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第8話 「静かで人気な一日」

店内の朝は静寂に包まれていた。

窓際のカーテン越しに差し込む日差しが、白いテーブルクロスを柔らかく照らしている。

いつもなら営業前のこの時間は、雪乃がのんびりと紅茶を楽しむひととき。しかし、今日は珍しく厨房のカウンターに立っていた。


「みんな、こっちに来なさい。」

雪乃が手招きすると、店員たち――弥生、忍、そして新しく加わったセリーヌとクラリスが、不思議そうな顔で集まってきた。


「何でしょうか、お嬢様。今日は特に早くから動いていらっしゃいますね。」

弥生が少し驚いた様子で尋ねると、雪乃は得意げに笑った。


「今日は新作スイーツを発表するわよ。これを見てちょうだい。」


雪乃がそっとテーブルの上に置いたのは、丸い形をしたふわふわのブリオッシュ生地に、たっぷりと甘さ控えめのクリームが詰められた一品だった。

その上にはほんのりとパウダーシュガーが振りかけられており、見た目の可愛らしさにセリーヌとクラリスは息を呑んだ。


「これが今日の新作スイーツ、『マリトッツォ』よ。」



---


驚きと称賛の声


「わぁ……こんなスイーツ、見たことがありません!」

セリーヌが声を上げると、クラリスも頷きながらその美しい見た目に見入っていた。


「ふわふわの生地に、このクリームのたっぷり感……食べる前から美味しいのが分かりますね。」

クラリスが感嘆の声を漏らすと、忍が冷静に雪乃に問いかけた。


「お嬢様、毎回ながらですが、これほど独創的なスイーツのアイデアはどこから湧いてくるのですか?」


その言葉に、雪乃は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに涼しい顔で紅茶を一口飲んだ。

「それは秘密よ。あなたたちは味を楽しむだけでいいの。」


弥生が軽く笑いながら雪乃に視線を向ける。

「お嬢様らしいお答えですね。でも、これだけの新作を次々と考えつくその頭の中、少しだけでも覗いてみたくなります。」


「覗かせないわよ。」

雪乃はそっけなく返しながら、再び紅茶を啜った。



---


試食の時間


「まあ、味見してみなさい。感想を聞かせてほしいわ。」

そう言いながら、雪乃はマリトッツォを切り分けて店員たちに配った。


セリーヌが一口食べると、その瞬間、目を閉じて口元に笑みを浮かべた。

「……これは……本当に美味しいです。甘さ控えめのクリームが生地と絶妙に合っていますね。」


クラリスも続けて一口。

「ふわっとした生地の食感と、このクリームの滑らかさ……お客様に提供するのが楽しみですね!」


「お嬢様、これは素晴らしいですわ。」

弥生が頷きながら言うと、忍も小さく微笑みを浮かべた。

「確かに、これならお客様からの反応も期待できます。」


その言葉に、雪乃は満足げに頷いた。

「当然でしょ? 私が作ったんだから。」



---


不思議が募る店員たち


しかし、試食を終えた後も、店員たちの間には一つの疑問が残っていた。

セリーヌが小声でクラリスに囁く。

「本当にどこからこんなアイデアが出てくるんでしょうね。お嬢様、他のお店を参考にしている様子もないのに……。」


クラリスも首を傾げた。

「しかも、どのスイーツも見たことのないものばかりです。護衛の任務とはいえ、こんなに美味しい体験ができるなんて不思議ですね。」


そのやり取りを聞いていた弥生も、ふと呟く。

「お嬢様、もしかして……どこか特別な経験をお持ちなのではないかしら?」


「そんなこと聞いても答えないわよ。」

雪乃が紅茶を飲みながら微笑んで言った。



---


転生者の秘密


実は、雪乃が次々と生み出すスイーツのアイデアは、異世界で過ごした記憶に基づくものだった。

「異世界ではこんなの普通だったのよね。」

心の中でそう呟きながらも、彼女は誰にもそのことを明かすつもりはなかった。


「さて、今日もこの店を回すわよ。私の仕事は監督だから、あとのことはよろしくね。」

雪乃が軽い調子で言うと、弥生が呆れた表情で返した。

「お嬢様、それで監督と言えるのが不思議です。」


