――午後八時半、横浜・関内駅前。
横浜市内は死んでいた。停電……、雨……、そして静寂。
信号は消え、クラクションは止まり、サイレンすら遠ざかっている。人の流れも、まるで潮が引くように消えていった。
市内は、もはや都市というより、巨大な無音の廃墟だった。
「交通課、思ったより頑張ってんな」
俺が口を開くと、隣の王が小さく頷く。
「はい。渋滞のボトルネックはほぼ解消されつつあるようです」
「で、所轄からは何か連絡あったか?」
「……またですよ。中華街の上海亭。焚き火、だそうです」
「はは、あのジジイめ……」
俺はフードを目深にかぶり直し、顔をしかめた。
「よっし、様子見てくか。エミリー・チャンの線も気になるしな」
「えっ、またあの人を疑うんですか?」
「違う、今回は“本当に怪しい”んだよ。第六感がビンビン反応してる」
王はため息をつきつつ、俺のあとを追ってくる。
――午後九時、横浜中華街・上海亭前。
周囲は漆黒の闇。その中心に、ぽつんと焚き火の赤が灯っている。
炎を囲むように、老舗中華料理店・上海亭の店主のじいさんが、例によってドヤ顔で座っていた。
「上海亭のじいさんッ! また焚き火やってんのかよ!」
「おう刑事さんよ。焚き火はロマンね。命の灯ね。誰にも消させないよ? ……おっ、甘栗いるか?」
「いらねえよ! 飽きたっつってんだろ! で、話だ。陳香楼の……」
「
「そう、そのチャン! さすが、じいさん。惚けてる風で、勘が鋭いな」
「ふっふっふ。あの人なら……七時くらいだったかな? バイクで出かけたよ。真っ赤な皮ツナギ、セクシーだったねえ。しかも後ろに誰か乗せてた。ちっこい影だったが……子供?」
「子供……?」
俺と王が、同時に目を見開いた。
「稲妻さん、これってもしかして……あの三つ編み眼鏡の……」
「ああ。『あの子』だとすれば、向かう先は――」
「本牧……ですよね」
「……いや、ちょっと待て」
俺は一歩引いて、じいさんの言葉を頭の中で再生する。
――七時。赤いツナギ。小さな同乗者。バイク。
雨の中、彼女がその格好で出る理由。しかも、この混乱の最中に。
「王、本部に照会入れてくれ。らんらんマークタワーの件、何か動きはないか?」
「了解です」
王は端末を取り出し、手早く操作する。
無線は生きていたが、ノイズが激しく、会話は難航しているようだ。
――数分後、王の顔に緊張が走る。
「稲妻さん、今……情報が入りました。マークタワー、閉じ込められていた人々が解放されたそうです」
「なんだと……?」俺の目が細まる。
「やはり……ケルベロスが動いたか」
*
俺たちは中華街を抜け、ずぶ濡れの闇の中をひたすら歩いた。
停電の街は、まるで巨大な墓場。
たまに雷が光るたび、真っ暗なビルや作動していない信号機が、一瞬だけ怪物のような影を作り出す。
「くっそ、足が重いな……」
横浜らんらんマークタワーが視界に入った瞬間、俺は足を止めた。
建物のエントランス。シャッターは派手に壊され、鉄骨は外側にめくれあがっている。まるで爆発でもあったかのような有様だ。
「……やられたな」
俺が呟くと、隣で王が思わず声を漏らす。
「まさか、ここが……ケルベロスの仕業?」
「間違いない。こいつはただの破壊じゃねえ」
俺はシャッターの残骸に手を置いた。濡れた鉄の冷たさと共に、暴力の余熱がまだそこに残っている気がした。
「これだけの破壊……人力じゃねえな? ヤツら、目的があって突っ込んできたな」
内部は騒然としていた痕跡が残っている。
人の声はないが、脱出した人間たちの残り香、焦り、混乱、恐怖――それが空気に染みついている。
「停電と同時刻に襲撃。で、中の人を解放……? そんな綺麗事で済む話じゃねえ」
俺は記憶を辿る。じいさんたちの証言。白バイからの情報。
全部が一つの線につながっていく。
「エミリー・チャンが絡んでる。……ってことは、『ただの人助け』で終わるはずがねえんだ」
俺はらんらんマークタワーの外壁越しに、遠く東京の方向を睨む。
雨に煙るその向こう――闇の奥に、ヤツらの次の狙いがある。
「大規模停電。タワー内に閉じ込められていた人たちの解放。で、東京に移動。これが偶然のわけがない。ケルベロスが動くとき、必ず裏に『何か』がある。……今回もそうだ」
「やれやれ、またか……」
王が溜息をつく。
「稲妻さん、いつもこういうとき『大事件の匂いがする!』とか言って突っ走るけどさぁ。前回も前々回も、冤罪だったでしょ。今回も、またエミリーさんを誤認逮捕する気?」
「チッチッチ、違うな」
俺は指を振ってやる。
