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Chapter05:ひとつの真実

恒星は、南中を少し過ぎていた。

天璇大学の研究棟は、消毒薬の匂いと機械の低い唸り声に満たされていた。空はやはり重く垂れ込んだ黒雲に覆われ、昼を過ぎてもなお、夕闇が早く訪れたかのような薄暗さを展開している。銀杏並木を渡る風は湿り気を含み、遠くで雷の気配さえ感じさせた。

────嵐の前の静けさのようだと、ふと思う。

そしてその「嵐」とは、これから自分達が迎える悲劇、或いは喜劇の最終章なのだと直感していた。


翠は本郷研究室の前に立ち、ドアノブに手を掛ける。金色のそれは微妙に結露しており、そして彼を嘲るような冷たさを従えていた。世界に嫌われているような被害妄想に一瞬陥って頭を振る。親譲りのイヤリングがからからと揺れて、それを刺している耳たぶに鋭い痛みが走った。

心の中に、津波のような感情が押し寄せてくる。

直感だった。ここから先はまるでマルチエンディングゲームの最後の一本道。分岐点の無い、直線。後戻りの出来ないものに触れる事になる────そんな予感だった。


「はぁ……本郷教授ぅ。入りますよー」


わざと気怠い声でそう言いながら、返事も待たずにドアを開け放つ。外界と同じくらい薄暗い室内が、彼等をようこそと迎え入れた。


無造作に積まれた書類の山。床には段ボールが置かれ、論文や、恐らくそれを収めたポートフォリオが収められている。異界の言語が刻まれた石板に、よく分からない骨格標本。壁には黒魔法の呪文が記された羊皮紙ようひしと、異界生物の解剖図が所狭しと貼られている。魔女の住処、と言われても文句が言えないような、いかにも怪しい研究室であった。

その奥で、デスクトップのモニターだけが青白い光を放っている。


『────天璇大学附属病院が開発した魔法抗体が、いよいよ世界進出するというのはひとりの広島県民として誇りに思えますね!世界の医療を確信的に変える事が期待され────』


ニュースの音声が機械的に流れる。思わず立ち止まり、眉を僅かにひそめた。

海外進出?ふざけるのも天璇とかいう厨二チックな名前だけにしとけよ。欠陥があるかもしれないのに、冗談じゃない。そう思考を巡らせて、後ろも二人はどう思っているのかと振り返る。伊織は不安げに眉を下げている。怜はいつも通りの無表情であったが、その瞳の奥には微かな怒りが滲んでいた。

────誰もが、気付いている。魔法抗体を巡る闇の存在に。


「……気になる事が増えたが、櫻田、時間がない。話を進めるぞ」


低く短い鶴の一声。ハイハイ……とジェスチャーを取りながら伊織の方に視線を遣る。彼は少し緊張した面持ちで、それでも穏やかな微笑みを乗せて頷いてみせた。眼睛をぐるりと動かして、デスクの奥の男を見遣る。陰陰たる室内で、彼の横顔に埋め込まれた黄金の瞳がぎらりと閃いていた。


部屋の主────本郷智也は椅子にふんぞり返っていた。だらしなく緩んだネクタイ、しわだらけの白衣。二日程度剃られていない無精ひげと、紫を帯びた黒髪は雑に撫でつけられている。彼は片手にコーヒーカップを弄びながら、へらりと口元を緩ませて此方を見つめていた。


「なんだよ櫻田。ようやく俺の講義を聞く気になったか?しかもプライベートレッスンで。授業料は口座によろしく」


軽口を叩きながらもその眼は鋭い。心の底まで見透すような光を満たし、夕陽のような双眸に一同の姿を映し込んだ。翠も負けじと軽口を返そうと唇を開く。


「んな訳ないでしょーが。講義は睡眠導入用で十分です」

「俺の声、そんな眠いか?新しい魔法、作っちまおうかな。睡魔、みたいな感じで」

「いいんじゃないですか?俺不眠気味なんで、重宝しますよ」

「冗談に決まっとろうが。……で、わざわざこんなところまで来たって事は、何か用だろ?」


本郷教授はくるりと椅子を回し、正面を向く。そして珈琲を一口啜ると答えを促した。それを聞いた翠は、ズボンのポケットに手を回すとスマートフォンを取り出す。暗証番号の入力、写真アプリの選択、写真の表示……ここまで七秒。仄暗い室内を明るく照らすブルーライト、その液晶を彼に突き出して見せる。