店員たちが再び準備に取り掛かる中、雪乃は微笑みを浮かべながら紅茶を楽しむ。

誰にも知られない秘密を抱えたまま、「雪の庭」は今日も開店する――。



--「雪の庭」が開店するや否や、常連客たちが次々と店に訪れた。

扉のベルが軽やかに鳴り響くたび、弥生とセリーヌが挨拶を交わし、客を席へと案内する。


「今日は新作スイーツが登場したと聞いたけど、本当か?」

最初に声を上げたのは、常連客の一人、レオンだった。


「ええ、本日は『マリトッツォ』という新しいスイーツをお出ししています。」

セリーヌが柔らかな笑顔で答えると、レオンは興味津々の表情でカウンターを覗き込んだ。


「へぇ……どれどれ。おい、店長! お前がまた面倒なものを作ったのか?」

カウンターの奥で紅茶を啜っていた雪乃が、ちらりとレオンに視線を向ける。


「面倒だなんて失礼ね。私が作るものはすべて簡単で上品なものよ。」

そう言いながら、雪乃は少しだけ得意げに微笑んだ。



---


マリトッツォの初お披露目


ほどなくして、マリトッツォがテーブルに運ばれると、客たちはその見た目に驚嘆した。

ふわふわのブリオッシュにたっぷり詰め込まれたクリーム。軽く振りかけられたパウダーシュガーが、美しい雪のように輝いている。


「こ、これは……見た目からしてすごいな。」

レオンが感心しながらマリトッツォをじっと見つめると、隣のテーブルの女性客が笑顔で口を挟んだ。


「本当に可愛いわね。これ、写真に撮っておきたいくらい!」


雪乃が紅茶を置き、冷静に言った。

「撮るだけで満足しないで、ちゃんと味わいなさいよ。」


その言葉に促されるように、客たちは一斉にマリトッツォを口に運んだ。

ふわっとした生地の軽やかな食感と、甘さ控えめのクリームが絶妙に混ざり合い、口の中でとろけるような味わいが広がる。


「……これは、本当に美味しい! こんなの初めて食べたよ!」

「クリームが軽いのにコクがあるわ。甘さもちょうどいいし、これは大ヒット間違いなしね!」


次々と感想が飛び交い、店内は一気に賑やかになった。



---


お客の疑問


賑わいの中、一人の常連客がぽつりと呟いた。

「でも、この店ってこんなに独創的なスイーツばかり出してるけど、アイデアはどこから出てくるんだ?」


その言葉に、店内が一瞬静まり返る。

セリーヌとクラリスが互いに目を合わせ、弥生も困ったような笑みを浮かべた。


「そういえば、お嬢様がどこからこんなアイデアを得ているのか、私も気になりますわ。」

弥生がちらりと雪乃に視線を送ると、雪乃は平然と紅茶を啜りながら答えた。


「秘密よ。そんなことを気にするより、美味しいスイーツを楽しみなさい。」


「相変わらずだな、店長は。謎が多いよな。」

レオンが笑いながら肩をすくめると、他の客たちも同調して頷いた。



---


忙しさが増す店内


次々と訪れる客たちに対応するため、弥生と忍、セリーヌとクラリスは忙しく働いていた。

一方、雪乃はカウンターの奥で相変わらず紅茶を飲みながら、のんびりと店内を眺めている。


「お嬢様、少しは手伝ってくださいませんか?」

弥生が軽く文句を言うと、雪乃は顔をしかめて答えた。

「私は監督よ。あなたたちがちゃんと働いているか見守るのが仕事なの。」


「それで監督と言えるのかしら……。」

弥生が呆れた顔をしながらも、手を動かし続ける。


一方、セリーヌとクラリスは、護衛の任務で派遣されたとは思えないほどの手際の良さで、スイーツや紅茶を運んでいた。

「護衛という名目でこんなに素敵なスイーツを楽しめるなんて、役得ですね。」

セリーヌが小声で囁くと、クラリスも頷いた。

「本当にそうね。でも、お嬢様のスイーツのアイデアはどこから湧いてくるのかしら?」


その疑問は、店員たちの間でも徐々に大きくなっていた。



---


締めくくり


「雪の庭」の一日は、マリトッツォの大ヒットで幕を開けた。

しかし、賑わう店内をよそに、雪乃はいつもと変わらず紅茶を楽しみながら呟く。


「静かで暇な喫茶店を目指していたはずなのに……どうしてこんなに人気が出るのかしら。」


その言葉に、忍が冷静に答える。

