目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

Chapter06:ルベライト・プルーフ

天璇大学附属病院の手術室に足を踏み入れた瞬間、翠は空気を支配する喧騒に思わず眉をひそめた。バイタルモニターが血圧低下を叫び、電子音が空間を鋭く切り裂いている。その中心で、執刀医────真田佑貴が胸部に手を突っ込み、必死に出血点を探っていた。


「よっ、佑貴。宝探しなら俺も混ぜてよ」


滅菌ガウンに身を包み、そう朗らかに声を掛ける。その無遠慮な軽口に、佑貴は悲鳴じみた声を上げた。


「翠……っ!こんな状況で冗談言うなよ、このままじゃ……!」

「血圧さらに低下ッ!」……返答を待つ間もなく、麻酔科医の声が響く。


佑貴は翠に一瞥をくれると、直ぐに術野へと視線を戻した。ライトの下、柘榴ざくろのように開かれた心臓が、夕焼け色に濡れながら脈打っている。一定の間隔で鳴り響く拍動は、確かに患者自身の力で生命を存続させていた。

しかし異様な事に────血は、一滴たりとも胸部に流れていなかった。

真っ二つに裂かれた大動脈。にもかかわらず、心臓は静かに、まるで何事もないかのようにビートを刻み込んでいる。


〝どこかが破裂している〟……そう、即座に直感した。だがそれは目に見えない場所にある、そこまで悟る。

佑貴は術野に噛り付きながら、上ずった声を上げた。


「ッ、どこだよ……どこから出血してる……ッ!?」

「心臓、血ぃ出てないだろ。探すだけ無駄なんじゃない?」

「馬鹿言え!心臓は〈斎隔さいかく〉魔法で血液を別空間に隔離してるだけだ!どっかに穴が空いたら、その別空間で血液が流れ出る。だからバイタルは落ちるけど、出血は見えねぇ!」


焦りに染まった叫び。

佑貴の手は、震えを帯びながら心臓部をまさぐり続けている。

翠はふぅんと小さく息を吐き、周囲に視線を巡らせる────器械出しの看護師の一人が泣き叫び、もう一人が焦っているのが見て取れた。あ、この子達この前も居たっけな。確か……水無瀬みなせと、宵宮よいみや

宵宮が声を張り上げる。


「メディ!あんたの〈呑噬どんぜい〉なら、出血の概念ごと喰べられるんじゃないのッ!」


だがメディは困り顔で首を振る。

彼女達が知り合いだという事は初めて知った事実だった。


「無茶言わないでよぉ……。みんな、出血したって知ってるんだもん。そんな周知の事実喰べたら、ボクの寿命が削れる以前に手術が続けられなくなっちゃうよ?治療してる記憶ごと消えちゃうからぁ」

「ッ」


焦りと混乱が渦巻く手術室。そこを占めるアラーム音が、鼓膜を突き破って脳に響く。翠は冷静に思考を巡らせた。長い睫毛が伏せられ、双眸に情報の海が宿る。


「〈斎隔〉時点では出血なし、吻合中に出血……。佑貴、使った魔法とオペ内容、覚えてる?」

「はぁッ!?こんな時にっ……!弓部大動脈解離、スタンフォードB型、人工血管置換術!で、開胸、〈剔抉てっけつ〉による切開、〈繕結ぜんけつ〉で人工血管と吻合、そこで出血だ……!意味わかんねぇっ!」


第一助手をしていた男────朝比奈あさひなが涙目で呟く。


「切開魔法の時点では出血なかったから、今回は大丈夫だと思ったのに……!」


それに対し、肩をすくめておく。

いや、手術の度にこんな場面に出くわしていたら泣きたくもなるよな。ほんと、不運なヤツ……そんな同情を秘めながら彼に言葉を綴った。


「朝比奈くん、お前緊急科じゃなかったの?心臓外科にレンタル?」

「か、患者を心臓外科に明け渡す時に『なんかあった時に動ける奴を置いときたいから手術に参加しろ』って神楽岡さんがぁ……っ。な、なんかあった時って、またアクシデントじゃないですかぁ……!」