「この人、藤堂一慎さん。天璇病院で心筋梗塞の手術を受けたらしいんですけど、カルテがないんですよね。教授、何か知りません?」

「聞く相手、俺で合ってる?」

「合ってますよ。病院関係者にはもう聞きました」

「そっか。……んー……」


教授は写真を一瞥し、顎に手を添える。んーー……という長い全音符が紡がれたが、その先にあるのは「知らねぇな」という言葉だった。無理もない、彼は大学の人間であり、病院の医師ではないのだから。

けれど、翠達が此処に来たのは彼の「記憶」を探るためではない。証拠となる客観的事実────即ち「記録」を暴き出すためであった。


「……ま、分からなきゃ調べりゃいいんだけどな。俺、病院のID持ってるし。ちょっと見てみるか」


気軽な口調でそう言いながら、本郷はキーボードを叩いた。魔法AIが搭載された検索システムが起動し、画面に文字と数字が流れ出す。一度止まった指先が、人差し指のモノローグを経由して再び動き出す。翠が単調なタイピング音に痺れを切らしてディスプレイを覗き込むのと、彼が舌打ちをしながら伸びをするのは同時だった。


「……無いな。データベースに引っかからねぇ。カルテも、手術記録も、全部消されてる……変な話だな」

「変な話、で片付く話じゃないんですよね、コレ」

「だろうな。病院のカルテ消してるってなら犯罪だろ。もし普通に書いてないなら医療ミスだしな。どっちにしてもヤバいし、それに対して誰も何も言わないってのはもっとヤバい」


怜が前に出て、此処に来た真の目的を告げる。その瞳には絶対零度の炎がくすぶっており、真実に繋がる期待を抱いているように見えた。


「消えているのではなく、〈封秘〉魔法で消されている可能性が高いと推察しましたが……教授、どう思いますか」

「ほう、一色。やるじゃねぇか。……ちょっと細工してみるか」


本郷教授は唇をぺろりと舐めると、遊びに興じる子供のような勢いでキーボードに指を滑らせた。画面に英数字の羅列が流れ、プログラムコードが複雑に編まれていく。……病院のページ、改変していいのかよ。うっすらとそう思うが、その考えは心の奥深くに封じ込めておく。今は、解明する事が第一優先なのだから。

────不意に、部屋を照らす証明がちかちかと点滅する。次いでモニターに微弱なノイズが走り、それ以上にキーボードを叩けば叩いた傍から文字列が消えていく。

背中を、何か冷たいものが撫でた。伊織が小さく息を呑み、怜の目が細められる。


「……ビンゴだ。封秘魔法が掛けられてる。って事は魔法省の人間の仕業だな。けど記憶改竄にまでは及んでない……っつう事は、俺達みたいな下っ端の仕業だ。魔法省自体は関わってないだろうよ。末端の委員会みてぇなのは別だけど、本部は関わってない筈」

「……魔法省出身の人間、もっと言えば魔法医療監理委員会の医療関係者、それも恐らく天璇の職員が隠した可能性が高いって推理で合ってます?」


思わず身を乗り出して、そう問う。教授は頷き、笑みを消して顎髭を撫でた。視線が数秒間横に流れて、次に翠と目線を合わせた時、そこには彼の発言に対する肯定の返事が滲み出ていた。


「多分な。つっても封秘魔法は上級魔法。この病院でそんな上級魔法が使える人間は限られてるぜ。俺みたいな魔法省の人間か、院長の三ツ橋、研究医の仙田をはじめ何人か……ああ、そんでもって神楽岡陽誠。あいつ、魔法省出身だからな」

「神楽岡さん?あの神楽岡さんが、魔法省?」


脳裏に、神楽岡の温和な笑顔と、手術室での冷静な手つきが浮かぶ。彼が魔法省の人間だったなど、想像すらしてこなかった。

そしてそれと同時に、一度浮上した神楽岡への疑心が再浮上する。彼はただ、魔法医療の失敗現場全てに居合わせただけでなく、〈封秘〉が扱える立場の人間だった────?

