目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

Chapter04:ベリル・ザ・ブレイブ

静寂の中、バイタルモニターの電子音だけが響いている。宙に浮いた無影灯が照らすメディの胸腹部には、まるで空が落ちてきたような風穴がひとつ、穿たれていた。泣きそうになるのを堪えて口を引き結ぶ。皮膚も骨も肉も、魔法因子と共に「概念」ごと抉り取られている。それでも、命の灯火はまだ消えてはいなかった。


「心拍44、血圧測定不能。サチュレーションは70切ってる。レイ先生、まずは────」

「焦るな、綾瀬。まずは舞台を整える。……魔術展開で、器具の生成は可能か?」


怜の問いに、翠は一抹の不安を憶える。ゼロから物体を生み出すのは、殆ど奇跡に近い魔術だ。容易く出来るようなものではない。しかし、伊織は強い光の下で力強く微笑み返した。


「……勿論。サナ、いけるよね?」

「勿論ですっ!お任せください!……回路を顕現します!」


足元に、薄紅の陣が浮かぶ。何も描かれていない二重の円環が、対照的な方向を向いて静かに回転していた。

伊織が指先で紋様を描きながらコードを唱える。空に描かれた図は決して人間が理解できるものではない。まるで機械に命令を入力するように、彼が作り上げた独自の形態を、独自の規則を緩やかに紡ぎ出す。


「医科魔術・幽玄回路構築。コード〈構術こうじゅつ〉、魔術式入力────[CTR-λ:SUR/TOO-352::OS-CST〝 空白の掌よ、癒しの意志を掬い、救済の器を成せ〟]……出力を求む!」

「事象変換回路構築、完了。コード〈構術〉を検知────認証。医科魔術を出力いたします!」


高らかな宣言と共に、足元の陣に英数列が刻まれ眩く光る。円の中央に五芒星が編まれ、回転し、ゼロとイチから成る光の粒子が手元に収束する。翠はそれを掴んだ。握られたそれ、剪刃はまるで氷のように透き通り、純粋な輝きを従えて彼を見上げている。それは、「救う」という概念から生まれた手術器具。魔術が生み出す、医のための道具。

僅かに頷き、伊織を見遣る。彼は相変わらずにこやかに、そして凛々しく笑っていた。


「……サンキュ。絶対に、救うからな」

「力を入れすぎるなよ、櫻田。頼れるものは頼れ。例え、お前が嫌う魔法医療であってもな」

「分かってる。輸血も足りない、出血は最小限に抑えねぇとメディが持たない。……切開は全部、黒魔法による〈剔抉てっけつ〉で行く。〈剔抉〉なら出血はしない。黒魔法なら、悪魔の体でも適応する────怜」

「分かっている」


怜が前に出て、言葉もなく指先を変形させた。鋭利な刃と化した手刀が、「切開」という概念を宿す。彼はその刃を携え、皮膚の上空をなぞるように振り下ろした。


「虚無の刃よ、穿て────〈剔抉〉」


それは、空間を切り裂き対象を消去する魔法。空気が裂け、果物をナイフで割るように、胸と腹が滑らかに開いた。そこからの出血は無い。だが、内側には彫られた彫像のように削げた肝臓、穿たれた横隔膜おうかくまく、剥き出しの血管の端々が覗いている。

翠はそれらを鋭く睨み、思考を組み立てる。


「ガーゼ」

「ああ」


即座に白い布地が傷口へと滑り込む。胸腔と腹腔に手際よく詰め込まれたガーゼの白を、赤がじわりと穢していく。魔法因子を抉る〈穿禍〉の概念は、組織を局所的に灼き焦がしており、その焦げた匂いが空気に滲んで鼻腔を突いた。


肝左葉かんさよう、破裂してるな。腹腔内に────1.5リットルは血が溜まってる。横隔膜も裂けてる、……心膜も穴空いてるじゃん」


冷静な分析を下した次の瞬間、翠は右手を伸ばす。開創器、と唇が言葉を紡ぎ出すのと同時に、魔術陣から生成された透明な器具が手渡される。それをメディの体内へと挿入し、傷口を展開する。視野を確保しながら、繊細な彼の腕は忙しなく動いて追加のガーゼを詰めていた。傷を開くのと同時進行で圧迫止血。そうでもしねぇと、術野が赤に溺れる。