「可哀想に。ま、俺が何とかしてやるって。任せときなさいよ」


そう凛として告げた此方を見遣って、佑貴が縋るように叫んだ。揺らぐ視線の中には、焦りと困惑の色が隠しようもなく浮かんでいる。


「どうするって言うんだよッ!どこから出血してるかなんて、お前に分かるのかよ!!」


宵宮の声が、またしても割り込む。


「血圧低下!心拍数上昇してますッ!」

「ドレーンは!?漏れは!?」

「異常なしです!」

「くそ……ッ!」


それに対して息をひとつ吐くと、翠はちっちっち、と指を振った。

彼にしか知らない、真実の星がその眼睛に瞬いている。


「全部魔法に頼るから見えなくなるんだよ。医学的に考えろ。心臓に血液が無いなら、血管の内圧も上がらない。なら、血液の圧が逃げた先が破裂する────そう考えるべきでしょーが」


「……まとめてよぉ」とメディが泣き言を上げる。ちったあ考えろよな。仮にも看護師なんだからさ、医学や看護学の概要くらい。そう思いながらも翠は軽く笑い、人差し指で一点を指し示した。


「つまり────だよ」


そう言い放つや、右手にハサミを取る。

滅菌ドレープを一刀のもとに裂き、捲り上げれば隠れていた腹部が露わになる。

そこには異様な膨張と、押し込めば反発する硬さが存在していた。翠の口角がにやりと持ち上げられる。彼はまるで、事件の犯人を特定するような声色で真相を暴き出した。


「……腹部血管、破裂だ」


手術室の空気が、一瞬凍り付く。

それに見合わぬ穏やかな動きで、翠は片手をひらりと上げた。


「ハイ、んじゃ腹部は俺に任せて。胸部も、やろうと思えば出来るけど」


そこでちらりと佑貴を見遣れば、彼は絶望の色を滲ませて叫ぶ。


「んな、ふざけんなよ!そもそもお前部外者だろうが!手術なんて、」

「ふざけるかよ、こんな場面で。……佑貴、魔法医療は大事だ。けどさ、魔法だけで救えるなら……医者なんて要らないでしょ?俺、言ったよな。魔法だけじゃ救えない命があるかもしれないって。患者助けるためには、常識なんて枷以外の何者でもないんだよ」


その声色は軽い。しかし、その奥には凛とした覚悟が滲んでいる。


「此処に、『お医者さん』は────俺しか居ねぇのかな?」


佑貴は一瞬だけ、動きを止めた。翠はにっこりと微笑みながらそれを一瞥すると、すかさず指示を飛ばす。


「メディ、吸引手伝って」

「あいあいさー!」

「宵宮ちゃん、メスとザッテル。それから朝比奈くん、腹部オペの第一助手、よろしく」

「は、はいッ!!」


再び、手術室が慌ただしく動き始めた。


滅菌ガウンの袖を握り締めたまま、佑貴はその場に取り残される。

目の前で旧友が、血の海に沈む腹部に白銀の剣を当てている。バイタルモニターは依然として危険域を泣き叫び、自身がいかに無能かを突き付けていた。


……俺は、何をしている?


胸に渦巻く後悔と恐怖。

魔法医療に甘えてきた。安全圏に立ち続けてきた。

非魔法────切れば出血する、命を直接手に掛ける技術。それを避けてきた。


だが今、目の前に突き付けられている。

魔法も、万能では無いのだと。


────お医者さんは、俺しか居ねぇのかな?


翠の声が脳裏に反響した。

天才で、無鉄砲で、どうしようもない同期。

なのに、どうしてこうも胸に炎を灯してくるのだろう。


冒険心。

忘れていた、あの日の煌めき。


佑貴は静かに────そして確かに、決断した。


「やる」


絞り出すように、けれど力強く言い切った。そして堂々と術者の立ち位置へ歩み出て心臓部を見下ろす。「非魔法で、置換術やる」と宣言した彼を見遣り、翠がふっと口元を吊り上げた。


「……同期に負けてられるかよ。別に頭良くねぇし、腕も未熟だけど……俺だって医者だ」

「流石、佑貴。その姿勢、惚れ惚れしちゃうね」


短い称賛を受け取り、彼は静かに頷いた。恐怖はある。不安はある。けれど、もう怯まない。


「翠、弓部置換は任せろ。お前は腹部の置換やれ。多分、腹部大動脈だろ、当たり?」

「正解」


翠が微笑み、即座に指示を飛ばした。


「朝比奈くん、やっぱ佑貴の第一助手についてやって。宵宮ちゃんも、俺は大丈夫だから。水無瀬ちゃんは俺の器械出しよろしく」

「は、はは、はいっ!」

「わ、わかりました……!」


朝比奈と水無瀬が慌てて動き出す。

「ロングペアン、セッシ、今のうちに縫合糸も用意して」と佑貴が告げると、新人の外回り看護師が駆けていく。宵宮が右手にペアンを渡す。それを受け取った佑貴は迷いなく人工血管の端を掴み、末梢側大動脈へ突っ込んだ。


