまで理論解明と想像の範囲らしいけどな。哲学とか心理学みたいな」

「僕の大学の異界学教授は天使や悪魔にカウンセリングを実施して異界学を深めてたみたい。でも結局、ヒスイ先生が言うように、異界は人間の想像でしか表せない未知の領域みたいだけど」

「……それは俺達が異界学者でないからその程度の知識しか教授されていないにすぎん。異界学に精通した人間はもっと詳しく異界について知っている」


そう怜が口を挟むので、「また得意のデータマジックか?」と返しておく。彼はじとりと湿度を含んだ目線で翠を見上げると、「悪いか」と不機嫌そうに答えた。……変なところで機嫌を損ねちゃまずいか。翠はそう思ってそれ以上に彼を揶揄うのをやめた。


「異界も奥が深いって事ね。でもそんなん言われてもチンプンカンプン。俺、魔法がどうやって出力されているかすら疎いし」

「流石に嘘だろう、櫻田」

「流石に嘘。一般論は知ってる、でも一般論止まりな」


いくつか角を曲がる。萌黄の葉が、両手を広げたように頭上に垂れている。それらは風に揺れているも、足元に影は無く────否、低い雲が広島市全体に影を落として大地を黒く染めていた。燕が一羽、低空飛行をしながら三人の横を通り過ぎる。

病院に隣接した天璇大学のキャンパスは、講堂、研究棟、図書館が点在し、まるで小さな街のようだった。翠達は研究棟を目指し、学生達が行き交う中を歩いていく。陽射しは無いが、高い湿度と気温が服の中に溜め込まれ、汗ばむような空気が肌に纏わりついた。


────そこでふと、聞き覚えのある声が背後から届く。


「────あら、櫻田くんに一色くん?」


立ち止まる。

振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。

肩で切り揃え、レトロパーマを掛けたコーラルオレンジの髪。緩く曲線を描く女性美の身体にはブラウンのスーツが纏われ、その上にアッシュのカーディガンを羽織っている。年齢は五十代後半というところだろう。


乾紀美いぬいのりみ

天璇大学附属病院で手術室看護師をしていた女性であった。

その姿を認めた瞬間、翠の胸に小さな警鐘が鳴る。


「あ、乾さん。……久しぶりっす」


少し気まずく思いながら、会釈をして挨拶を返す。それに対して怜が冷たく指摘した。


「今は教授だ、櫻田。乾教授と呼べ」

「う……」


小さく呻いて視線を逸らす。

彼女の顔は、翠にとって忘れ難いものだった。記憶違いであってほしい。そうであれば、自分の抱える心のざわめきも全てが気のせいだと笑い飛ばせるのだから。

────十五年前、緋の手術に立ち会った人間。

もう十年以上も前の記憶だ。間違っているかもしれない、と通常は訝しむのに……どうしてか、翠の脳髄にはその時の様子が鮮明に記憶されている。

それらの記憶が、無意識に心を時化させる。


乾は穏やかに笑っていた。

しかし、その瞳の奥に、探るような光が微かに宿っているような気がして仕方ない。


「私には、臨床よりも卵達を育てる方が性に合っていたみたいね。今は看護学を教えているの」

「そうなんすか……」


彼女の表情は柔らかかったが、どこか表層的だった。

それに気付いているから、翠の声も微弱に硬くなる。


「でも、櫻田くんって天璇で働いていたかしら?戻ってきたの?」

「いや、まさか。今は日扉町で診療所やってます。親父と同じ職場に勤めて、うっかり同じオペに居合わせたら……とか思うと寒気しますよ」

「うふふ、本当は櫻田教授の事を尊敬しているでしょうに。私は見てみたかったけれどね、親子でオペしてるとこ」

「やめてくださいよ、気持ち悪い」

「ごめんなさい。……それじゃ、どうして天璇に?」

「あー……魔法医療の再教育プログラムに参加しろ、みたいな……」


そこで怜が「未だに非魔法を貫いているようで、それではいけないと」と淡々と告げる。おい。言うなよ。コイツには気遣いってものがねぇのか。翠はそう悶々と思案しながら、思わずスニーカーで彼の長い脚を蹴った。


「再教育プログラムで、わざわざ市内まで……。大変ね、魔法医療の第一選択なんて、櫻田くんには窮屈でしょう」

「あ、まぁ、なんつーか……はい、めちゃ窮屈です」


何とかいい大人を取り繕おうと思考を巡らせるも、結局思った通りの事を口走る自分の幼さが何となく可愛かった。乾はくすりと笑う。だが、その笑顔が一瞬翳った気がしたので瞬きして見返す。そこに翳りはなく、乾教授の朗らかな笑顔があるだけだ。

……先日から、やたら人の感情の動きに敏感になっている。全ての人間が陰謀を企てているような気がして、何かを隠蔽しているような気がして、疑心暗鬼が顔を覗かせる。その結果、天候による翳りさえも意味深なものに思えるのだから……疲れてるのかな、俺。そう思って一度目線を横に流す。


「……で、どうしたの?一色くんと……ええと、ごめんなさい」

「綾瀬伊織です。最近非常勤で漢方内科に入りました。レイ先生のもとで外科の修業をしています」

「まぁ、綾瀬くん。……も一緒なんて、珍しいわね」


彼女の視線が怜と伊織に向けられる。

……「記録」に残っていなくとも、「記憶」に残っている可能性がある。怜は無表情を貼り付けたまま、静かに切り出した。チェスのキングをじわりじわりと追い詰めるように、まずは一手。