背後では、サナが無言のまま輸血器具を構築していた。静かに父の腕へ針を刺せば、Rhマイナスの血液がサクションを通じて流れ始める。輸血の開始を知った翠はもう一度、手順を洗い直す。

……順番的には、肝臓、動脈吻合、横隔膜、心膜。四つの同時施術だ。難易度は高い────けど、俺ならやれる。それを反芻しながら腹部中枢……風穴の中心へと目を向ける。


「左葉、裂傷端れっしょうたんが壊死しかけてる。怜、〈剔抉〉でトリミングして。俺が縫う」

「言われなくとも」


二人の動きは、予め編まれた舞のように正確で優雅だった。翠が肝臓を引き、露出した小枝状の血管に、怜が無言で魔力の刃を滑らせる。無駄な組織が削除され、そこに翠の針が入って、引いて、縫い留める。互いに嫌い合っていた魔法と非魔法が今、ひとつの命を紡いでいる。

銀の糸が掌で踊り、裂けた肝実質が縫い合わされていく。それはひと繋ぎに術野を泳ぐが、次の瞬間、彼の手にはステープラーが握られていた。

ばつん、と刃が噛み合う。壊死部が一括で除去され、以前よりすっきりとした肝臓がそこにはあった。焼灼しょうしゃくし、止血膜を当てながら確認すれば、腸間膜ちょうかんまくの血管までもが破断していると分かる。……次、動脈吻合ね。翠は唇を舐め、伊織に人工血管を要求する。


「人工血管、だね。サナ!」

「はい……っ!〈構術〉いたします!」


再び回路が起動する。蒸気にも似た数列を纏った魔術陣から透明な筒が立ち上がる。彼等のイメージが具現化され、直径、強度、そして柔軟性……その全てを備えた人工血管が、まるで印刷されるように輪郭を帯びた。

それを受け取り、翠はマイクロ鉗子を握る。蜘蛛の巣よりさらに細い10―0ナイロンの糸が指先で揺れ、手先の震えに応じるように微かに煌めいた。


「────。」


言葉を交わす余裕すら失い、ただ光と命の接続音が静かに空間を満たしていく。血流が繋がるたび、メディの指先が微かに動いたように錯覚する。彼女はまだ、そこに居る。彼女はまだ、生きている。それだけが、翠の心の奥に炎を灯し続けていた。

吻合を終える。繋がれた細い血脈が彼を激励している。

まだ、止まる訳にはいかない。怜が緊迫した雰囲気で呟いたのが眼前に聞こえた。


「横隔膜、下がってきている」

「……裂けたままじゃ、やっぱまずいか」


呼吸の要────横隔膜。それが破れてしまえば、胸腔と腹腔が繋がり、呼吸のたびに腹の臓器が肺を押し上げるという事態が起こる。結果、肺は満足に膨らまず、呼吸は破綻する。

……どう考えてもまずいよな、普通に。そこまで考えて、翠は平静を保ったまま声を上げた。


「横隔膜、先に閉じる。怜、二層縫合するから」

「嗚呼。デブリードマンから入る……綾瀬、補助を頼む」

「分かった!」

「サナちゃん、2―0ちょーだい」

「は、はい!翠さま!」


怜が壊死組織を丁寧に削る。

揃えられた端から翠が把針器はしんきを取り、2-0の糸を躍らせる。

縫合感覚1cm、縫い代1cm。まるで唇が交わるように、柔らかく、しかし確かに繋ぎ止めていく。一針ごとに命が編まれ、現世にそれを呼び止めていく。


「ヒスイ先生、保護膜。……呼吸器系は応力分散が必要、だよね?」

「よく分かってんじゃん、伊織。……もらうな」


破れたシャツをただ縫うだけでは、再び裂けてしまう。だからその上に布を重ねて補強する────それは、医療でも同じ事。横隔膜は動く組織。縫合部が裂ければ全てが台無しだ。

幻想の保護膜が陣から浮かび上がる。それを縫い目に重ね、翠は再び針を手に取った。死を迎える過程を逆再生するかのように、命が着々と繋がれていく。肝臓が切離された。血管が塞がった。そしてようやく、肺の動きが戻ってきた。サナがサチュレーションの回復を喜ぶ。それを一瞥し、最後の処置に手を伸ばす。