手際は、速い。

無駄もない。

翠はそのバレエのような優雅な手捌きを見て瞳を細める。


エリマキトカゲのように広がった人工血管のカフを、フェルトで挟み込む。そして6時、3時、12時、9時の順に糸を掛けた。無影灯の下で煌めくフィラメントが、雲から零れる陽光のように人工血管から血管壁へ伸びている。

これが、彼の闘い方だ。

誰かの背中を追うだけじゃない、佑貴自身の、矜持。

なんだ、出来るじゃん。翠は横目でそれを見届けると、再び自分の術野に視野を戻した。


迷う事なく、正中に刃を入れる。

一筋の切開線が走り、メスが筋膜を割る。その刹那、どろりと溢れ出す黒き咆哮。まるで張り詰めた被膜の中から血の湖が決壊したかのように、線を臙脂えんじが染めていく。


「メディ、吸引!」


翠の声に、メディが吸引器を差し込む。


「むりぃ、追い付かないよぉ!」


悲鳴めいた声。だが勿論、こんな事では怯まない。

医療において、術者が怯むのは大問題なんだよね。救えるのは、自分達しかいないんだから……そう覚悟すると腹壁鉤ふくへきこうを掛け、力任せに切開部を広げる。


「腸管持って。強行突破で行く────止血が第一優先だ」


看護師の身分であるというのに助手と化したメディに腸管を押し上げさせながら、自らは吸引管とメスを持ち替え、後腹膜こうふくまくへと強引に切り込んだ。あとで「助手」の概念も喰べて曖昧にしてもらお。俺、犯罪者になりたくねぇし。そう余計な事を考えているというのに彼の手元は正確だ。腸管を押しのけた先、血液に沈む腹部大動脈の走行を指先で探る。ぬめりと微温、鉄錆の臭い。視界は赤黒く濁っている。……けれど、指先の感触は裏切らない!


「────ここだ」


翠は破裂点を指で押さえ込むと、水無瀬に遮断鉗子を求めた。即座に鉗子が手渡される。それを握り、破裂点の近位……腎動脈じんどうみゃく直下を狙って沈め込む。指先に触れた大動脈が背骨に押し付けられている。その感触を確かめながら滑り込ませた鉗子を開き、力を込めて挟み込んだ。


……遮断完了。

腹腔に満ちていた血液が、ぴたりとその勢いを失う。翠は小さく息を吐いた。マスクの中に、濃密な血の匂いが満ちている。


「と、止まった……」


水無瀬が心底安心したように震えた声を漏らす。それに対し、「まだまだこれからでしょーが」と応じるように笑って視野を戻す。


「置換に入るよ。吸引続けて。電メス」


後腹膜に電気メスを押し当てる。細い煙が棚引いて、組織が刃を避けるように道を開ける。まるで将軍か何かが現れた場面のようだとふと思う。もしくは映画でよくある、主人公の進む道を民衆が開くシーン。そんな少年心を燃え上がらせるドラマティックな一場面が、今目の前の体内という舞台で起きている。血腫を押しのけ、一本の線で切開を進めれば、やっと破裂した腹部大動脈本体が姿を現す。まるで、物語の終点にふんぞり返るラスボスだ。翠は唇を舐め、それを睨みつけた。


裂けた大動脈壁はぼろぼろだった。既に正常な弾力などは失われ、触れただけで崩れ落ちそうなほど脆い。


「……うっわ、ひでぇ。使い物にならねぇな」


低く呟き、破裂した部位を含めた大動脈を大きく切除。中枢側、末梢側、それぞれをトリミングして整える。刃が当てられ、真っ直ぐに切り揃えられた血管は、互いが離れ離れになった事に対し不安げに翠を見上げていた。それを眺め、メッツェンをトレーに置きながらメディに声を掛ける。


「20ミリのグラフト。脚、8ミリ以上な」

「はぁい」


素早く人工血管が渡される。それは人造の太陽の下で眩く、白い光を放っていた。

呼吸をひとつ整えた翠はそれを受け取り、吻合に取り掛かる。


フェルトを外側に当てがえば、白い布地に赤が染み渡っていく。それで補強しながら中枢側大動脈に人工血管を、細やかな糸運びで縫い合わせる。

糸を掛けて繋がり合った血管同士が身を寄せ、キスを交わすように重なり合う。銀糸のフィラメントが、まるで光を紡ぐかのように血管を結び付けていく。血塗れの中ただ一点、人工血管と大動脈が結ばれていくその箇所だけが、異様な静謐せいひつを帯びていた。