それが真実であると嘲弄するように、本郷教授が「おうよ」と告げる。彼は椅子の背に身を預け、珈琲を再び口に含んで唇を静かに濡らすと、低い声で紡いだ。


「神楽岡、医者になる前は異界技術開発局でバリバリ働いてたぜ。俺の元同僚、な。魔法医療監理委員会だっけ。あそこで魔法医療に関する色々やっててな。けど、親父さんが倒れたとかなんとかで魔法省を辞めて、臨床医に転身した。未だに魔法省とのパイプはあるみてぇだけどな。……今じゃ緊急科の名医だろ?特に心臓手術。あいつ、心臓外科のトップ連中に嫌われてんだよな。『患者奪うな』だの、『教授の椅子狙ってんじゃねぇの』だのってさ。しかもあいつ、非魔法を否定しねぇからより風当たりは冷たいみたいだぜ」


伊織が小さく手を挙げ、彼の言葉におずおずと慎重に返す。


「神楽岡先生が魔法省出身なら、〈封秘〉でカルテを隠した可能性……あるよね?例えば、魔法抗体の欠陥を知ってて、でも病院を守るために隠した……とか」


脳に浮かんでいた夢幻に「言葉」という輪郭が与えられ、それは形を成して眼前に現れた。胸が煩く跳ねる。伊織の言葉は、翠がぼんやりと考えていた疑惑を的確に突いていた。


「……考えたくねぇけど、有り得る。って事は、神楽岡さんが黒幕?……いや、でも……病院全体が隠蔽してる、って方が腑に落ちるんだよな。開発した魔法抗体の欠陥を隠すために────それで神楽岡さんを捨て駒の実行役にした」

「……有り得る推理だ」

「何だよ、珍しい肯定だな」

「だが、神楽岡が。俺も最初は病院の陰謀なのだと思っていたが、よく考えてみれば病院全体が黒幕というにはリスクが高い。そもそも魔法抗体の開発を管理していたのは魔法省、魔法医療監理委員会だ。病院はあくまでその指示を受けて研究していたにすぎん。仮に病院全体、魔監委が黒幕だとして、隠し通して医療事故が露呈したら、誰が責任を取る?」

「……そのトカゲの尻尾が、神楽岡さん……?」

「そう考えるのが妥当だ。そして神楽岡さんはそれに気付いている。だからその────同じ診療科だから知っている事だが、彼は非魔法を棄ててはいない。魔法抗体の欠陥を知り、非魔法の価値を証明するために敢えて手術に身を投じ、『分かりきった失敗』の後に非魔法に切り替えた。病院の抱える医療アクシデントを利用したんだ。自身が失脚しても、非魔法の勝利を医療従事者に印象付けるために。そして病院の存続のためにカルテを隠した……そう考える方が自然だ」


怜の言葉に唇をへの字に結ぶ。彼の分析はいつもこうだ。冷静で、手術のメスのように鋭い。しかしその冷静さが、どこか翠の内心を苛立たせた。


「怜、お前ほんと冷たいよな。神楽岡さんがそんな事する理由あるのかよ。患者を救おうとする彼が、そんな事、」


その声には、抑えきれない感情が滲んでいる。彼は間違いなく、あの時緋を救ったのだ。彼は間違いなく、「医者」なのだ。そんな神楽岡の存在が足元からぼろぼろと崩れ落ちていく錯覚さえ覚える。まだ、彼を信じていたいのに。

瞳が、ゆらゆらと揺れる。

怜はそんな翠を一瞥して静かに言い放った。


「感情で推理するな、櫻田。大人とは常に嘘を吐く生き物だ。信じたい、信じたくない……そんな主観的な物差しで測っていては真実へ辿り着けない。信じるべきは客観的な証拠だけだ」

「……証拠、ねぇ……」


唇を噛む。じわりと鉄錆の味が口腔を占める。……怜の言う通りだ。感情で突っ走っても、真相へは辿り着けない。けれど、胸の奥でくゆる不信への恐怖は、そう簡単に抑えられなかった。

伊織がそっと翠の肩に手を置く。


「ヒスイ先生、レイ先生の言う事も分かるけど……神楽岡先生がもし欠陥を知ってたなら、僕みたいな患者を救おうとしたのかもしれないよ。手術に居合わせたのは本当の偶然で、秘匿したのは本当に病院のためかもしれない。僕も、魔法が使えない体だから……神楽岡先生が非魔法で命を救う姿、ちょっと、憧れるな」


