……
目の前で向かい合う二人の姿を見て、その違和感が確信に変わる。背筋が凍るような想いを胸中に抱き、唇を結んだ。信じていたのに。信じようと、していたのに。その想いが背骨に走る氷結を促して、それが刺すように、痛くて。その痛みは冷静ではなく、怒りの火種を内に含んでいた。冷たい炎が、胸元から迸っていた。
「……やっぱり、そういう事だったんだな」
掠れた声が自分のものだと気付くのに、数秒を要した。呆れや軽蔑では足りない、深い怒りが喉の奥を焦がしている。
「俺の推理が、最悪な暴論であって欲しかったよ」
唇から漏れたその言葉に、女が微かに瞳を伏せる。男は何も言わなかった。だが、その沈黙こそが全てであると、雄弁に物語っている。
背後に、
「……本当に、貴方達がやったと言うのですか」
その声は、震えていた。
誰よりも医療を信じ、命を信じてきた人々の筈なのに。
彼の「信頼」という地盤がぐらぐらと揺れている。信じてきた。信じていたかった。それは自分だけでなく、目の前の彼も同じことだ。全てを語る沈黙に「全てを語らせている事」が許せなくて、一歩踏み込む。視線を彼等のもとに向け、溢れんばかりの敵意を持って睨みつけた。
「黙秘か?なぁ────
雷が落ちた。
まるで、真実が剥き出しにされた瞬間を奉祝するかのように。空港の天井が一瞬白く照らされ、二人の人間の横顔を暴き出す。それは紛れもなく、疑いようもなく、そして間違う筈もなく────仙田と、玄真その人であった。
「全ては、あんた達の……あんた達を含む魔法医療監理委員会の過ちだったんだ」
絞り出した声が、空気を震わせる。
押さえ込んでいたものが、胸の中で風船のように弾けた。喉の奥がじりじりと焔に灼かれる。声帯を通じて溢れてくる言葉の一つ一つは、肉を切り裂くような鋭い刃物と化して彼等に投げられた。
「過ちを認める事を、放棄したんだろ。認めてしまえば自分達の立場が無くなる。それにもうどうする事も出来ないと甘えて、考えを放棄した。あれは人にとって、呪いになるっていうのに。
仙田は目を細め、それを一身に浴びている。傍観者のつもりかよ……彼女の冷たい視線に怒りさえ覚える。そんな翠を一瞥して、怜がゆっくりと一歩を踏み出した。額には薄く汗が滲んでいたが、その声はいつも通り淡々とした一定のトーンを奏でている。……感情的になるな。そんな意図を汲み取って唇を噛み、彼の紡ぐ真実に耳を傾けた。
「……悪魔抗体は、悪魔の細胞。それは稀に患者の体内で異常増殖し、細胞の構造を悪魔由来のものに『書き換える』作用を持っています。異常細胞や損傷細胞すらも『悪』と認識し、暴走を起こす……いわば、自己細胞の『概念』を、外的な呪いで塗り替えてしまうのでしょう。悪魔の概念の
伊織が静かに続ける。その言葉は優しく穏やかだが、微弱な震えを孕んでいた。瞳が、ほんの少しだけ揺れている。自身の体で「それ」が起こっていた事……その事実が彼を恐怖の底に突き落とそうと嘲っていた。けれど、それには怯まない。伊織はしっかりと二人の犯人を見据えて、ゆっくりと真実を口にする。
「悪魔は、白魔法と相性が悪い。白魔法による治療を行えば、悪魔細胞は自らを守るために魔法因子を大量放出する。その結果、局所的な高圧が形成され、血が噴き出す。原因不明の出血事例……これがその真相、なんですよね」
翠が最後に、熱を帯びた口調で突き付ける。
空港の喧騒が、遠のいていく感覚さえ覚える。それは自身の内側の世界が静かに、しかし確実に崩れ落ちていく事の暗示であった。
「その事を、あんた達は分かっていた筈だ!魔監委は魔法抗体の『異常値』の基準を持ってる、全部、全部知ってた筈だ!……なのにあんた達は手を打たず、挙句の果てに患者を隠蔽し、無かった事にしようとした……自分達の身を守るために!何故そこまで魔法抗体にこだわる?なんで、なんで大勢を殺してまで!」
叫びは、もう既に怒りを超えていた。内側に巣食う悲嘆が暴れ回り、翠の理性を引き千切る。吐き出すように問い掛けた声が残響し、沈黙がその場の全てを呑み込んだ。雨の音が、硝子を叩く乾いたリズムを刻んでいる。もう一度落雷が耳を劈き、その音は空港の天蓋にぶつかって跳ね返る。
仙田が口を開いたのは、その直後だった。スーツケースの取っ手を握る右手が、僅かに震えている。
「……私はただ、彼の思想に感銘を受けただけよ」
その声は酷く静かで、そして酷く厳かだった。硬さの中に、ひびの入ったグラスのような不安定さを宿している。小さく細く、息が吐き出される。ルージュを塗られた唇がゆっくりと開かれ、揺れを抱いた声が綴られる。
「彼に責任転嫁をするつもりはないけれど……その思想は、素晴らしいものだった。魔法で命を救う姿勢に、私は心を奪われたの。治験段階から協力してくれた紀美……乾教授もそうだった。私達は、この抗体の紡ぐ未来に、希望があると信じてた────そう、本気で」
その視線が玄真に注がれ、僅かな沈黙が降りる。彼は、まるでそれを受け止めきれないように俯いた。
「……答えろよ、父さん」そう、翠の口から自然と問いが零れる。違うなら、違うと言ってくれよ。幼稚な推理だなと笑い飛ばしてくれよ。そんな悲愴な願いを抱いても、彼は何も答えてはくれなかった。ただ口唇を僅かに震わせ、ひとつ呼吸を吐いてからぽつりと落とす。
「…………救いたかったんだ。だから、魔法抗体を作った。それを続けた。
翠の思考が、停止した。
今自分の耳に届いた言葉が、何を意味しているのか分からない。
────緋の命を犠牲にした?
