月の庭が開店準備を進める早朝、まだお客の訪れない静かな店内に、重厚感のある足音が響き渡った。その音は、普段の喧騒とは明らかに異なり、何か特別な存在を予感させるものだった。入口に立っていたのは、一人の女性。弥生はその姿を認めた瞬間、硬直してしまった。
彼女は長いスカートのメイド服を纏い、その服装だけでなく立ち振る舞いからして、只者ではないことが明らかだった。洗練された動き、纏う威圧感と気品――全てが非凡だった。
「ヴィクトリア様!どうしてここに……?」
弥生が驚きの声を上げる。口調から伺える彼女の緊張は隠しきれていなかった。
ヴィクトリア――ジパング王国の王宮メイド長であり、第一王女・壱姫の専属メイドとして絶大な影響力を持つ人物だ。その名を知らない者はいないだろう。壱姫の傍らで仕えるだけでなく、時に宮廷を影から支える役割を果たしてきた彼女が、この遠い地に訪れる理由とは一体何なのか。
ヴィクトリアは冷静かつ毅然とした態度で答えた。 「どうしても何も、ここに第二王女様、第三王女様、第五王女様、第七王女様……ジパング王国の王女の半数以上が集まっているのです。王宮メイド長である私が派遣されるのは当然のことです。」
「ですが……壱姉様の方は?」
弥生が恐る恐る尋ねる。その問いかけにヴィクトリアの表情はわずかに変化したが、冷静さを崩さないまま淡々と答える。
「壱姉様には、他の者をつけております。」
その答えを聞いた瞬間、店内の空気が一瞬凍りついた。ヴィクトリアの発言の意図を悟った弥生が小声で呟く。
「……壱姫様、放し飼いですか?」
その言葉に、ヴィクトリアの眉がピクリと動いた。しかし、冷徹な笑みを浮かべながら返す。
「壱姉様の命でここに派遣されたのです。問題があるとすれば、ここに王女たちが集まりすぎていることでしょう。」
その場にいた全員が黙り込む。言い返す言葉が見つからなかった。確かに、この店に集う王女たちの存在自体が異常だった。月の庭がどれだけ特別な店であっても、普通であれば王族が次々と訪れることなどあり得ない。
「……ヴィクトリア様、もしかして厄介払いされたのでは?」
弥生が恐る恐る尋ねる。その言葉にヴィクトリアは一瞬だけ沈黙した後、冷たい笑みを浮かべながら応じた。
「ここにこれだけの姫様方が集まっている以上、私が派遣されるのは当然の結果です。むしろ、貴女方がこの状況を招いたと言っても過言ではありません。」
雪乃たちは何も言い返せない。確かに、自分たちがその状況を作り出したことを否定できなかったからだ。しかし、それ以上に大きな問題が存在していた。
ヴィクトリア――壱姫を唯一抑えられる存在が彼女の元を離れているという事実。その意味するところは、誰にでも容易に想像できた。
「壱姉様が抑えられない今……何かが起こる気しかしない。」
弥生の呟きに、全員が同意するかのように頷く。
店内の静けさとは裏腹に、胸中に広がる不安は大きくなるばかりだった。王宮メイド長という重責を背負いながらここに来たヴィクトリア。その行動の裏には何か大きな思惑があるのではないか――そう思わずにはいられなかった。