────中枢吻合、完了。

翠は鉗子を緩め、中枢血流を再開させた。


……漏れなし。

すかさず、末梢側の吻合へ移る。

その手際は、まるで舞うようだった。

手術室の空気が、徐々に翠の色に染まっていく────。


その時。この聖域と外界を繋ぐ金属の扉が、大袈裟な駆動音を従えて開かれた。そこに一同の視線が集中する。彼を見遣らなかったのは、手先に集中する翠と佑貴だけである。振り返るスタッフたちの視線を受けてそこに立っていたのは、緊急科の男……神楽岡陽誠だった。


「か……神楽岡さん……!」


朝比奈が声を裏返しながらそう叫ぶ。その中には驚嘆と同時に、もう大丈夫だという安堵が入り交じっていた。

神楽岡はバイタルモニターを眺め、滅菌ガウンを羽織りながら歩み寄る。隣に割り込んだ彼に、佑貴は顔を持ち上げた。


「緊急科の神楽岡さんっすね。すみません、今吻合してるんで……」

「破裂したんか。どこが」

「俺は大丈夫っす。透麻とうまもいますし……末梢吻合、中枢吻合、終わってます。〈斎隔〉でオンビートのまま血液だけ隔離してるんで、頚部分枝けいぶぶんしもこのままいきます。……心臓外科医、舐めんといてください」


自信に満ちた佑貴の声に、神楽岡は目を細めると短く答える。彼なら大丈夫だと、そう信頼を込めて。


「……分かった。任せる」

「あざす」


宵宮がすかさず把針器はしんきを渡し、佑貴は次の吻合へ集中する。

息を吐いた神楽岡の目は、血に濡れた腹部へと向かう。未だ吸引器がごぼごぼと緋色を啜るその中で、ひたすらに人工血管を縫い続ける翠。


────神楽岡が声を掛けようと唇を開いた瞬間、翠が挑発するように乾いた笑みを零した。


「やっぱりですね。来ると思いましたよ、神楽岡さん」


神楽岡の足が止まる。

彼は僅かに眉をひそめ、「どういう事や」と告げる。翠は腸骨動脈ちょうこつどうみゃくを傷つけぬよう慎重に、だが無駄なく人工血管に糸を通していた。杖を振り上げる……或いはオーケストラを指揮するような彼の腕の中で、白銀の糸が泳いでいる。煌めきながら縫い目へと転じていくそれは、まるでミシンを用いたように真っ直ぐに、黄金比を描いてシームを形作っていく。


「神楽岡さんって、魔法医療が失敗した現場に必ず居ますよね」


静かな声。だが、その奥底に鋭い刃を潜めて。

神楽岡が軽く笑う。


「何やそれが。俺が魔法の……んにゃ、異界の神に嫌われてる、言うんか」

「……そうじゃない。あんたが、神を嘲笑ってるんじゃないかって言ってるんです」

「俺が?ハッ、バカ言うな。そんな事して何になるんや。翠お前、まさか俺が魔法医療をどうにかして失敗させようと思っとる、っつうんやないやろうな」

「そのまさかですよ」


翠は顔を上げた。

緑を秘めた双眸が、神楽岡の紫がかった黒星を射抜いている。


「魔法医療の失敗。秘匿されたデータ。その全部に、あんたは関わってる。あんたがやったと結論付けたら納得がいく。……あんたは全ての現場に居た。〈封秘〉魔法が扱える立場に居た。────魔法医療を、わざと失敗させたんじゃないのか」


手は止めない。

けれど、その言葉で容赦なく深くを抉る。


「非魔法医療を広めたくて、非魔法医療の力を見せつけたくて。魔法医療に絶望して、魔法に見切りをつけたくて。それで、患者達に────」


言葉を詰まらせた。

血管を縫う針先は迷わないのに、心だけが、痛みで震えていた。

……沈黙は、YESの表れなのか。やっぱり、そうなのか。

魔法医療を恐怖する人間を作り出す。魔法医療に反対する人間を作り出す。それが、この男の真意なのだと言うならば……。

翠は一度唇を噛んで、吐き捨てるように、呪うように声を絞り出した。

その声は決して大きくは無かったが、メスのように鋭利な響きを従えている。


「俺や親父は、あんたのてのひらで踊ってた。今のこの手術だって……」


────そこで、言葉が遮られる。

翠の罵倒を切り裂いたのは、神楽岡の軽快な笑みだった。


「あっははは!変なもんでも食ったんか、翠?」

「笑うな!」


そう、叫ぶ。

本気にしていないみたいに笑いやがって。ふざけんな。……彼の態度が癪に障って睨みつけた。彼のアメジストの双眸に翠への「肯定」は含まれておらず、微弱な混乱が胸中を蝕む。