伊織の声は穏やかだったが、そこには彼自身の痛みが込められている。魔法感受体異常と魔法因子欠乏症。学校での壮絶な日々。彼の笑顔の裏にある傷を知っているから、思わず目を逸らした。


「……お前はお前で、ほんと優しいよな。俺だったらそんな風に考えられねぇよ」

「そんな事ないよ。ヒスイ先生だって、患者を救うために此処に居るでしょ?だから、僕を救ってくれたんでしょ?……僕も、先生みたいに誰かを救いたいって思ってるだけ。それはきっと、神楽岡先生もそうなんじゃないかな」


その言葉に、胸の奥にぬくもりと束縛が与えられる。あたたかくて、優しくて、そして痛い。伊織の純粋さが、少し眩しかった。

本郷教授がその一部始終を眺め、訝しむ視線を投げかけてくる。


「なんだよさっきから神楽岡の名前出して。あいつが何かやらかしたって?」


それに対して怜が静かに「その可能性は極めて高いです。全ての条件に、彼は合致する」と応える。教授の眉にさらに皺が寄って、彼は不審そうに視線を厳しくする。


「てか何の話なんだよ。揃いも揃ってそんな神妙な顔つきしやがって」

「教授、この前俺が早退した講義、覚えてます?」そう、問いかけてみる。

「忘れねぇよ。オペが何か失敗して櫻田が飛んで行ったんだろ」

「そうです。その『失敗した理由』を俺達は探ってるんです」

「……興味深いな。詳しく」


そこからは、怜が代わった。薄く形のいい唇から、つらつらとこれまで得た情報の全てが淀みなく綴られる。本郷は長い脚を組むと、再びカップに口を付けて漆黒を喉に流し込んだ。


「あの時、魔法医療を行った瞬間……患者から血が噴き出しました。魔法医療の適応に無い患者……それが果たして、単なる偶然なのか。それを調べていたら同じような事例が五十二例見つかりました。しかしそれらは、今しがた明かした手法で厳重に秘匿されています。そして患者の共通点は恐らく、魔法抗体適応に無かった患者……というところまで調べました。けれどどうして魔法抗体の適応に無い事とバイタル低下が繋がるのかは謎のままです」


怜の視線が、一層鋭厳しくなる。彼は空気に触れて乾いた唇をゆっくり震わせた。


「教授、魔法抗体の欠陥など聞いていませんか?」

「ハァ?聞いてねぇけど。つか欠陥があったらもう一回開発段階に戻さねぇとダメだろ。海外進出がどうのってレベルになってるって事は、安全って事の裏付けだろうが。俺も魔法抗体開発に関わってるけど、そういう話は聞いてない、と思う」


と思う、って何だよ。翠は教授の曖昧な言葉に眉を顰める。


「教授、はっきりしないと駄目でしょーが。魔法抗体に欠陥があるって、ほんとに知らないんですかぁ?」

「だから、知らねぇって。仙田が今のトップで、俺はあくまで細胞構造の解析とかやってただけだ。魔法抗体の開発プロジェクトはお前らが言ってるように魔法省、異界技術開発局の魔法医療監理委員会が立ち上げて管理してたワケだし。俺なんて下っ端も下っ端よ。欠陥の話は、少なくとも俺の耳には入ってねぇ。運営管理してたのは委員会で、臨床やってたのは天璇のだ」


怜が一歩踏み出し、彼を鋭く見据えた。その声音は緊張感を孕んでおり、腫瘍の在処にメスを潜り込ませるような、疑りの色を含んでいる。


「本郷教授、貴方は魔法省の人間です。〈封秘〉魔法の痕跡を見抜けるなら、誰がそれを掛けたのかも分かるのではないですか?神楽岡さん以外の可能性は?────具体的に言いましょう。仙田教授、或いは貴方自身の可能性は?」

「ふん、一色いっしき。なかなかやるな。俺を疑うか?……まぁ、気持ちは分かるけどな。けど、俺はただの生物学者だ。んでもって、黒魔法の専門家だ。封秘魔法は白魔法。俺は解除するのが専門で、掛けて隠すような面倒な真似はしねぇよ。仙田はどうかわかんねぇけどな」