「お嬢様のスイーツが美味しすぎるからです。」


雪乃は少し不満げな表情を浮かべながらも、紅茶を飲む手を止めなかった――。





---


「雪の庭」のメニューは、他の喫茶店とは一線を画していた。

壁にかけられた黒板には、たった一行だけ書かれている。


「本日のスイーツ:マリトッツォ」


それ以外のメニューは一切存在しない。過去に提供されたスイーツについての記載もなければ、次回の予定が予告されることもない。

常連客たちはこの「本日のスイーツ」の一文に慣れているが、新しく訪れた客たちは戸惑うことも少なくなかった。



---


新規客の戸惑い


その日、一組の新しい客が店を訪れた。

若い女性とその友人らしき男性の二人組で、入口近くの席に腰を下ろすと、弥生がメニュー代わりの黒板を指差して説明を始めた。


「当店では、日替わりの『本日のスイーツ』をご用意しております。本日はマリトッツォをご提供しております。」


「えっ……それだけなんですか?」

女性客が少し驚いた顔を浮かべる。


「ええ。本日のスイーツのみのご提供となります。」


「じゃあ、前に友達がここで食べたって言ってた『ティラミス』は?」

「申し訳ありませんが、ティラミスはその日限定のスイーツでしたので、現在はご提供しておりません。」


その説明に、男性客が首を傾げる。

「普通、喫茶店って定番のメニューがあるものだろ? この店、毎日変えるのか?」


「はい。それが当店の特色でございます。」

弥生が微笑みながら答えると、女性客は少し困惑した様子を見せたが、最終的にはマリトッツォを注文することにした。



---


常連客たちの反応


一方で、常連客たちはこの「本日のスイーツ」システムにすっかり馴染んでいた。

「この店は『今日だけの味』を楽しむところだよ。」

レオンが新規客に向かってそう言うと、他の客も頷きながら口を開いた。


「そうそう、ここは毎日違うスイーツが楽しめるからいいんだ。定番なんてなくても十分さ。」


「でも、前に食べた『チーズケーキ』がまた食べたくなったらどうするんです?」

新規客が尋ねると、常連客の一人が肩をすくめて答えた。


「それは諦めるしかないな。だけど、ここで新しいスイーツに出会う楽しさには代えられないよ。」


その言葉に、新規客たちは少しだけ納得した様子で頷いた。



---


雪乃の言い分


カウンターの奥では、雪乃が紅茶を飲みながらそのやり取りを静かに聞いていた。

「定番メニューなんて置いてしまったら、退屈で仕方ないわ。せっかく異世界から転生してきたのに、同じものばかり作るなんてありえない。」


もちろん、そんな本音を口にするわけにはいかない。

かわりに、弥生が近づいてきたタイミングで、雪乃は顔をしかめながら言った。

「どうしてみんな『本日のスイーツ』だけで満足しないのかしら?」


「お嬢様、それが普通の感覚だと思います。」

弥生が溜め息交じりに答えると、雪乃は肩をすくめた。

「普通なんてつまらないわ。」



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不動の人気


それでも、「雪の庭」の人気は不動だった。

毎日違うスイーツが楽しめるという希少性と、雪乃の類い稀な味覚センスが店の魅力を支えていた。

どれだけ注文を断られても、常連客たちは次の日にはまた新たな期待を胸にやってくるのだ。


その日も、閉店間際に常連の一人がこう言った。

「次はどんなスイーツが出るのかな? 店長、教えてくれないか?」


雪乃は淡々と紅茶を飲みながら、微笑みを浮かべた。

「さあ、明日になれば分かるんじゃない?」


その答えに、常連客たちは顔を見合わせて笑った。

「本当にこの店らしいな。」


 閉店間際の「雪の庭」。

店内はすっかり静まり返り、日中の賑やかさが嘘のようだった。


店員たちが片付けを進める中、雪乃はカウンターの奥で紅茶を啜りながらぽつりと呟いた。

「……静かな日常が欲しいのに、どうしてこんなに人気が出るのかしら。」


その言葉に、片付けをしていた弥生が手を止めて振り返った。

「お嬢様、それはお嬢様のスイーツが美味しすぎるからですよ。」


