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第17話 稲妻は夜に吠える

 ――午後八時半、横浜・関内駅前。


 横浜市内は死んでいた。停電……、雨……、そして静寂。

 信号は消え、クラクションは止まり、サイレンすら遠ざかっている。人の流れも、まるで潮が引くように消えていった。

 市内は、もはや都市というより、巨大な無音の廃墟だった。


「交通課、思ったより頑張ってんな」

 俺が口を開くと、隣の王が小さく頷く。

「はい。渋滞のボトルネックはほぼ解消されつつあるようです」


「で、所轄からは何か連絡あったか?」

「……またですよ。中華街の上海亭。焚き火、だそうです」

「はは、あのジジイめ……」


 俺はフードを目深にかぶり直し、顔をしかめた。

「よっし、様子見てくか。エミリー・チャンの線も気になるしな」

「えっ、またあの人を疑うんですか?」

「違う、今回は“本当に怪しい”んだよ。第六感がビンビン反応してる」

 王はため息をつきつつ、俺のあとを追ってくる。


 ――午後九時、横浜中華街・上海亭前。


 周囲は漆黒の闇。その中心に、ぽつんと焚き火の赤が灯っている。

 炎を囲むように、老舗中華料理店・上海亭の店主のじいさんが、例によってドヤ顔で座っていた。


「上海亭のじいさんッ! また焚き火やってんのかよ!」

「おう刑事さんよ。焚き火はロマンね。命の灯ね。誰にも消させないよ? ……おっ、甘栗いるか?」

「いらねえよ! 飽きたっつってんだろ! で、話だ。陳香楼の……」

チャンさんあるか?」


「そう、そのチャン! さすが、じいさん。惚けてる風で、勘が鋭いな」

「ふっふっふ。あの人なら……七時くらいだったかな? バイクで出かけたよ。真っ赤な皮ツナギ、セクシーだったねえ。しかも後ろに誰か乗せてた。ちっこい影だったが……子供?」