そこからは沈黙が続いた。窓の外で黒い風がごう、と唸っている。

途切れる事のない休符は一同をその場に縫い留めるピンになる。それに嫌気が刺した本郷は大袈裟に溜息を吐いた。


「はぁ~~~、ったく、うだうだ考えるのは苦手なんだよ」


彼は突然立ち上がり、首を数度回す。そして肩も回してみせると、白衣の襟を正して意気込んだ。背丈が高く、筋肉質な躯体。そこから僅かに、煙草の匂いが流れていた。


「取り敢えず、俺の仕事は〈封秘〉を破る事だ。黒魔法が火を噴くぜ、この本郷智也を前にして白魔法による隠蔽とはなかなか肝が据わってる犯人だ。舐めんなよ────暴いてやる」


本郷が舌なめずりしながら液晶を睨むと、空気が微かに震えたように感じた。背後に漂う空気が、ぐっと重みを増す。

彼の唇から、低く、甘いテノールの呪文が紡がれる。ゆったりとしたそれが鼓膜に響いた刹那、翠を取り巻く世界に、再び微弱な振動と湾曲が起こったような幻覚を覚えた。


「〈洞察の鏡よ、欺瞞を欺き、真実を映し出す審問者よ。

汝、全ての欺きを看破し、封じられた扉を開く秘鑰なり〉」


指先がモニターのカラーノイズを指し示す。まるでそこに、見えない扉が存在するように。────思わず、息を呑んだ。

空気中に、微かに漂うオゾンの匂い。

魔法陣など無い。杖など無い。ただ綴られる言の葉という呪文だけで、空間そのものが変質していく。それはまるで、真実を覆い隠す「紙」の概念を、羅列に戻して解いていくように。


「〈下す我が命のままに、隠された理を顕現せよ〉」


その言霊が結ばれる。双眸に埋め込まれた黄金が、煌々と見開かれていた。


「────透見とうけん!」


鋭く、短く告げられる。

その言葉を受けて、魔法周波を受けて、モニターの液晶がぐにゃりと歪む。それは漆黒を映し出し、暗闇の中から浮かび上がるように新たなデータが滲み出した。

……トウドウイッシン。現れたファイルの一覧に、その文字列を確認する。翠は一歩、踏み出していた。


ずっと探していた藤堂のカルテ。そして、その他にも連なる無数の名前。

カルテだけじゃない。魔法抗体接種歴、小児期ワクチン履歴、そして健康診断の結果まで。

全て、厳重に封じられ、二度と誰の目にも触れぬ筈だった記録であった。


「これ、全部……」


声が、掠れていた。

伊織が隣で唾を飲み込み、怜の眉間に深いしわが寄る。


モニターに並ぶファイル────患者達。

その数は十や二十ではない。恐らく、五十二例ある筈だ。何らかの共通点があるであろう、「魔法医療の失敗例」達である事は最早疑いようもない。伊織のカルテも、緋のカルテもそこでは確認出来る。

焦りながらマウスとキーボードを奪った翠が、検索の絞り込み機能の欄に魔法抗体数値を表す英数列を打ち込んだ。コンマ数秒の思考時間の末に導き出された結果は、ひとつの真実を雄弁に語っている。

共通しているのは、血液中の魔法抗体数値が1500を超えている事!


「……怜の推理は、暴論じゃなかったって事か。MA値の高い患者が、揃いも揃って魔法医療に失敗してる。それを秘匿してるって事は……やっぱり、知られるのが犯人にとって不都合だったって事だよな。そもそも、得をするから事件を起こしてるワケだし」

「だろうな。そして秘匿するのに考えられる理由は、『魔法医療の失敗を認めたくないから』に十中八九間違いないだろう。だがその単純な理由だけとは限らん」

「難しいな。分かりやすく言えよ、怜」

「非魔法医療の信者が居た、という事だ。だから魔法医療が失敗した事例を『隠した』上で、非魔法で助けて『印象付けた』。……これは演出だ、櫻田。記録を削除し、記憶にのみ『非魔法の勝利』を残す」

「……つまり?」

「つまり、『非魔法医療の力を知らしめる〝舞台〟を作り上げて手術に臨んだ』という裏の思惑があり、秘匿する真の理由は先程言ったように『魔法医療の失敗を認めたら病院が崩壊する』から、だ。そのような思想の人間、それも魔法省出身の人間がチームを組んでいて、天璇にもその仲間が居るという可能性。魔法医療不適応の患者は全国規模で出ているのだから、最早天璇だけの問題ではない。魔法医療の失敗というものは医療従事者にとって深い傷となる。その傷さえ残っていれば、その人間は今後魔法医療に賛同などしないだろう。な」