「……次、心膜。伊織」

「……分かった。サナ、大丈夫?」

「だいじょう……ぶ、です……パッチ作れま────」


そう口にした彼女の声が、途中で掠れた。その異変に最初に振り向いたのは伊織だ。彼女の名を叫ぶ声が影の落ちぬ聖域の中に響き、絶望が室内に散った。


「サナッ!?」


少女の華奢な身体が、とさりと軽い音を立てて崩れ落ちる。電子音では測れないもうひとつの衰弱が、死の匂いが、密室に立ち込め始めていた。


「……すみま、せん、ご主人、さま……これ、以上は……」


翠がひとつ、そちらに視線を送る。


「……魔法因子欠乏か」


サナの唇は紫色に染まり、翼は垂れていた。限界だった。素材創出と器具生成、その全てを一身に担っていたのだから。

……奇跡に近いような魔術を頻出していれば、因子が尽きる事は分かりきっていた筈だった。それでも、彼女は闘った。素性も知れぬ「友」を救うために、己の身体を犠牲にしてまで。


「サナちゃん、ちょっと休んでな。あとは俺に任せてよ。……伊織も彼女についてやって。大丈夫」


口を突いて出た言葉は静かで、けれど確かに強い意志を帯びていた。伊織が頷く。それを確認して、目の前のもう一人の助手に手を伸ばす。


「怜、3―0」

「……パッチでなく縫合だと、新たな亀裂が生じる恐れもあるのだぞ」

「分かってるよ。でも────」


怜も、理解していた。翠の決意を、誰よりも。

それを感じながら、彼を信じながら、自信を匂わせて口角を持ち上げる。


「縫うしかないだろ。コイツは、そんなにやわじゃない」

「……そうか」


糸が、渡される。

手に取った針と糸は微かに震え、銀の光を撒き散らした。けれど、その震えは迷いではない。その震えは恐れではなかった。

心膜の裂け目に、静かに針を通す。慎重に、しかし確実に。丁寧に、丁寧に、一針ずつ組織に糸を繋ぐ。縁を寄せ、一針、また一針。彼の瞳には、いささかの曇りも、翳りすらもなかった。

信じていた。そして、信じている。今も、これからも、ずっと。

あの聖夜、彼女が伸ばしていた手を、掴むように。

────救う。救う、救う、救う。絶対に、死なせやしない。もし自分が概念の存在に成るというなら、この世界の神に成るというなら、彼女だけは、絶対に。

もう、泣かせたりしない。

雨も、雪も、互いにもう、懲り懲りなのだから。


「帰って来いよ、メディ」


糸を引く。銀が閃く。

唇が、静かに祈るように開いた。優しい約束を、言祝いでいた。


「また、フレンチトースト焼いてやるから。遊びにだって、連れてってやるから。もう、誰も恨んでない。誰も憎んでない。だから────」




「  あはっ、聞いちゃったぁ  」




刹那、そんな掠れたこえが聞こえた。

春の終わりの風のような聲だった。

耳に届いた筈なのに、心の奥で鳴っていた。耳慣れた音、ふざけるような語尾。呼びかけるようで、揶揄うようで、けれど何よりも懐かしい声音が……確かに、翠の胸の内を震わせた。

縫合を止めて、顔を上げる。彼女の深紅の瞳は開かれていた。薄く柔らかな瞼の奥から、呑噬の悪魔が此方を見つめている。


「……お前、」


かろうじて、それだけを紡ぎ出したその瞬間。彼女の胸元から、光が立ち上がった。

それは、魔法陣だった。誰の詠唱も聞こえない、誰の周波も感じない夢幻の陣。術式もコードも存在しない、概念の独唱。空中に浮かぶ金色の糸────それが幾重にも交錯し、円を描き、文字を織りなして中心に五芒星を結ぶ。