その瞳の奥に、真剣さが滲んでいた。


「最初に言っとく」


笑みが消える。彼は静かに、真っ直ぐに翠を見つめた。

思わず喉が鳴り、生唾をごくりと呑み込んだ。バイタルの電子音が三を数える沈黙の末、神楽岡はゆっくりと唇を震わせる。


「俺は、神に誓って────患者のための医療だけは、絶対に裏切らん」


翠は、息を呑んだ。

信じたい自分と、疑いたい証拠が、胸の中で交錯する。

信じたい。信じたい、けれど────。


「……なら、証明してくれよ!」


叫びは、痛みを孕んでいた。

彼がそんな事をする筈がないと信じたい。けれど、彼が事件を起こす理由と証拠が明確に存在している。それが、嘘だと言うのか。間違いだと言うのか。なら、証明してくれよ。違うって、教えてくれよ。そう睨む翠に、神楽岡は静かに頷いた。そこに、後ろ向きな音色は含まれていなかった。


「勿論や」


優しく、柔らかく。

だがその芯は、鋼のように強かった。


神楽岡は一度だけ短く息を吐いた。

まるで、自らの奥底に沈めたものを、ゆっくりと引き上げるように。


「まず、俺が魔法省出身の人間やいうのは、本当や」


静かな告白。その響きには、開き直りも卑屈もない。ただ彼は、事実だけを置いていく。


「……親父がな、大動脈解離だいどうみゃくかいりで倒れたんよ」


神楽岡はゆっくりと続けた。


「魔法医療やったら、助けられんかった。魔法感受体異常。異界との繋がりが強かったけん、魔法使ったら臓器破裂のリスクがあった。魔法の加護が届かん人間もおるんやって、そん時初めて知った。当時は魔法を医療に導入しよう、万民に適応するんは当たり前、って思われとったけん、驚愕した」


その声が、微かに震える。

一度唾が呑み込まれ、再びゆっくりと紡がれる。


「……やから俺は、魔法省を辞めた。魔法技術のあれこれを医療に導入しようっつう取り組みをやってた委員会から退いた。親父みたいな人間を、俺自身の手で助けたかった────それで、俺は臨床医になった。三十年前や。魔法省には、思えばたった数年しか勤めとらんかったな」


翠の手元で、銀のフィラメントが淡く光を放った。血塗れの現場で、命を繋ぎながら彼は聞いていた。神楽岡が、ほんの少しだけ笑う。


「親父の名前も出さんと証明にならんか。……鹿野新。鮮魚店を継いどった人間や。俺が『神楽岡』を名乗ったのは、婿養子になったらからやけん」


翠は小さく目を見開く。心のどこかで、聞き覚えのある名だった。

唇が、考えるより先に答えを紡ぎ出す。


「……魔法感受体異常で非魔法医療……」

「そうや。やから俺は、誰よりも非魔法の力を信じとる。魔法が届かん時、最後に手を伸ばせるのは────人の力や」


その言葉に、胸が静かに震える。魔法じゃ、救えなかった。だから非魔法で命を紡ぐ……翠の心に、彼の言葉が響いていく。

神楽岡は、言葉を続ける。


「魔法医療の失敗現場に、俺が居合わせる事が多い理由も聞きたいか?……それも、単純や」

「単純……?」


ここまで聞いてもう薄々と分かっているのに、阿呆な自分はそう問い返す。それに対し、目の前の彼は確かに頷く。


「魔法医療だけやったら救えん命が、そこにあっただけやけん」


喉が、きゅっと鳴った。信じたい気持ちが、また一歩、前へ踏み出そうとする。

全ての記憶が蘇る。発見したカルテに載っていた文字列が、意味と背景を成して脳裏に過ぎる。彼はただ、魔法医療の限界を示された患者を救おうとして、全ての事故に立ち会う覚悟を決めたというのか。それに対して神楽岡は笑う。もう、結論など明らかだった。