「……成る程。記憶に残ってたら、記録に残ってる必要はないって事か。魔法医療の失敗は魔法省公式からの通達を装って隠蔽し、知られる事はない。知られる事がないまま、彼等はランダムに現れるMA値の高い患者の手術を狙って、新たに傷を負う被害者を増やす。そうやって、魔法医療を毛嫌いする『味方』を増やしていくと。俺みたいに」

「そうだ。仙田教授や乾教授は口が固かったが、それは彼女達が『被害者』だからなのではないかと思っている。傷を負った故に、もうその事、魔法医療について触れたくないと思わされている犠牲者。二人が臨床を退いた事がそれを物語っている」


再びの沈黙は、一同の間に重く垂れ込めた。

窓の外の黒雲はそのコントラストを強め、雨の気配を強く宿している。

伊織が小さく、ぽつりと呟いた。


「……じゃあ、犯人は誰なのかな」

「言っただろう、綾瀬。非魔法に固執している人間。全ての手術に関わっている人間。そして、〈封秘〉魔法を扱える立場である人間。……彼一人とは、言わないがな」


翠は静かに、そして悲しげに笑う。

まだ、信じている気持ちが残っている。彼の優しい言葉が、残っている。

けれど、それらが全て。

全て、「偽り」だったなら────自身の中に掲げた姿は、偶像崇拝に過ぎなかったのだろうか。


「やっぱ、そうなっちゃうよな……」


怜が「真実とは、いつも歪な姿をしているものだ」と溜息を吐いた。そこには、一種の諦めの色が感じられた。……信じる事を辞めた、放棄の色であった。

俺も、諦めなきゃいけないのか。

真実を、見なきゃいけないのか。

そう巡る想いを呑み込んで、覚悟を決めた────その瞬間。

誰もが真実への最後の階段に足を掛けた瞬間、怜のスマートフォンがけたたましい通知音を鳴らす。何故こんな時に、という苛立ちを隠しもしない彼の視線が手元の箱に向けられ、端末を右耳に押し当て……そして硬直した。


「────また、魔法医療適応にない患者が現れただと!?」


その声は低く、緊迫感に満ちていた。

翠の心臓がどくんと跳ねる。魔法医療が効かない患者……それはつまり、緋や伊織、藤堂と同じ状況だ。

五十三例目の、症例。

要点だけを伝え、即座に切られた電話からは断続音が聞こえている。怜が縋るような色を含んだ目つきで翠を映した。その瞳に、微かな信頼が宿っているのを受け取って、彼は瞳を細める。


「……櫻田」


思わず、口角が上がってしまう。悪魔と契約した異端児の医者、なんじゃなくて俺が悪魔なのかもな、なんて余分な思考を働かせて。

翠は不敵に笑うと、怜の肩を叩いて明るく告げる。


「ふは、言われなくても分かってるに決まってるでしょ?ヒーローの出番、誰にも奪わせねぇよ。行ってくる!」


伊織が慌てて叫ぶ。そこにもやはり、彼が紡ぐ未来への希望が見据えられていた。

翠なら、絶対に救えるのだと。

この場の誰もが、結論付けられたその未来を知っている。


「ヒスイ先生、気を付けて!」

「サンキュ、伊織。怜、データ頼んだからな。天才の後始末、よろしく!」


怜は小さく頷き、伊織と共にモニターに向き合った。研究室のドアを蹴るように開けて走り出す。背後で本郷の「若ぇな」という笑い声が聞こえたが、翠の頭は既に手術室の事でいっぱいだった。


スニーカーの音を響かせ、アスファルトを踏みしめ駆け出す。

大学の門付近で、此方に向かって駆けてくるメディと再会する。彼女は間延びした声で「なんかぁ、ユウキせんせがおにーさんを呼んで来いってぇ」と口にする。それだけで翠には、誰のどの手術であるかが特定できた。


空には、重く垂れこめた雲。

風は湿り、雷鳴は近付きつつある。


────そんなものは関係ない。彼の中には、確かな確信があった。


「絶対、救う。俺の手で、魔法なんかに頼らずに」


二つの足音が、アスファルトを叩いて進む。

決意を胸に、彼等は曇天のキャンパスを駆け抜けていった。


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