「乾教授。藤堂一慎という患者のカルテについて伺いたい。彼に限らず、魔法医療の適応にならなかった手術について、何か知っている事はありませんか」


瞳が一瞬、泳いだ。翠はしっかりとそれを捉える。彼女の細い指は、無意識にスカートの裾を握り締めていた。


「……芳子────仙田教授には聞いた?彼女は〈創魔そうま〉魔法、つまり白魔法のプロフェッショナル。そんな彼女が作った魔法AIが知らないと言うなら、そんなデータは無いんじゃないかしら」

「聞きました。しかし知らない、と」


怜の声は鋭い。どこか硬く、苦い響きを従える乾の声と表情を観察するように彼は続ける。その厳しい眼光に射抜かれて、乾の視線が小さく揺れていた。


「乾教授は数年前まで看護師として現場に居ましたよね?カルテに無くとも、患者の状態や手術の様子で何か覚えている事はありませんか」

「……。」


問われている彼女の顔が一瞬強張り、直ぐに笑顔を取り繕う。しかしその笑顔は少し不自然で、仮面を被っているような不気味さがあった。


「知らないわ。私の参加したオペでは、患者は全て魔法医療で治っているもの」


────嘘だ。

胸の奥が、焼け付くように熱を帯びた。


「嘘ですよね」


喉から迸ったのは、糾弾の音色を連れた声だった。

乾は目を見開き、口を引き結ぶ。あの雪の日、血が噴き出した手術室、泣き叫ぶバイタルサインの中。そこに、彼女は確かに居たのだから。

怜が、冷たく突き付ける。


「櫻田緋の手術に、貴女は立ち会った。……そしてその時、魔法医療は確かに失敗した。その事実が貴女の発言を否定しています。となれば、それ以降にも────同じような事例が、あったのではないですか」

「ッ」


乾の顔色がみるみるうちに青ざめた。スカートを握る指に力が籠り、布地がくしゃりと音を立てる。


「……知らない。私は、ただ、看護師だっただけよ」


絞り出すような声だった。そして彼女は、逃げるように踵を返す。

足音が遠ざかるまで、誰も、何も口には出来ない。

残された空気に、確かな「何か」が沈殿していた。


「口固すぎだろ、病院関係者は……」と翠が吐き捨てるように呟いた。胸の奥で、不安と非難、そして同情が渦巻いている。乾が隠しているのは、緋の手術で彼女達を捉えた「失敗」という枷なのか、もっと大きな何かか。なんで、隠す必要があるんだよ。何を、躊躇っているんだよ。殺したのはあんた達じゃなくて、俺なのに。俺を責めたら、いいだけなのに────。

黒雲を連れて立ち込め始めた思考を遮るように、伊織が凛とした表情で語る。


「……やっぱり、魔法省の人間に当たるしかないね」


その声は穏やかだったが、どこか決意を感じさせた。それに対して怜も前を見据えて息を吐く。


「だな、綾瀬の言う通りだ」

「魔法省の人間なら、〈封秘〉魔法の真相を知ってる可能性がある、よね。レイ先生」

「ああ。そして天璇大学の教授にも、魔法省出身の人間は一定数居る」

「それが、今から向かう先……?」


渦巻く負の感情を呑み込んで、翠は努めて明るく「そ。」と返事を返す。

……過去は、過去だ。緋を殺したのは翠のとがだが、彼の罪は天璇の医師達によって肩代わりされている。それに後ろめたい何かを感じ得ないが、それには彼等が罪を背負っている理由────魔法医療の失敗の謎に迫る必要がある。

自分がしている事は、間違っていない。幾ら病院の人間が口を閉ざしていても、それを明らかにする事は、自身に与えられた罪を享受し、そして赦していくために必要な事なのだろうから。

未来は、変えられる。願わくば、魔法医療が安全だと自信を持って広められる世界になるように。危険因子を見つけ、取り除くのは自分に課せられた使命なのだ。


「俺達の目標人物は、魔法省の元技術開発者。主に異界生命体の研究してた、異界学のエキスパート」

「────本郷智也ほんごうともや、だ」


怜の一言に、翠のエメラルドの瞳が輝いた。


「太陽の名を翳す天璇の実態はダークサイド。絶対に暴いてやる。天才の腕が鳴っちゃうね」


大げさに拳を握り、怜と伊織を振り返った。怜は冷ややかな目線を返すだけだったが、伊織はにこやかに笑って頷いた。


────研究棟へ、足を踏み入れる。

その廊下は、消毒液の匂いが強く鼻を刺激する。キャンパスの喧騒から切り離された静かな空間に、翠のスニーカーの音が軽く響く。目指すは、本郷教授の研究室へ。

翠の胸は、期待と不安でざらついていた。彼が本当に封秘魔法の真髄を知っているなら、緋の死の謎、魔法医療の失敗の理由、そして魔法抗体適応に無い患者の真実にまで一気に至れるかもしれない。だが同時に、知りたくない真実が待っている予感も芽生えつつあった。

外界は、生温い風と僅かに淀んだ空気が満ちている。

そこには確かに、驟雨しゅううの気配が漂っていた。



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