「子供……?」

 俺と王が、同時に目を見開いた。

「稲妻さん、これってもしかして……あの三つ編み眼鏡の……」

「ああ。『あの子』だとすれば、向かう先は――」

「本牧……ですよね」

「……いや、ちょっと待て」

 俺は一歩引いて、じいさんの言葉を頭の中で再生する。


 ――七時。赤いツナギ。小さな同乗者。バイク。


 雨の中、彼女がその格好で出る理由。しかも、この混乱の最中に。


「王、本部に照会入れてくれ。らんらんマークタワーの件、何か動きはないか?」

「了解です」


 王は端末を取り出し、手早く操作する。

 無線は生きていたが、ノイズが激しく、会話は難航しているようだ。


 ――数分後、王の顔に緊張が走る。


「稲妻さん、今……情報が入りました。マークタワー、閉じ込められていた人々が解放されたそうです」


「なんだと……?」俺の目が細まる。

「やはり……ケルベロスが動いたか」


   *


 俺たちは中華街を抜け、ずぶ濡れの闇の中をひたすら歩いた。

 停電の街は、まるで巨大な墓場。

 たまに雷が光るたび、真っ暗なビルや作動していない信号機が、一瞬だけ怪物のような影を作り出す。


「くっそ、足が重いな……」


 横浜らんらんマークタワーが視界に入った瞬間、俺は足を止めた。

 建物のエントランス。シャッターは派手に壊され、鉄骨は外側にめくれあがっている。まるで爆発でもあったかのような有様だ。


「……やられたな」


 俺が呟くと、隣で王が思わず声を漏らす。


「まさか、ここが……ケルベロスの仕業?」

「間違いない。こいつはただの破壊じゃねえ」

 俺はシャッターの残骸に手を置いた。濡れた鉄の冷たさと共に、暴力の余熱がまだそこに残っている気がした。


「これだけの破壊……人力じゃねえな? ヤツら、目的があって突っ込んできたな」


 内部は騒然としていた痕跡が残っている。

 人の声はないが、脱出した人間たちの残り香、焦り、混乱、恐怖――それが空気に染みついている。


「停電と同時刻に襲撃。で、中の人を解放……? そんな綺麗事で済む話じゃねえ」


 俺は記憶を辿る。じいさんたちの証言。白バイからの情報。

 全部が一つの線につながっていく。


「エミリー・チャンが絡んでる。……ってことは、『ただの人助け』で終わるはずがねえんだ」


 俺はらんらんマークタワーの外壁越しに、遠く東京の方向を睨む。

 雨に煙るその向こう――闇の奥に、ヤツらの次の狙いがある。


「大規模停電。タワー内に閉じ込められていた人たちの解放。で、東京に移動。これが偶然のわけがない。ケルベロスが動くとき、必ず裏に『何か』がある。……今回もそうだ」


「やれやれ、またか……」

 王が溜息をつく。


「稲妻さん、いつもこういうとき『大事件の匂いがする!』とか言って突っ走るけどさぁ。前回も前々回も、冤罪だったでしょ。今回も、またエミリーさんを誤認逮捕する気?」

「チッチッチ、違うな」

 俺は指を振ってやる。


「前回と違って、今回は『本命』が動いてるんだ。あの女が動くときは、いつだって世界がひっくり返る。……そういう女だ」

「……またその中二病みたいなセリフ……大停電やシステムトラブルは関係ないと思うんだけどなぁ」

「信じるか信じないかは任せる。だがな、王――今回は違う。俺の直感が、全力で警鐘鳴らしてる」


 この破壊、この痕跡、このタイミング。

 そして「スプートニク」というキーワード。

 全部が、「嵐の前の静けさ」を告げていた。


   *


 らんらんマークタワーでの状況確認を終えた俺たちは、再び闇の中を歩き出した。

 雨は止む気配もなく、横浜の街は沈黙している。停電、通信障害、交通のマヒ。人影もまばらで、ただ雨音と足音だけが響いていた。


「稲妻さん……もし、この一連の事件が、ケルベロスと、あのエミリー・チャンによるものだったとしたら――」


 王が、不安げに声を落とす。

「奴らの狙いは何なんでしょう? そしてなぜ、東京なんです?」


 俺は足を止めた。水たまりに映った街灯の光も、もうない。だが――

「繋がってる。全部だ」

 俺の声が、静かに響く。

「ケルベロス、エミリー・チャン、全域停電。それになにより、このタイミングの東京――」


 ポケットの中のスマホを握りしめながら、俺は目を細めた。

「奴らの目的は、東京にある。……いや、あるはずだ。もしエミリー・チャンが『あの男』に接触したとすれば――」

 俺の視線は、黒い雨の向こうに突き刺さる。


「篠原。いや……『純喫茶スプートニク』。あの男の店に、すべての真実が眠ってる。直感じゃねえ。これは確信だ」

「純喫茶スプートニク……ですか。でも、警視庁がまだ状況を把握していない中、我々だけで動くのは――」

「王。いま、この国でまともに動ける警察が何人いると思う?」


 俺は肩越しに振り返り、彼の肩を軽く叩いた。

「非常時に必要なのは、『手続き』じゃねぇ。『覚悟』だ」

「……覚悟、ですか」

「ああ。俺たちがやらなきゃ、誰がやる?」


 この国が、崩れかけている。

 通信も途絶え、警察も機能していない。

 ――だからこそ、動くべき時だ。


「行くぞ。東京に。純喫茶スプートニクに。あの女の本当の狙いを、この目で見届ける」


 その瞬間、俺の中で何かが切り替わった。

 推理ではない。これはもう、覚悟の問題だ。


「日本を守るんだ、王。何があってもな」


 雨は、俺の顔を容赦なく叩きつける。だが、構わなかった。

 心の中の炎は、とっくに燃え始めていた。


   *


 らんらんマークタワーを後にした俺たちは、歩いて桜木町駅前まで戻ってきた。街は沈黙している。交通は完全に麻痺し、JRも私鉄も動いていない。車も、タクシーも、何ひとつ走っていない。


「よし、こうなったら俺たちも東京へ行くぞ! 神保町だっけか? 駅の近くらしいから、地下鉄の出入り口を探せばすぐ見つかるだろう」

「でもどうやって? JRも私鉄も運休してるし、道路は使い物にならないですよ」


 俺は顎でしゃくった。駅前交番。軒先に止められた、一台の頼もしきバイク――

「阿呆ゥ! 俺たち警察には、これがあるだろうが!」


 ポリスカブ! 警察官御用達の頑強なバイクである。


「えぇ……(ドン引き)」

「そりゃあ行けないこともないだろうけど……パトカー使いたいなあ」

「贅沢言うな。機動力重視だ」


 俺は交番の中を覗く。若い巡査がひとり、書類整理に集中していた。声をかける。


「お勤めご苦労さん。県警捜査二課の稲妻刑事だ」

「あっ……! はいっ! お疲れ様です!」

「今から東京へ急行する。そいつ、借りるぞ」

「え、ええっ!? ちょ、ちょっと待ってください! 許可が……!」

「許可ならあとで取る。大停電だ、緊急時だ。責任は俺が持つ」

 俺は身分証をちらつかせ、にやりと笑った。


「名を覚えとけ。サンダーボルト・ジョウ――稲妻だ」

「ええっ!? サンダーボルト・ジョウ!!……わ、わかりましたっ! どうぞ!」

「よーし! 王、乗れ!」

「ちょ、ちょっと待ってください! その前に警視庁の中島さんに連絡しといた方がよくないですか?」

「おお、そうだったな」

 俺はスマホを取り出し、番号を押した。だが――


 ――ツーツーツー。


「ちっ、電話はだめか」

「稲妻さん、ネットは大丈夫みたいですよ。ほら、メールなら……」

「おれ、メール嫌いなんだよな。お前、中島に連絡しておけ」

「はいはい……。了解です」


 エンジンが唸る。闇の中に、ポリスカブのライトが一筋の光を描き出す。

 行き先は――東京、神保町。

 伝説の稲妻、再び発進。


 桜木町駅前、時間は22時を回っていた……。


          ―― つづく ――


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