少女の隣まで歩き横顔を覗いてみる。少女はすでに青空を見上げていた。
「ねえ、あの雲。うさぎさんに見えない?」
「うさぎ?」
突然抑揚のない声でそう言われ俺も青空を見上げてみる。そこには確かに歪な形をした雲はあったが、うさぎというにはめちゃくちゃだった。
「いや、見えねえな」
「そう……」
「…………」
「…………」
え、終わり?
「ねえ」
「おお」
続くのかよ。いきなりだから驚くだろうが。
「あなた、うさぎさんは好き?」
またうさぎか。何をしたいのかよく分からん。
「んー、どうだろうな。好きでも嫌いでもないっていうか、普通だな」
「そう……」
「…………」
「…………」
終わり?
「好きよ」
「おお!」
いきなり言うなよ、肩がビクッとするだろうが。
「まあ、可愛いっちゃ可愛いしな」
「愛しているわ」
「これだけ話題に出すんだからそうだろうな」
「うさぎさんのお嫁さんになりたい」
「あー、なあ、それって比喩だよな?」
「いえ、言葉通りよ」
「はは、冗談が上手いな」
俺は笑って振り向くと、少女は真顔だった。
え?
「うさぎさんのお嫁さんになりたい。子供は三人欲しいわ」
ガチだこいつぅううう!
「そうなんだー……。あ、悪い、俺教室戻るわ」
早くここから立ち去りたい。てか普通にダッシュで逃げたい。
が、背後から声が掛けられた。
「戻ってどうするの? 皆はまだ君のこと恐れてるよ?」
ピタ、と動きが止まる。その一言で苦笑いがスーと退いていくのが分かった。
「お前、俺のこと知ってたのか」
「ええ、宮司神愛。私のクラスメイト」
「ああ、それで知ってたわけね」
なるほど。そうとは知らずとんだ間抜けだ。
「ええ、そういうこと。それに腕章見れば誰だって分かるわ」
少女は単調な喋り方で話を続ける。
「名乗っておいた方がいい?」
そう言われ、俺は少女に振り向いた。
「天和」
「てんほう?」
「違う。そんな勝負が始まっていきなり終わるようなつまらない名前じゃないわ」
聞き間違いにもまったくの無表情で、彼女は再び名乗った。
「薬師天和(やくしてんほ)。それが私の名前」
天和はフェンスに背中を預け、真っ直ぐ見つめてくる。
「そこでぼうと立ってないで、戻ってきたら?」
「…………」
断ろうとも思ったが、俺は天和の隣に戻った。それはこの少女に違和感があったからだ。
「なあ、俺とこうして話してて、怖くないのか?」
怖がって欲しいわけじゃない。ただ、こうして普通に話をするっていうのが、悲しいが普通じゃないんだ。
そんな俺の気を知ってか知らずか、天和は瞳を閉じた。
「別に。怖くないよ、君のこと。それに私、一応これだから」
「無我無心、か」
天和が摘まんだ腕章に印されていたのは緑のクローバー。心を無にして何も求めず苦しみを無くす神理、無我無心の証が載っていた。
が、変態だ。どういうこと?
しかし俺を怖がらない、か。
奇特な隣人を横目で見つめてみる。口にした通り、見た感じ怖がっているようには見えない。
「クラスメイトってことはあんたも机がズタズタになってたの知ってるんだろ? 気にしないのか?」
「別に。気にしてないわ」
「俺がやったと思わないのかよ」
「思うわけないじゃん。あんなあからさまなやつ」
「…………」
……へえー。なんていうか、意外だ。
なんだろ、それだけで俺の心が軽くなっていくのが分かる。よく分からねえけど、こんなやつもいるんだ。
「そいつは嬉しいね」
本心だった。正直、けっこう嬉しかった。ていうか、めちゃくちゃ嬉しい。こんなやつもいるんだと知れたらなんだかホッと出来た。
「なあ、天和」
それで、恐る恐る聞いてみた。
「もしさ、初対面の俺が知人の誕生会に参加してくれとか言ってきたら、その、やっぱりさ、あの、変に思うよな?」
普通に聞けばいいものを、何故か口がうまく動かない。くそ、なに緊張してんだ俺。どもるなよカッコ悪い。
「変ね」
「…………」
まあ、そうだよな……。
いや、がっかりなんかしてねえし! こんなの、当然だし……。
「ねえ、宮司君は動物、何が好き?」
「動物? そうだな、うーん、猫とか?」
隣の天和に目を向けてみる。何を考えているのか分からない女だが、俺の答えに天和の瞼が開かれた。その顔が、
「ふふ」
いやらしく笑ってるぅうううう!
「おい! そういう意味じゃねえよ! 俺が言ってる好きっていうのは物とか趣味とかの意味で、お前の愛とはまったく別のものだ!」
「否定しなくてもいいわよ同志。そんなことより杯を交わしましょう」
「しねえよ! そして違う、つってんだろ!」
なにが同志だ。そしてその不気味な笑みを止めろ。
「だいたい、お前はどうしてここにいるんだよ? 机は確かにあれだがみんな教室に残ってるぞ」
「教室の窓から空を眺めていたら」
天和は視線を空に移し、幻想を追いかけるように言い出した。
「流れている雲が、うさぎさんに似ていたから……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「それだけ?」
「それだけよ」
なんだこいつ!
「やっぱり、うさぎさんは立派だわ」
「なに言ってんだか」
「君と私を、こうして結び付けてくれた」
「…………」
その言葉には、嫌味を言えなかった。
「うさぎさんを追い掛けたら、そこには不思議な出会いが待っているものなの」
天和は空を仰ぎつつ穏やかな表情に変わっていく。起伏は薄いが彼女なりに喜んでいるように見える。
そんな顔を見て思った。
これは、もしかしたら黄金律の効果じゃないのか?
不本意だが俺は天和の嬉しいことをしてしまったらしい(マジで不本意だけど)。それで天和は安らかな顔をしている。それとふと思ったんだ。天和が俺の疑いを否定してくれたこと。その時俺はめちゃくちゃ嬉しかった。それも黄金律なんじゃないかって。
自分がされて嬉しいことは、相手にもしてあげる。
俺は天和の穏やかな顔に、黄金律の可能性を感じていた。