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Chapter08:最悪な推理

初夏の夕暮れ、天璇大学のキャンパスは宵闇に抱かれていた。白壁の校舎は黒く染まり、アスファルトに水の鏡を拵えている。

雲は厚く、そして悲しい色を宿して涙を零し続ける。銀杏並木の葉を雨粒が叩いて、枝はその重さに耐えかねて首を垂れている。十七時の広島市内は、昼と夜の境界を線引く事を躊躇ったまま────静かに時をんでいた。


銀色の雨を淡く照らす街灯を背に、翠は足早に研究棟へと向かっていった。湿り気を帯びた空気が、肺の奥まで纏わりついて離れない。検査部で得た「成果」が、心臓の鼓動を速めさせる。喉が、痛い。冷えつつある世界と裏腹に、胸中を焦がすこの痛みは、熱は、一体。

後ろを小走りで追いかける影……メディが、静かに、そっとついて来る。いつもなら何か軽口のひとつでも叩く筈の彼女が、今は妙に無口だった。


……いや、無口なだけではない。どこか所在なげに指先を弄び、視線を宙に泳がせている。それに、翠は気付いていた。気付いていたが────今は振り返らなかった。水無瀬に言われて真相に近付いてから、ずっとこうだ。それは恐らく、もう取り返しのつかないところまで歯車が廻っている事の暗示なのだと……そう、直感していた。


研究室の扉を押し開ける。空気を循環させるプロペラが天井に設えられている。迫りくる宵闇を切り裂くような明るい世界が、雨に濡れた二人の身体を迎え入れた。

室内には、熱気と緊張が満ちていた。ファンの唸る音、乱雑に積み上げられた資料……そして、パソコンを占領するようにして座る怜の姿。


彼は顔を上げると、真っ直ぐに此方を見据えた。その瞳は、抑えきれない緊張と、微かな期待に揺れている。


「────お前が至ったのか、この答えに」


その声は静かだった。だが、その奥に隠された戦慄の色に、喉がひりつく。

翠はゆっくりと歩み寄り、怜の背後からディスプレイを覗き込んだ。羅列された患者番号、呪文記録……それらが載っている、封印解除されたカルテ。その一つ一つが、ずっと追い求めてきた「核心」に触れるものなのだと本能で分かる。


小さく、息を吸う。

そして、押し殺すように呟いた。


「……やっぱ、関係あったのかよ」


その声に反応したのは、壁際の椅子に沈み込むようにして座っていた伊織だった。窓を叩く雨音は徐々に強くなり、冷たい硝子に幾筋もの水滴の跡が伸びている。天井に埋め込まれたLEDが彼の頬を照らし、青白い顔色を際立たせた。


「……うん。全員、白魔法で出血してる」


それを聞いたなら行動は早い。無言で、モニターに視線を戻す。胸の奥に、外界を濡らす雨のような冷たいものが流れ込んだ。

怜が手早くキーボードを叩き、整理されたファイルを表示させた。画面に浮かび上がったリストには、見慣れた呪文の名前が並んでいる。彼は抑えた声で告げた。


「〈繕結〉〈蘇脈〉〈培生〉────全部白魔法だ。そしてどの患者も、このいずれかを受けた後に、バイタルが急落している。白魔法が原因だと言い切って間違いないだろう」


外では、慈雨じうの中だというのにからすの場違いな声が聞こえ始めていた。その不気味さに、いつからか研究室の隅に縮こまっていたサナがびくりと身体を震わせ、入口付近で突っ立っているメディが小さく零す。


「……もぉ、やめよぅよ……」


その、彼女らしくない震えた声に違和感を覚えて、初めてそちらを振り返る。メディは看護服の裾を指先で握り締めて、カーペットの敷かれた地面を瞳いっぱいに映し込んでいた。……やめようよって、何だよ。怪訝に思い、口を開く。それが、彼女が本当に与えてほしかった言葉で無い事は、分かりきっている筈なのに。


「……何だよ、メディ。今更」

「……それはボクが言う事じゃ、ない。どうするのが正解か、分からない。でも……ほんとは、知ってほしく、ない。特に、おにーさんには」

「何それ。嫌な予感ってやつか?……遅ぇよ、もう────近いところまで、辿り着いてる」

「ッ……」

「心配してくれてんの?案外、優しいんだな。大丈夫……俺は、ちょっとした事じゃへこたれねぇよ」

「嘘つき。絶対に……おにーさんは、へこんじゃうよ。……世界が意地悪だと信じてる、おにーさんなら」


泣き声になりかけたその声は、かろうじて誰にも聞こえないほど小さかった。ただ、翠の耳には確かにそれが届き、刺さっていた。

彼女を慰めるように、胸に抱く。あの日のままを刻み込んだその身体は小さく華奢で、背丈は翠の鎖骨ほどもない。そんなメディの頭を、撫でる。努めて優しく、「大丈夫だから」と告げながら。

