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Chapter07:繋がった答え

手術室のあかりが落ち、長い闘いの終わりを告げるように、無影灯も静かに暗転した。最後の縫合を終えた患者は無事集中治療室へと搬送され、手術チームはそれぞれ疲労と達成感に滲む顔で控室に流れていく。

息苦しいほどの緊張が、ふっと緩んだ。マスクを外す手を止めて、微かに肩を落とす。

隣では、メディが手袋とガウンをゴミ箱に押し込み、次いでとてとてと手洗い場に向かっていた。蝙蝠の羽を浮かべ、尾を揺らす彼女の背を見遣りながら、翠は腕を組んで視線を横に流す。

────違和感が、頬を撫でた。

そこにはマスクとサージカルキャップを取り払い、金の艶やかな長髪を振り乱した宵宮の姿があった。どこか、虚ろな光を宿した瞳。声、掛けちゃまずいかな。翠は躊躇いがちに、しかし言葉を選ばずに唇を開く。


「……宵宮ちゃんってさ、メディと知り合いなの?」


彼女の動きが一瞬だけ止まった。双眸が睫毛に隠されて、次に開いたそれはどこか闇を映し込んでいた。その反応に、胸にざらりとした予感が走る。彼女は小さく、「それが何」と吐き出した。


「何、って。や、メディの事知ってるみたいだったから……」


言い訳じみた口調になる。別に、探ろうとしているつもりじゃないのに……そう意識すればするほどに続ける言葉が脳から消えていくので、翠はそこで口を閉ざした。


「ヴァスティはぁ、ボクと同じなんだよおにーさん」


手洗いを終えたメディが、指先の冷たさを頬に当てて実感しながら深紅の瞳を細めた。よく見れば、目の前の彼女もメディと同じ紅玉の瞳を持ち合わせている。血のような、深いあか色。

宵宮はひとつ溜息を吐くと、目を伏せたまま応える。


「……悪魔なの」

「悪魔、って。翼も角もねぇじゃん」

「おにーさんわかってないねぇ。上級悪魔は尻尾も羽も隠せるんだよぉ?神話のリリスとかアグラエスだって人間態で描かれてるでしょぉ?」

「じゃ、ヴァスティは上級悪魔って事かよ。神話の悪魔と同レベルの」

「そぉ。ちなみにボクも、上級♡」

「嘘つけ。お前みたいな問題児が上級悪魔でたまるかよ」

「本当なのにぃ」


むう、と頬を膨らませるメディを睨んでいると、「本当よ」と宵宮の澄んだ声が重なる。その一言は異様に静かだったが、紛れもない真実の色を帯びていた。……目の前のコイツが、上級悪魔?そう思ってよく考えてみて、確かにメディの翼も異質だと気付く。彼女の羽は背から生えているのではなく、宙に小さく浮いているのだから。


「メディは元・冥魔帝政めいまていせい直属の執行官。ま、いわば魔界の政府と警察を兼ねる組織ね。その執行官って事は────つまり、反乱因子を消す事が仕事だった訳だけど」

「お仕事嫌いじゃなかったよぉ。禍神かしんサマも邪神サマも、おにーさんみたいにがみがみ怒ってこないしぃ」


にこにこと無邪気に笑う彼女に、背筋を撫でられる思いを抱く。その笑みの裏に、何を抱えてきたのか。何を感じてきたのか。十五年という月日を共に重ねたというのに、自身はあまりにもこの悪魔に対して無知だ。

……それを押し殺して、いつも通りの軽口を叩いた。


「現界に来たなら、こっちのルールに従わなきゃ駄目なんですぅ。……意外だな、お前にそんな仕事が出来るなんて」

「ボク、仕事がデキるオトナだから♡ でもヴァスティも凄かったよぉ」

「……昔の話よ」


小さく、呟かれた。艶めくブロンドの髪、華奢な身体、整えられた爪。どれもが「人間らしさ」を謳っているのに、実際は悪魔だという。けれど、宵宮からは悪魔としての誇りなど、微塵も感じられなかった。むしろ、それへの憤りと嫌悪さえ滲んでいる。

……葛藤が、そこにはあるのだろう。痛みが、彼女をいてきたのだろう。けれどそれらを聞く事は躊躇われて、今此処に居る彼女を、翠はただ見つめる事しか出来なかった。


「私は逃げてきたの。魔界の実力主義に、うんざりしたから」


絞り出すように告げるその声は、震えていた。睫毛の影が落ち、ルビーの瞳が微かに揺れる。長く細い吐息の末に、彼女は「……全部、過去の話よ」と添えて顔を持ち上げた。決意が、滲んでいた。


「今此処に居る私は宵宮ヴァスティ。天璇大学附属病院の手術室看護師。……それが、全てよ」

「……そ、っか」


それ以上を問う事ははばかられた。彼女の決意を静かに讃え、小さく頷く。扉を抜けていったその背に、ほんの僅かな敬意を抱いて。彼女が巻き起こした旋風は、仄かなラベンダーの匂いを残していた。

……人間に、近付こうとする者、共に生きようとする者。

悪魔であっても天使であっても────そして、人間であっても。

それは変わらない想いなのだなと少し、彼女を身近に感じた。


そして、そんな宵宮と入れ違いになるように、まだ若い蕾のような女性が顔を出した。……水無瀬だ。彼女はラピスラズリ色のドクタースクラブを身に纏ったまま、翠達に深々と頭を下げる。


