「────さぁ、始めよう」
その声はやさしく、それでいて凛としていて。
これから起こる奇跡を、確かに期待させていた。
「魔法社会の基盤を書き換える、呑噬の時間だ」
言葉と共に、世界が軋む音がした。
空と大地に、巨大な魔法陣が展開される。幾重にもなった円環に紋様が刻まれ、歯車のように術式が回転し、天空から柔らかな粒子が降り注いだ。
その光の一つ一つが、光の文字列を形作っていく。
翠の足元にも、陣が広がる。何かが揺れていた。脳の奥、魂の中核で、ぐらぐらと。メディが両腕を突き出し、ゆっくりと近付ける。その中心にある「核」が、翠には見えていた。まるで星が膨張していくような、巨大な熱と光の渦、そして希望と、確かな愛。それらが陣と陣をひとつに繋ぎ、身を寄せ合い────そして、重なった。
瞬間、紅の光が爆ぜる。
ぱきん、と鋭い金属音がした。
人々の胸に掛けられていた名札が、砕けて外れるような音。
人々の心を縫い留めていた針が、割れて落ちるような音。
世界から、何かが失われた。人々の記憶が解けていく。鎖が文字へと変わり、空気に溶け、何もなかったのように消えていく。
……けれど、翠には分かった。
今この瞬間、「魔法抗体」という存在が世界から消えていったのだという事を。
気付いているのは、自身と────彼女だけなのだ、という事を。
「もう一度聞こうか、クロマサ」
光が溶け、糸が宙に消えた静寂を払って、メディがわざとらしく首を傾げる。
「魔法抗体って、知ってる?」
玄真は一瞬だけ虚空を見つめ……そして、僅かに眉を顰めて唇を開いた。
「……魔法、抗体……?」
「うんうん、完璧ぃ!」
メディは笑った。まるで、世界が何も変わらなかったかのように、無邪気に。その笑顔は残酷だ。全ての人の記憶を、概念を喰らい、無かったことに変えて……その上で、それを「最初から無かったんだよ」と言い聞かせる彼女は、残酷だ。けれど、その奥には確かな優しさがある。コイツは、そういう存在だ。翠は息を吐き、くすりと小さく微笑んだ。
「……あーぁ、なんだかお腹壊しそう……。おにーさん、おかゆ作ってぇ」
「はいはい、卵がゆにしてやるよ」
「やけに優しいねぇ。うれしいねぇ」
「……別に。ただの気まぐれですぅ~」
再来した日常に、緊張の糸が緩んでいく。どうでもいいようなやり取りに思わず吹き出しそうになって……けれど、笑わなかった。弧を描いた口元は小さく震えていて、目の奥に溜まっていた何かが、熱に変わっていく。さっき、泣いただろ。二度も涙を見せてたまるかよ。そんな微弱な反抗心と共に、翠は静かに瞳を閉じる。
メディがふわりと、その胸元に頬を寄せた。とくん、とくんと心拍が一定のリズムを刻んでいる。呼吸は温かくて、生きている「証拠」がそこにはある。
「……ヒイロとね、約束したんだ」
彼女が紡ぐ声は、とても穏やかだった。その言葉を聞いて瞼を持ち上げれば、声音に見合う優しい笑顔を浮かべた悪魔が、此方を見上げていた。
「────『おにーちゃんを頼むよ』って。だからボクは、ずっと傍に居るよ。キミを呪うためじゃなく、キミを支えるために」
翠は長い瞬きを一度だけしてから、そっと目を伏せた。
どこか安堵するような笑い声が、喉から漏れた。
「……ふは、なんだよ……。俺は……最初からずっと、守られていたんだな」
雨は、止んでいた。
空の雲が薄らぎ、初夏の夜が世界を優しく包んでいく。山際を薄く染めるは紫。藍。そして、緋色。その色に、恐怖は感じない。過去の亡霊の幻など見ない。翠は真っ直ぐ、月が昇る方を見遣る。
そこにはもう、呪いも絶望も無かった。
ただ静かな拍動と、互いに寄り添うひとつの約束だけが、余韻を連れて残っていた。