……彼女がどう生きてきたか、何を考えているかなんて、知りもしなかった。けれど、この呑噬の悪魔は誰よりも翠に寄り添ってきた。誰よりも翠を思いやってきた。彼女は、酷く優しいんだ。だからこうして、翠を心配する。ひびだらけの彼が、壊れてしまうんじゃないかと、怖くて。

大丈夫。大丈夫だから。そう諭して、言い聞かせて。

何故なら、もう────もう、後戻りなど出来ない地点に、自分達は立っているのだから。


……室内の隅で、息をひとつ吸う音が聞こえた。胸の中のメディを解放し、背を叩いてからそちらを見遣る。程なくして、彼の唇が開かれた。


「……この前の講義でも言ったけどよ」


白衣をくしゃくしゃに羽織った本郷教授が、乱雑な資料の間を縫うように歩み寄ってきた。顔には深い疲れと、どこか諦めにも似た色が滲んでいる。

教授はずるずると椅子を引き寄せると、重たく腰を下ろし、ゆっくりと告げた。椅子がぎいと小さく啼いて、キャスターがからからと嗤っている。


「魔法抗体っつうのは、悪魔の細胞をベースにしてる。それが、暴走したのかもな。黒魔法は白魔法と相性悪りぃから」


部屋の空気が、重く沈む。遠雷が聞こえ、窓の外が一瞬光った。室内が明るく照らされて、ほこりが白銀に浮かび上がる。

翠は無言で、白衣のポケットから一枚の紙を取り出した。それは先程、検査部から受け取ったばかりの────検査の報告書だった。

顔に、何の感情も宿っていない事を悟る。酷く無情な顔つきで、机の上にそれを置いた。乾いた唇から紡がれる言葉は、自分でも信じられないほどに冷たい色を宿している。


「……と、思ってさ。検査部に頼んで、患者……水無瀬巴さんの血液とDNAを検査してもらったんだよね。その結果が、コレ」


差し出された紙に怜が目を通し、伊織も身を乗り出して覗き込む。

最後に本郷がそれを見下ろして────六つの瞳が、縦横無尽に紙面を這った。その誰しもの視線が、ひとつの真実を捉える。……驚くだろうなと思っていた。案の定、本郷教授が顔をしかめて低く呻く。


「……あぁ?んーーー……はぁ!?これ……じゃねぇか!DNA配列も悪魔のそれだ、患者って、悪魔だったのかよ!?」


どよめきが広がる。だが怜は即座にパソコンに向かい合って文字列を打ち込むと、微動だにせず淡々と言い切った。


「馬鹿な。水無瀬巴は、魔法抗体ワクチン接種前の血液検査で、人間であると証明されている。悪魔になった訳ではない」


その指が、モニターを叩き続ける。スクリーンに映された過去の検査結果と翠が提示したそれを見比べて、冷静に言い放った。


「……体内のMA値、つまり抗体濃度が異常に高まっただけだ」

「抗体濃度……って事は、体内で抗体が異常増殖した、って事……なのかな、レイ先生」

「そうとしか考えられんな……。五十三例、全ての患者。〈封秘〉魔法を解除して出てきたカルテに記録されている、全員。魔法抗体の数値が平均値に比べ異常に高かった────間違いない」


カルテの列が、ディスプレイに次々と並ぶ。あまりに無機質な光景だ。現実感がない……そう思いながらも、これが真実なのだと翠は目を細める。

五十三例。

すべての患者が、魔法抗体の異常増殖を起こしていた。それは果たして、適応に無い患者の体の問題なのか?患者の体の反応というだけの、ただの偶然なのか?……もう、言い逃れは出来ない。

深く息を吐きながら、瞳を伏せた。そして敢えて、問いかける。


「……本郷教授、あんた、魔法抗体開発に関わったんだよな」


投げかけられた言葉に、本郷は目を丸くして肩を跳ねさせる。まるで針で刺されたかのような大袈裟な動きに、不信感を募らせる敏感な自分が居た。


「んあ!?まさか俺を疑ってんのか!?いやいやいやいや!俺は異界学者、異界生物学者として細胞構造を研究しただけだっつの!トップは仙田で……」


息せき切った弁明に、怜は冷ややかな眼差しを向けた。……まぁ、そうだよな。もし本郷教授が犯人なら、わざわざ〈封秘〉魔法を解除してヒントを示す理由がない。それは怜も悟ったのだろう、彼はモニターを見据えたまま低く呟く。