そんな筈はない。緋を殺したのは自分だ。彼女の人格を悪魔に喰わせたのは「櫻田翠」であり、「櫻田玄真」ではない筈だ。彼はただひたむきに、彼女を救おうと糸を繋いだ。彼女を救おうと、全力を尽くした。それを翠は知っている。だって、あの時、ずっと見ていたのだから!
目の前のこの男は、手術台の上で緋の命を繋ぎ止めた筈なのだ。そう、確かに、あの時!
「……どういう、事だよ……」
玄真は滑らかな石材で造られた地面だけを見つめながら、静かに告げる。
そこに、偽りの音は重なってはいなかった。
「────緋は、魔法抗体を接種した最初の患者なのだ」
翠の背中に、冷たいものが走った。
「十五年前……お前達が事故に遭う少し前。私は彼女に魔法抗体を投与した。それが未来を、人々の未来を守ると思ったからだ。だが……プロトタイプの魔法抗体は、彼女の体内で暴走した。あらゆる細胞が『悪』と判断され、気付いた時には全身細胞が……喰われ始めていたのだ」
視界が、揺れる。
彼は残酷に、冷酷に続けた。
「……私は彼女に氷結魔法を掛け、その進行を封じた。今もなお、彼女は魔法省の管轄のもとで眠り続けている」
「緋は……あの時から緋は、居なかったって……?嘘だろ、うそだ、そんな」
「……本当だ。お前の知る『緋の事故』は全てが虚構であり、治療の見通しも立っていないのが事実だ」
「じゃあ……じゃあ、俺と事故に遭った緋は、誰だったんだよ……!?」
叫んだ声が、裏返った。
その時、後方から声が響く。それは柔らかく、優しく────そして致命的な音色を従えて。
「それはボクだよ、おにーさん」
「メディ、」
信じたくもない歪んだ真実。それが徐々に、現実味を帯びていく。やめろ。もう、聞きたくない。けれど真相を急かす内なる自分が一言一句を聞き漏らさまいと耳を立てている。喉がからからに乾いて、心臓が飛び出しそうなほど煩く拍動していた。
「魔法抗体の雛形になった細胞は、ボクの細胞だ。だから、『ボクが彼女を喰べた』っていうのは、何も間違いじゃない。……ボクが、ヒイロを殺したんだ」
思考が、混濁する。
分からない。訳が、分からない。
────あの時、共に事故に遭ったのは、メディ?
マフラーに顔を埋めていたのも、白い水蒸気を吐き出す薄い唇も、優しく細められた黒い瞳も、紅潮した柔らかな頬も、血溜まりも、鉄の臭いも、掠れた声も、あの赤色も全部……メディだった?
じゃあ緋は?
いつから?
どうして?
いつから緋は『死んで』いた?
目の前の彼が、殺したのか?
自分の父親が?
自分の、家族が?
家族だった筈の、人間が────?
翠は拳を強く握り締めた。骨が軋む音が、鼓膜に刻まれるほどに。怒りが血流を焼いた。憎悪が、精神を破った。彼を赦してはならないと、内なる自分が叫んでいる。
緋は、父親の実験で命を落とした。冷たく氷漬けにされ、幸せに生きられる筈だった運命を狂わされた。……人々の未来を守るため?そのためにコイツは、家族を見捨てたのか?子供を実験に用い、幸福を奪っておいて、未だに『治療の見通しが立ってない』?ふざけんな。ふざけんなふざけんなふざけんな。
何が、正義だ。
何が、希望だ。
何が、何が、何が────!
「……ひす、」
玄真が口を開いたその瞬間、翠の声が遮った。
「────メディ、殺せ」