「だって、静けさを保ちたいなら、もういっそのことスイーツをやめる?」

雪乃が気だるそうに紅茶を置きながら言うと、店員たちの動きが一瞬止まった。


「お嬢様、今なんとおっしゃいました?」

忍が冷静ながらも鋭い目を向ける。


「だから、スイーツをやめるって言ったのよ。」



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店員たちの抗議


その瞬間、店内の空気が変わった。

弥生が真っ先に反応し、声を張り上げた。

「そんなの絶対にダメです!『雪の庭』のスイーツがなければ、この店の魅力がなくなります!」


続いてセリーヌも、滅多に見せない真剣な表情で言い放つ。

「護衛の任務とはいえ、お嬢様のスイーツを楽しむのが私たちの大きな喜びでもあるのです!」


「そうです! あんな美味しいものを提供しないなんて、罪です!」

クラリスも手に持っていたクロスを放り出して、弁論に加わる。


いつも冷静な忍さえも、少し声を荒げて雪乃を見つめた。

「お嬢様、スイーツをやめるというのは、決して許される発言ではありません。」



---


雪乃の反応


四人の迫力に押され、さすがの雪乃も一歩引いた。

「……いや、そんなに怒るとは思わなかったのよ。ただの提案だったのに。」


「ただの提案でも、その提案だけは撤回してください!」

弥生が即座に言い返し、他の店員たちも力強く頷いた。


「分かったわよ。スイーツはやめない。」

雪乃は呆れたように肩をすくめながらも、再び紅茶を啜った。


「でもね、みんな。私が働かずに済むようにするためには、少し考え直す必要があるかもしれないわ。」


「お嬢様はいつも働いていないので、特にこれ以上何かを考え直す必要はありません。」

弥生が鋭く突っ込みを入れると、雪乃はふてくされたように頬杖をついた。



---


日常の静けさ


抗議がひと段落すると、店内は再び静かになった。

雪乃は、片付けを終えたセリーヌが運んできた新しい紅茶を一口飲みながら呟いた。

「これだけ抗議されるってことは、私のスイーツはやっぱり特別なのね。」


忍が淡々と言い添える。

「それは事実ですが、お嬢様のその自信がさらにお客様を増やしている要因ではないでしょうか。」


雪乃はその言葉を聞き流しながら、空を見上げるように目を閉じた。

「まあ、いいわ。次の新作スイーツは何にしようかしらね。」


その言葉に、店員たちは顔を見合わせてほっとした表情を浮かべた。

「お嬢様が次のスイーツを考える気でいるなら安心ですね。」

弥生が笑みを浮かべながら言うと、セリーヌとクラリスも同調して頷いた。



営業が終わり、店員たちが片付けを始める中、雪乃は一人カウンターで次の日のスイーツを考えていた。

「明日は何を作ろうかしら……。異世界で覚えたあのスイーツを試してみるのもいいわね。」


彼女の記憶の中には、まだ誰も知らない美味しいレシピがたくさん眠っている。

それが「雪の庭」の人気の秘密であることを知る者は、誰もいなかった。






第9話予告「ライバル店、雪の庭の命運は?」


「雪の庭」の目と鼻の先に、大きな喫茶店がオープンした。

朝8時から夜8時まで営業という長時間営業を売りにし、豪華な内装と多彩なメニューで注目を集めるその店に、弥生や忍たちは不安を隠せない。


「お客様があっちに流れてしまったら、この店はどうなるんでしょう……!」

「お嬢様、このままでは雪の庭の命運が危ういかもしれません!」


しかし、そんな心配をよそに、雪乃は涼しい顔で紅茶を飲みながら一言。

「むしろお客がそっちに流れてくれれば、こっちは静かで暇な喫茶店になって助かるわ。」


店員たちは唖然とする中、常連客たちや新規のお客様が「雪の庭」に押し寄せる理由が明らかになっていく。

果たして、雪乃の店の運命はどうなるのか?



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次回、「ライバル店、雪の庭の命運は?」――優雅な店長と賑やかな店の運命の行方をお楽しみに!










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