「……やはり仙田教授が、隠していたか」


その言葉に、室内の空気がさらに重くのしかかる。空は先程に増して黒々としており、窓際に置かれた観葉植物の影が、窓に薄く、短く伸びている。

静かな緊張の中、伊織が呟いた。


「魔法抗体の開発そのものが……禁忌の実験だったのかな」


彼は視線を伏せたまま、続ける。


「……本郷教授は、本当に、知らなかったんですか?」


真正面からの問いかけだった。

天使の翼のように純粋な彼の問いが、本郷の胸の内を抉っているような気がした。彼は、暫く何も言わなかった。室内にファンの唸りだけが響く。その音がどこか遠く感じられるほど、静かな休止符だった。

ようやく、本郷は重たく口を開く。その言葉は外界を濡らす天泣のように、暗い響きを乗せていた。


「……知らなかった。いや────正確に言えば、薄々、気付いていたのかもしれねぇ」


彼は椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。眉間に深く刻まれた皺が、後悔を物語っている。


「俺はさ、魔法抗体って案が出た時……すげぇ!って思ったんだよ。心の底から、小学生みてぇにはしゃいで。……それは確かだ」


乾いた笑みが漏れる。それは、懺悔にも似たものだった。

『……ごめんなさい、翠くん』

『……知らない。私は、ただ、看護師だっただけよ』

……仙田教授と乾教授の声が、脳裏に蘇る。彼の言葉は、彼女達と似た色を孕んでいた。それに気付いて、思わず地面を見る。身近に居た、信じられると思っていた大人達が皆────皆、この事件に関与しているのだと、そう確信めいたものを抱いて。

仙田教授は、緋の手術を憶えている事を「戒め」だと言った。乾教授は、緋の事を「知らない」と断じた。……全ての出来事が、自分と緋に直結しているような予感がしてやまない。誰しもが自分と同じように、緋色の鎖に囚われているような気がして、やまなかった。

不意に、視線を感じる。見上げればメディがやはり不安そうにこちらを眺めていた。……そういや、大丈夫って言ってやったばかりだったな。何してんだよ、俺。心配すんなという意味合いを込めて笑顔を作ると、顔を引き締めて本郷教授に目線を戻す。彼は膝の上で、拳を握り締めていた。


「でもな……仙田達がどこか、おかしくなっていくのは見てたんだよ。それこそ、悪魔に憑かれたみてぇな目をして。ひたすらに、研究を続けてた。研究者はみんなそうだろって言われたらさ、それもそうなんだけどな。詳しくねぇけど、抗体が完成して普及した後……魔法医療監理委員会で抗体に関するいざこざがあったのは聞いてた。けど、魔法抗体は今もなお取り下げられてない。お前らが暴いた『欠陥』があるにも関わらず、だ。……本当に、皆、悪魔に憑かれてたのかもしれねぇ」


再び落ちた遠雷が、室内を白く染める。染まりゆく瞑色が、照明の輝きを喰らいながら室内に侵蝕し始めていた。窓の外は異界のように真っ暗で、雨の音だけが鳴り響いている。


「……けど、そもそも魔法抗体を作り出したいって言い出したのは、仙田じゃない。此処には、魔法省には、アイツよりもっと真面目に、もっと狂ったように────魔法抗体と向き合う奴が居る」


……もう、分かっていた。

仙田教授が主導者なら、異常な執着も、何らかの目的も、説明が出来る。けれどそれだけでは足りない。重要なピースがひとつ、足りない。「何故そこまでこの研究に執着するのか」────その謎は恐らく「組織に雁字搦めにされて、もう止まれなかった」事以外にもある筈だと直感している。そしてそれは、明るみに出た「彼」に問い質せばいいだけの事だ。自分達がする事は、決まっている。


怜も、伊織も、本郷も、黙って翠を見た。

誰も言葉を発しない。誰も、続きを紡がない。

今や、誰もが知っている。答えに、指先が触れている事を。


沈黙の中、机に一歩近づいた。

これが間違いなのだと、嘘なのだと、そう信じたい幼き自分が居る。

その偶像を破り捨て、真実を突き付けて、唇を震わせた。


「……最悪な推理していい?」


誰も否定しなかった。

呼吸すら忘れるほどの静寂。

デスクトップのバックグラウンドで流れているニュースだけが、唯一これからすべき事を示していた。

それを鼓膜に刷り込みながら、幸せだった日常を瞼に焼き付けながら、はっきりと告げる。


「────それが一番、真実に近い気がするんだ」


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