「お前の母ちゃんの時も、妹のときも、藤堂の時も、綾瀬の時も────俺は、魔法医療の限界を見せつけられただけ。そんで、最後の最後、非魔法で繋いだだけや」


翠の手が、僅かに震えた。

張り詰めた糸を結びながら、喉元から掠れた声が漏れる。


「……関わってない、んですか」

「関わっとらんとは言わん」


神楽岡の答えは、曖昧だった。

だが、その顔には澱みが無かった。


「魔法抗体の数値が高い患者が魔法医療に適応せん────それには、気付いとった。……魔法省の委員会がな、魔法抗体を作る時に力貸せって言ってきたんよ。やけん、俺は知っとる。公開されとらんMA値の『異常値』も、それと魔法医療失敗例との関係性も。勿論上に抗議した。最初開発リーダーやった櫻田にも報告した。櫻田はどうにかすると言った……やけど、どうにもならんかった。委員会の中で『そんな事したら魔法省の信頼が落ちる』『もう全国民が接種しとるけんどうもならん』ってブーイングが起きて、櫻田はリーダーの座から引き摺り下ろされた。……俺も意見できる立場やないやろ、部外者やろって鼻で笑われて、それ以降の返事は無い」


言葉に、自責が混じる。彼自身も気付いていたのだ。これが、単なる医療事故に収まらぬ、悲劇の一部分であるという事を。救おうとした、けれど手が届かなかった────そんな彼の心境を察して、それでも平静を取り繕って糸を手繰る。


「俺はただ、正しい事がしたかっただけやったんやけどな。……大人の社会は、汚くて、くすんどる。俺に出来る事は、MA値が高い患者が出て、オペせんといけんなった時……その手術に組み入れてもらって、即座に非魔法に切り替えられるようにする事だけやったんや。やから、天璇で出た患者は助けられとる。それでも、全国の患者までは、手が届かん」


翠は針を止め、顔を上げた。

そこに居たのは、魔法を妄信するでも、拒絶するでもない……ただ、患者を救いたいと願う一人の医師だった。喉が痛くなるほど息を呑む。彼は優しく、諭すように微笑みかけた。もう、疑う余地など無かった。

彼もまた、自分と同じように────非魔法の可能性を信じ、天道のもとで正義を重んじる「医師」なのだ、と。


「翠、頑張れ。お前が俺の代わりに調べてくれとる。立ち向かって、えてくれとる。……ありがとな」


その一言で、翠の目頭に熱が込み上げた。心臓を、強く掴まれる感覚を覚える。

ぐっと右手に力を込めた。そこに握られた遮断鉗子が持ち上げられ、血管の拍動を再び感じさせる。メディが嬉しそうに、「拍動、再開したよぉ!」と声を上げた。

翠は、唇を噛み締めて絞り出すように答えた。紡がれた音色は、細くビブラートを拵えていた。


「……っ。狡い、ですよ。悪人みたいに見せつけときながら、どう探っても、もう疑えないじゃないですか……」


声は確かに、震えていた。

けれどその震えは、もう怒りでは無かった。


「それが、大人や」


胸部を吻合していた佑貴の把針器が、からんとトレーに投げられる。彼は悪戯に笑いながら此方を見遣った。


「……ま、自惚れんなって事だよな、翠。お互い」


彼に自身の間違った推理の一部始終を聞かれていた羞恥を悟り、思わず顔を背けた。その先には、成功に安堵し、涙ぐんでいる水無瀬の姿がある。それを見て、医者がナイーブになるなと叱咤し、無理やり笑みを拵えた。不出来な笑顔だった。けれど、疑心の色は溶けて消えていた。


こんなにも────。

誰もが、誰かを救おうとしている。

それぞれの信念で、それぞれの正義で。

小さく、呟いた。


「終わったのかよ、佑貴」

「勿論。言ったろ、終えは模範的な卒業生なんだよ。非魔法も魔法もどっちも出来んの。……〈斎隔〉も解除してある。血圧上132、下89。ちょっと高いけど、正常範囲だ。舐めんなよな、医師免許持ってんだぞ」

「はは、流石」


翠は、笑った。

滲んだ視界の中で、確かに信じた。

────この場所には、希望がある。

悪意じゃない。絶望じゃない。それぞれが、それぞれの天道を生きている。

そしてまた、新しい命が此処で繋がれようとしている。


それを感じて、再び込み上げてくる熱いものを堪えて……翠は強く、前を向いた。

手術は既に、エピローグを謡い始めていた。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?