「あ、あ、あの……っ。先生、母をありがとうございました……!」

「母?患者って、ひょっとして……水無瀬ちゃんの親御さん?」

「えっと、水無瀬巴みなせともえ────母です。だから、その、本当にありがとうございましたっ」


それに対し、軽く微笑んで「いいって」と返しておく。


「成る程ね、お母様か。……助けられてよかったよ、俺の才能に感謝しな」


そう悪戯めいて笑うと、水無瀬は「は、はい……っ!」と相変わらず緊張した面持ちで、しかし眩しそうな眼差しを向けた。その視線がくすぐったくて、けれど悪い心地はしなくて……少しだけ、表情を緩める。


「ところで、訊きたいんだけどさ」

「はい?」

「お母様はなんかこう……持病とか、無かった?」


水無瀬は緩く首を傾げると、数秒考えた後に小さく首を振った。


「いえ……母はずっと健康だったと思います。年齢的な動脈硬化はありましたけど、それ以外は……。あっ、でも……少し、思想が強くて……」

「思想?」

「インフルエンザとか、コロナウイルスのワクチンは接種していないんです。政府の陰謀だとか何だとかで。ワクチンといえば、私が無理やり言って聞かせた魔法抗体ワクチンくらいで────」

「……魔法抗体、だよなぁ……」


顎に右手を押し当てて、左手で太腿ふとももの外側を軽く叩く。五十三例目の症例もやはり、魔法抗体の適応になかったという可能性が浮上する。だがしかし、どうして魔法抗体が適合しないのか、何故適合しなければ出血を招くのかが分からない。その様子を見た水無瀬が、瞳を伏せた。


「先生……一体、母の体に、何が起きていたんですか……?」

「それを今探してるとこなんだよね。……でもひとつ言えるのは、魔法抗体が関わってるって事」


全国民が接種している筈のそれ。怪しむ理由など、本来は無い筈だった。

けれど────全ての患者に共通しているものは、ただひとつ。それが、「魔法抗体」。

数値が高い。ただそれだけの、単純な共通点。

しかし、それ故に確信できる。絶対に何かがある。

翠はぐっと奥歯を噛み締めた。

その時────水無瀬が、涙ぐみながら呟いた。


「切開の〈剔抉〉みたいな、切り裂く危ない魔法で出血するなら、分かるのに……で、出血するなんて……」


翠の指が、ぴたりと止まる。


「……白魔法、?」


思考の奥で、何かが繋がる音がした。ばらばらだったパズルのピースが、導かれるように組み合わさっていく。

まさか。慌ててズボンの背面に押し込んだスマートフォンを取り出し、最近交換したばかりの番号を呼び出す。一色怜。共に謎へ挑む、頼れる好敵手。

電話は一回のコールで繋がった。翠はゴミ箱のペダルを乱暴に踏み、中に落ちている手袋を拾い上げながら声を荒げた。


『なんだ、手術は終わったのか』

「怜、それどころじゃない。今直ぐカルテを調べてくれ!────魔法医療適応に無かった患者に行われた医療、血飛沫が上がった時に使ったのは……何魔法だ!?」

『……何か、見えたのか』

「多分。殆ど、確信してる。最後の確認だ、至急頼む」

『分かった。直ぐに研究室まで来い。調べておく』

「サンキュ!」


数十秒で音声通話が切れる。その直後、スマートフォンの画面に通知が表示された。ディスプレイに浮かんだニュース速報のゴシック体が、無感情に翠を急かしている。


〈魔法抗体、いよいよ世界へ。本日夕刻のフライトで世界を震撼させよ〉


背筋が、凍り付いた。

新たな犠牲者が、世界中に撒き散らされる。

それはパンデミックより恐ろしい、救命魔導による殺人だ。

……真実を、突き付けなければならない。

もう哀れな大人達に、真実を!


翠は壁に置かれたビニール袋をひったくると、捨てたばかりの手袋を突っ込んだ。ポケットの中で、袋に包まれた手袋が揺れる。

検査部へ、急げ。

翠は駆け出した。

背後から、水無瀬が呼び止める声と、メディが駆けだす足音がついて来る。「おにーさ、まって……」とどこか悲痛な色を灯した音色が聞こえた気がした。けれど、それに意識を向ける余裕は無い。スニーカーが地面を蹴る感触を確かめながら、翠は唾を飲み込んで駆ける。

思考をフル回転させると、怠かった講義の記憶がフラッシュバックした。


『────魔法抗体。これは異界生命体、悪魔の細胞から作り出した黒魔法医療物質だ。投与後に体内で増殖し、異常細胞を〝悪〟と認識して捕食、その後に自壊する。増殖と自壊のバランス、それが魔法抗体の生命維持システムで────』


創造。変異。崩壊。

魔法に刻み込まれた、存在定義であり第一原則。

でも、もしも。

もしも、その「崩壊」が起こらなかったら────?

震える指先を無理矢理握り締めた。心の臓が、ばくばくと激しく吼えている。


……悪魔の細胞が、体内に残り続ける。


そんな、馬鹿な。

胸騒ぎが消えないまま、翠は廊下を駆け抜けた。

窓の外では、ぽつぽつと雨が降り始めていた。




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