術後の空気が、余熱のように温かく残る。その柔らかな空気に対し懺悔をするように、背後でぽつりと女性の声がした。
「……本当は私、意地になっていただけなのかもしれない。和葉を救えなくて、怖くて。だって彼女を呪いの塊にしたのも、翠くんと緋ちゃんにそれを受け継がせたのも、私なのだから」
仙田教授だった。いつもの理性的な調子とは違う、もう一人の弱い彼女……本心の彼女がそう、零していて。思わず顔を向けると、彼女は生成された術室の隅で玄真に背を向けたまま、細く、細く語っていた。
翠は言葉を挟まず、ただそれを聞いた。父と、そしてかつての母の友人との間に流れる、赦しにも似た音色を。
玄真が静かに、どこか懐かしんでいる色を含めて彼女に返す。
「そうでもない。仙田教授、和葉はずっと……貴女を友だと言っていた。貴女に、人間にしてもらえたと喜んでいた。……貴女は、何も間違ってはいなかった」
その言葉に、仙田の肩がほんの僅かだけ震えた気がした。
「……けれど」と、少しだけ間を置いて玄真は続ける。
「魔法抗体は、
その言葉を受けて、仙田の頬から雫が伝う。肩が再び震え、指先がペンダントを握り締める。彼女の足から力が抜け、そのまま地面に跪いて。ぽたぽたと、零す雨が石造りの床を濡らしていく。ひとつの罪を、彼女は認めようとしていた。
「そう、ね……そうよね……。少し、私達は、焦りすぎたのかもしれないわ。焦らなくとも、傷は、ゆっくりと癒えていくというのに。大人だからって、想いを蔑ろにして、傷を直視する事を諦めて。……ごめんね……ごめんね、和葉────」
────無菌室の
翠は黙ったまま、そのやり取りを見ていた。赦すでも、裁くでもなく……ただ見つめていた。それは、自分が赦す罪ではない。誰かが容易く裁ける罪ではない。そこにあるのは緋色に囚われた「愛」なのだ。誰もが誰かを、強く想っている。故にすれ違い、傷つけ、咎を背負う。
それを、共に慰めていく。共に、受け入れていく。
空気の奥に沈殿していた長い年月の悔恨が、僅かに和らいだように思えた。
仙田を見つめていた玄真が、ふと此方に歩み寄る。翠の隣には、ハグを交わしたばかりのメディが居る。衣服の腹部は裂かれているが、そこに覗いているのは白い肌で、赤は一滴たりとも認められない。彼女が視線を持ち上げ、父を見上げた。
その視線を、翠は見ていた。
「……君は、変わってはいないね、メディヴァ。緋を助けたいと縋った時から、何一つ」
玄真の声は、どこか遠くを思い出すような色を含んでいた。
メディは微かに笑った。柔らかに、そして悪戯に。
「変わったさ。今は、ボク一人の力で救おうとは思わない。……魔法じゃ癒せない
「……まったくだ」
その言葉が、翠の胸に染みた。魔法では届かない疵。魔法では、癒せない痕。だからこそ自分はメスを選んだのだ。人の力で、傷ついた誰かに寄り添うために。
父が、メディを真っ直ぐに見据えた。
「メディヴァ。私からの────最後の頼みだ」
彼女は首を傾げなかった。その言葉だけで、何をするべきか悟っているのだろう。この悪魔はどうしようもなく我儘で、身勝手で、マイペースで……けれど優しくて、穏やかで、聡明である事を翠はよく知っている。
メディは小さく頷いた。その瞳には、父と同じくらいの決意が滲んでいる。
「分かっているとも。……いいんだね?キミの研究の全てを、塵に還しても」
「構わない。それでしか、この世界の秩序は守れないのだから。……例えこの世界から『魔法抗体』の概念が消え去っても。……私はまた、最初から始めよう。愛する者を、救うために」
その言葉に、翠はふっと息を漏らした。
父の口から「愛する者」という言葉が飛び出た事が不思議で、そして少しだけ、嬉しかったから。
「慰めにしかならないけど」とメディが続ける。
「キミの功績を憶えている人間は存在する。……ヒスイは、きっと忘れない。概念をその身に刻む、彼ならば」
翠は肩をすくめて、唇の端を持ち上げた。
口下手で、仕事熱心で、そして家族を愛する彼の紡いだ武勇伝。絶対に、忘れてたまるかよ────そんな想いを切に込めて。
「……親父の大失態、一生語り継いでやるよ」
それを聞いて、父が……玄真が眉を下げて笑った。「それは頼もしい」と応えたその口調は穏やかで、どこか安堵しているようなニュアンスを含んでいる。
メディが両手を空へと掲げた。
窓の外では、まだ黒雲が広がっている。雨は小降りになっているが、空はまだ、笑みを取り戻す事を赦してはいなかった。
「────さぁ、始めよう」
その声はやさしく、それでいて凛としていて。
これから起こる奇跡を、確かに期待させていた。
「魔法社会の基盤を書き換える、呑噬の時間だ」