手術室の
息苦しいほどの緊張が、ふっと緩んだ。マスクを外す手を止めて、微かに肩を落とす。
隣では、メディが手袋とガウンをゴミ箱に押し込み、次いでとてとてと手洗い場に向かっていた。蝙蝠の羽を浮かべ、尾を揺らす彼女の背を見遣りながら、翠は腕を組んで視線を横に流す。
────違和感が、頬を撫でた。
そこにはマスクとサージカルキャップを取り払い、金の艶やかな長髪を振り乱した宵宮の姿があった。どこか、虚ろな光を宿した瞳。声、掛けちゃまずいかな。翠は躊躇いがちに、しかし言葉を選ばずに唇を開く。
「……宵宮ちゃんってさ、メディと知り合いなの?」
彼女の動きが一瞬だけ止まった。双眸が睫毛に隠されて、次に開いたそれはどこか闇を映し込んでいた。その反応に、胸にざらりとした予感が走る。彼女は小さく、「それが何」と吐き出した。
「何、って。や、メディの事知ってるみたいだったから……」
言い訳じみた口調になる。別に、探ろうとしているつもりじゃないのに……そう意識すればするほどに続ける言葉が脳から消えていくので、翠はそこで口を閉ざした。
「ヴァスティはぁ、ボクと同じなんだよおにーさん」
手洗いを終えたメディが、指先の冷たさを頬に当てて実感しながら深紅の瞳を細めた。よく見れば、目の前の彼女もメディと同じ紅玉の瞳を持ち合わせている。血のような、深い
宵宮はひとつ溜息を吐くと、目を伏せたまま応える。
「……悪魔なの」
「悪魔、って。翼も角もねぇじゃん」
「おにーさんわかってないねぇ。上級悪魔は尻尾も羽も隠せるんだよぉ?神話のリリスとかアグラエスだって人間態で描かれてるでしょぉ?」
「じゃ、ヴァスティは上級悪魔って事かよ。神話の悪魔と同レベルの」
「そぉ。ちなみにボクも、上級♡」
「嘘つけ。お前みたいな問題児が上級悪魔でたまるかよ」
「本当なのにぃ」
むう、と頬を膨らませるメディを睨んでいると、「本当よ」と宵宮の澄んだ声が重なる。その一言は異様に静かだったが、紛れもない真実の色を帯びていた。……目の前のコイツが、上級悪魔?そう思ってよく考えてみて、確かにメディの翼も異質だと気付く。彼女の羽は背から生えているのではなく、宙に小さく浮いているのだから。
「メディは元・
「お仕事嫌いじゃなかったよぉ。
にこにこと無邪気に笑う彼女に、背筋を撫でられる思いを抱く。その笑みの裏に、何を抱えてきたのか。何を感じてきたのか。十五年という月日を共に重ねたというのに、自身はあまりにもこの悪魔に対して無知だ。
……それを押し殺して、いつも通りの軽口を叩いた。
「現界に来たなら、こっちのルールに従わなきゃ駄目なんですぅ。……意外だな、お前にそんな仕事が出来るなんて」
「ボク、仕事がデキるオトナだから♡ でもヴァスティも凄かったよぉ」
「……昔の話よ」
小さく、呟かれた。艶めくブロンドの髪、華奢な身体、整えられた爪。どれもが「人間らしさ」を謳っているのに、実際は悪魔だという。けれど、宵宮からは悪魔としての誇りなど、微塵も感じられなかった。むしろ、それへの憤りと嫌悪さえ滲んでいる。
……葛藤が、そこにはあるのだろう。痛みが、彼女を
「私は逃げてきたの。魔界の実力主義に、うんざりしたから」
絞り出すように告げるその声は、震えていた。睫毛の影が落ち、ルビーの瞳が微かに揺れる。長く細い吐息の末に、彼女は「……全部、過去の話よ」と添えて顔を持ち上げた。決意が、滲んでいた。
「今此処に居る私は宵宮ヴァスティ。天璇大学附属病院の手術室看護師。……それが、全てよ」
「……そ、っか」
それ以上を問う事ははばかられた。彼女の決意を静かに讃え、小さく頷く。扉を抜けていったその背に、ほんの僅かな敬意を抱いて。彼女が巻き起こした旋風は、仄かなラベンダーの匂いを残していた。
……人間に、近付こうとする者、共に生きようとする者。
悪魔であっても天使であっても────そして、人間であっても。
それは変わらない想いなのだなと少し、彼女を身近に感じた。
そして、そんな宵宮と入れ違いになるように、まだ若い蕾のような女性が顔を出した。……水無瀬だ。彼女はラピスラズリ色のドクタースクラブを身に纏ったまま、翠達に深々と頭を下げる。
「あ、あ、あの……っ。先生、母をありがとうございました……!」