言葉のない魔法。

それは魔法の一言に表しても良いのだろうか。

そう思うほどに神々しい、まさしく「救済」の詩であった。


「光……?」


伊織が呟き、目を見開く。奇跡の顕現に、怜が釘付けにされている。

翠の眼前で、命が目に見える形で繋ぎ止められていく。光が、彼女の一身に注がれていた。


光は、糸となって彼女の体内へ落ちていく。血の滲む朱い傷口に、一文字ずつ、静かに吸い込まれていく。まるで、その欠損を埋めるように。まるで、その悲しみを塞ぐように。シームが溶けて消えていく。赤が、白き肌に置き換わっていく。


糸は、接続を謳っているのではない。

糸は、再構築であった。


「概念」をも抉られた肉体に、再び存在の輪郭が縫い直されていく。器官の形が、筋繊維の織りが、魔法因子の流路が、物語をなぞるように再生されていく。翠が繋いだ命をもう一度、確実なものとして定義するように。



「  二度、救いをこいねがった、おにーさんのために  」



柔らかな声が二重になって降り注ぐ。メゾ・ソプラノの音の中に、妹の面影を抱いた。


癒しではない。

修復でも、回復でもない。

この概念は、「救済」だ。

彼女の内に残された、彼女を此処に繋ぎ止める、たったひとつの祈りだった。


────もうおにーちゃんが、泣かずに済みますように。


その想いは、奇跡となった。

その想いは、現実となった。

翠と同じ力を持つ者の、幻想を抱く少女の祈りが魔法となり、世界の傷を縫っている。


「……ひい、ろ?」


絞り出した声は、情けないほど震えていた。シャルラッハロートの枷で囚われ続けていたのだと思っていた。救えなかった、何も成せなかった、むしろ、壊してしまったのだと、そう信じていた。

違うんだよ、と微笑むように。

メディの身体が、音もなく浮き上がる。


金糸がなおも宙に舞い、彼女の背へと収束してゆく。束ねられ、繋がれ、重なって────やがて光は、三対の巨大な羽を形作った。その姿は翠の識る「悪魔」ではない。悲しみも、呪いも、怒りさえも抱き締めてなお立つ、ひとりの強き存在であった。


「……ヒーローは遅れて登場する、って……おにーさんが言ったんだよぉ」


ふわりと解けた髪が舞う。彼女は静かに、翠に歩み寄った。


「ボクひとりじゃ、戻ってはこられなかった。おにーさんが、助けてくれたんだよ」


その声は涙を滲ませている。震えた泣き笑いだったが、確かにあたたかくて。言いたい言葉を呑み込んで、ぐちゃぐちゃの頭の中で反芻して、ようやく振り絞ったのは、後悔するほど幼稚な言葉だ。


「馬鹿。ちがう。俺が、殺しかけたんだ。馬鹿なのは、ずっと俺で────」

「おにーさんは、誰も殺してない。誰も、悪くないんだ。誰も、恨まなくていいんだ。自分自身すらも」

「……っ、」


もう、何も言えなかった。雫が目頭から溢れ出て、無秩序に頬を伝った。それが「涙」だという事を、数十秒ののちに知る。止まらなかった。抑えられなかった。呪われるべきだと思って生きてきたのに、嫌われるべきだと思って生きてきたのに、目の前の彼女は、そんな穢れた想いすらも────喰らって受け入れてしまったのだから。


「ありがとう、おにーさん。一度目は、キミを庇って死にかけた時。二度目は、キミに真実を告げられなくて死にかけた時。……ボクを救ってきれたのは、いつだってキミだった。ありがとう。本当に、そう思ってるんだよ」

「……ばか。ばかメディ」


震える声で、掠れる声で、そう紡ぐ。彼女がそっと、彼を抱き締める。その胸の中で翠は泣いた。あたたかくて、やさしくて、ああ、自分も赦されていいのだと、初めてそう思って。


「いつもふざけてばっかのくせに……っ。こんなときだけ、ありがとうなんて、言うなよ……っ」

「ふふ。だってボク……悪魔だから」

「きらいだ。お前なんか、大嫌いだ────」


素直になれないその台詞が穏やかな響きを従えている事は、最早疑いようもない。

血と肉と、言葉と想いがひとつの命を編み上げた。それは、魔法でも医学でもない。そして同時に、魔法でも医学でもある。

人が人を想う、その行為が────「奇跡」と呼ばれる所以であった。


緋色の戒ヒイロノカイを読み解いたは思う。

これが、自分達の導き出した答えなのだと。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?