「前回と違って、今回は『本命』が動いてるんだ。あの女が動くときは、いつだって世界がひっくり返る。……そういう女だ」
「……またその中二病みたいなセリフ……大停電やシステムトラブルは関係ないと思うんだけどなぁ」
「信じるか信じないかは任せる。だがな、王――今回は違う。俺の直感が、全力で警鐘鳴らしてる」
この破壊、この痕跡、このタイミング。
そして「スプートニク」というキーワード。
全部が、「嵐の前の静けさ」を告げていた。
*
らんらんマークタワーでの状況確認を終えた俺たちは、再び闇の中を歩き出した。
雨は止む気配もなく、横浜の街は沈黙している。停電、通信障害、交通のマヒ。人影もまばらで、ただ雨音と足音だけが響いていた。
「稲妻さん……もし、この一連の事件が、ケルベロスと、あのエミリー・チャンによるものだったとしたら――」
王が、不安げに声を落とす。
「奴らの狙いは何なんでしょう? そしてなぜ、東京なんです?」
俺は足を止めた。水たまりに映った街灯の光も、もうない。だが――
「繋がってる。全部だ」
俺の声が、静かに響く。
「ケルベロス、エミリー・チャン、全域停電。それになにより、このタイミングの東京――」
ポケットの中のスマホを握りしめながら、俺は目を細めた。
「奴らの目的は、東京にある。……いや、あるはずだ。もしエミリー・チャンが『あの男』に接触したとすれば――」
俺の視線は、黒い雨の向こうに突き刺さる。
「篠原。いや……『純喫茶スプートニク』。あの男の店に、すべての真実が眠ってる。直感じゃねえ。これは確信だ」
「純喫茶スプートニク……ですか。でも、警視庁がまだ状況を把握していない中、我々だけで動くのは――」
「王。いま、この国でまともに動ける警察が何人いると思う?」
俺は肩越しに振り返り、彼の肩を軽く叩いた。
「非常時に必要なのは、『手続き』じゃねぇ。『覚悟』だ」
「……覚悟、ですか」
「ああ。俺たちがやらなきゃ、誰がやる?」
この国が、崩れかけている。
通信も途絶え、警察も機能していない。
――だからこそ、動くべき時だ。
「行くぞ。東京に。純喫茶スプートニクに。あの女の本当の狙いを、この目で見届ける」
その瞬間、俺の中で何かが切り替わった。
推理ではない。これはもう、覚悟の問題だ。
「日本を守るんだ、王。何があってもな」
雨は、俺の顔を容赦なく叩きつける。だが、構わなかった。
心の中の炎は、とっくに燃え始めていた。
*
らんらんマークタワーを後にした俺たちは、歩いて桜木町駅前まで戻ってきた。街は沈黙している。交通は完全に麻痺し、JRも私鉄も動いていない。車も、タクシーも、何ひとつ走っていない。
「よし、こうなったら俺たちも東京へ行くぞ! 神保町だっけか? 駅の近くらしいから、地下鉄の出入り口を探せばすぐ見つかるだろう」
「でもどうやって? JRも私鉄も運休してるし、道路は使い物にならないですよ」
俺は顎でしゃくった。駅前交番。軒先に止められた、一台の頼もしきバイク――
「阿呆ゥ! 俺たち警察には、これがあるだろうが!」
ポリスカブ! 警察官御用達の頑強なバイクである。
「えぇ……(ドン引き)」
「そりゃあ行けないこともないだろうけど……パトカー使いたいなあ」
「贅沢言うな。機動力重視だ」
俺は交番の中を覗く。若い巡査がひとり、書類整理に集中していた。声をかける。
「お勤めご苦労さん。県警捜査二課の稲妻刑事だ」
「あっ……! はいっ! お疲れ様です!」
「今から東京へ急行する。そいつ、借りるぞ」
「え、ええっ!? ちょ、ちょっと待ってください! 許可が……!」
「許可ならあとで取る。大停電だ、緊急時だ。責任は俺が持つ」
俺は身分証をちらつかせ、にやりと笑った。
「名を覚えとけ。サンダーボルト・ジョウ――稲妻だ」
「ええっ!? サンダーボルト・ジョウ!!……わ、わかりましたっ! どうぞ!」
「よーし! 王、乗れ!」
「ちょ、ちょっと待ってください! その前に警視庁の中島さんに連絡しといた方がよくないですか?」
「おお、そうだったな」
俺はスマホを取り出し、番号を押した。だが――
――ツーツーツー。
「ちっ、電話はだめか」
「稲妻さん、ネットは大丈夫みたいですよ。ほら、メールなら……」
「おれ、メール嫌いなんだよな。お前、中島に連絡しておけ」
「はいはい……。了解です」
エンジンが唸る。闇の中に、ポリスカブのライトが一筋の光を描き出す。
行き先は――東京、神保町。
伝説の稲妻、再び発進。
桜木町駅前、時間は22時を回っていた……。
―― つづく ――