「母?患者って、ひょっとして……水無瀬ちゃんの親御さん?」
「えっと、
それに対し、軽く微笑んで「いいって」と返しておく。
「成る程ね、お母様か。……助けられてよかったよ、俺の才能に感謝しな」
そう悪戯めいて笑うと、水無瀬は「は、はい……っ!」と相変わらず緊張した面持ちで、しかし眩しそうな眼差しを向けた。その視線がくすぐったくて、けれど悪い心地はしなくて……少しだけ、表情を緩める。
「ところで、訊きたいんだけどさ」
「はい?」
「お母様はなんかこう……持病とか、無かった?」
水無瀬は緩く首を傾げると、数秒考えた後に小さく首を振った。
「いえ……母はずっと健康だったと思います。年齢的な動脈硬化はありましたけど、それ以外は……。あっ、でも……少し、思想が強くて……」
「思想?」
「インフルエンザとか、コロナウイルスのワクチンは接種していないんです。政府の陰謀だとか何だとかで。ワクチンといえば、私が無理やり言って聞かせた魔法抗体ワクチンくらいで────」
「……魔法抗体、だよなぁ……」
顎に右手を押し当てて、左手で
「先生……一体、母の体に、何が起きていたんですか……?」
「それを今探してるとこなんだよね。……でもひとつ言えるのは、魔法抗体が関わってるって事」
全国民が接種している筈のそれ。怪しむ理由など、本来は無い筈だった。
けれど────全ての患者に共通しているものは、ただひとつ。それが、「魔法抗体」。
数値が高い。ただそれだけの、単純な共通点。
しかし、それ故に確信できる。絶対に何かがある。
翠はぐっと奥歯を噛み締めた。
その時────水無瀬が、涙ぐみながら呟いた。
「切開の〈剔抉〉みたいな、切り裂く危ない魔法で出血するなら、分かるのに……
翠の指が、ぴたりと止まる。
「……白魔法、?」
思考の奥で、何かが繋がる音がした。ばらばらだったパズルのピースが、導かれるように組み合わさっていく。
まさか。慌ててズボンの背面に押し込んだスマートフォンを取り出し、最近交換したばかりの番号を呼び出す。一色怜。共に謎へ挑む、頼れる好敵手。
電話は一回のコールで繋がった。翠はゴミ箱のペダルを乱暴に踏み、中に落ちている手袋を拾い上げながら声を荒げた。
『なんだ、手術は終わったのか』
「怜、それどころじゃない。今直ぐカルテを調べてくれ!────魔法医療適応に無かった患者に行われた医療、血飛沫が上がった時に使ったのは……何魔法だ!?」
『……何か、見えたのか』
「多分。殆ど、確信してる。最後の確認だ、至急頼む」
『分かった。直ぐに研究室まで来い。調べておく』
「サンキュ!」
数十秒で音声通話が切れる。その直後、スマートフォンの画面に通知が表示された。ディスプレイに浮かんだニュース速報のゴシック体が、無感情に翠を急かしている。
〈魔法抗体、いよいよ世界へ。本日夕刻のフライトで世界を震撼させよ〉
背筋が、凍り付いた。
新たな犠牲者が、世界中に撒き散らされる。
それはパンデミックより恐ろしい、救命魔導による殺人だ。
……真実を、突き付けなければならない。
もう
翠は壁に置かれたビニール袋をひったくると、捨てたばかりの手袋を突っ込んだ。ポケットの中で、袋に包まれた手袋が揺れる。
検査部へ、急げ。
翠は駆け出した。
背後から、水無瀬が呼び止める声と、メディが駆けだす足音がついて来る。「おにーさ、まって……」とどこか悲痛な色を灯した音色が聞こえた気がした。けれど、それに意識を向ける余裕は無い。スニーカーが地面を蹴る感触を確かめながら、翠は唾を飲み込んで駆ける。
思考をフル回転させると、怠かった講義の記憶がフラッシュバックした。
『────魔法抗体。これは異界生命体、悪魔の細胞から作り出した黒魔法医療物質だ。投与後に体内で増殖し、異常細胞を〝悪〟と認識して捕食、その後に自壊する。増殖と自壊のバランス、それが魔法抗体の生命維持システムで────』
創造。変異。崩壊。
魔法に刻み込まれた、存在定義であり第一原則。
でも、もしも。
もしも、その「崩壊」が起こらなかったら────?
震える指先を無理矢理握り締めた。心の臓が、ばくばくと激しく吼えている。
……悪魔の細胞が、体内に残り続ける。
そんな、馬鹿な。
胸騒ぎが消えないまま、翠は廊下を駆け抜けた。
窓の外では、ぽつぽつと雨が降り始めていた。