雪の庭の店内は、午後の日差しに包まれ、静けさの中に紅茶の香りが漂っていた。
雪乃は窓際の席に座り、優雅にカップを持ちながら、紅茶を一口飲む。
その落ち着いた様子で、ぽつりとつぶやいた。
「平和だわ…」
その声を聞いた月が、奥から顔を覗かせ、軽く肩をすくめて言う。
「壱姉様がいないからね。」
雪乃はその言葉に一瞬眉をひそめ、控えめに叱るような口調で返す。
「それは、言っちゃだめ。」
しかし、月はくすっと笑いながら、ティーポットを持って雪乃のテーブルにやってきた。
「でも、事実じゃない?壱姉様がいない間だけ、こうやって静かに紅茶を楽しめるんだから。」
雪乃はカップを置き、少し微笑んで答える。
「確かに、壱姉様がいると嵐みたいに騒がしくなるけど……その嵐がないと、少し物足りない気もするわ。」
月はティーポットから紅茶を注ぎながら、肩をすくめる。
「嵐そのものだからね、壱姉様って。嵐の中にいるときは大変だけど、いなくなると妙に静かで落ち着かないのよね。」
雪乃は再びカップを手に取り、紅茶の香りを楽しみながら、ふっと息をついた。
「そうね。でも、この静けさをもう少し楽しみましょう。壱姉様が戻ってきたら、また嵐がやってくるもの。」
月も微笑みながら席に座り、紅茶を飲む。
「確かに。嵐が戻ってくる前に、今だけのこの平和を堪能しないとね。」
そう言って二人は静かに紅茶を楽しむ。
店内には穏やかな空気が流れ、どこかしら壱姫の帰還を待つ期待と、再び嵐が巻き起こる予感が入り混じっていた――。
雪の庭 店内
閉店が近づく頃、店内の穏やかな雰囲気の中で、雪乃が紅茶を片手にくつろいでいると、夜が静かに近寄ってきた。
「雪乃様、すみません。今日は閉店後、外出させていただきます。」
その突然の申し出に、雪乃は驚きながら顔を上げた。
「もちろん、かまわないけど……どうしたの夜ちゃん、急に?今まで出かけるなんて言ったことなかったのに。」
夜は少し間を置いて答える。
「壱姫様から、ないとほーくオリジナルを通して命令がありました。『ハウゼンとかいう野郎を見張って逃がすな』と。そして、もし逃亡を図るようなら、構わないから足の2、3本を折ってでも逃げられないようにしろ、と。」
その一言で、場の空気が一変する。
「えっ……ハウゼン?」雪乃は困惑の表情を浮かべた。
奥で片付けをしていた女騎士のセリーヌが声を上げる。
「ハウゼン伯爵のことですね。この国の貴族で、確かにかなりの重職についています。ただ、悪い噂が絶えない人物でもあります。」
雪乃は紅茶を置き、眉をひそめながら考え込む。
「壱姉様……また何を企んでいるのかしら。」
月もそこに加わり、手を腰に当てながら呆れたように言った。
「命令がいちいち物騒すぎるわよね。足を折れって……やりすぎにも程がある。」
夜は淡々とした口調で答える。
「壱姫様の命令ですので、従うほかありません。」
セリーヌは腕を組みながら考え込む。
「でも、ハウゼン伯爵はただの悪評高い貴族ってわけでもない。彼をどうこうすれば、この国との関係がまたややこしくなる可能性も……。」
雪乃はため息をつきながら、静かに言った。
「壱姉様は、きっと何か確信を持って行動しているんでしょうけど……やりすぎないといいけれど。」
月が小さく笑って肩をすくめる。
「やりすぎない壱姉様なんて想像できないけどね。」
夜は一礼すると、きびすを返して出て行こうとする。
「では、行ってまいります。」
その姿を見送る雪乃は、不安げな視線を向けながら小さく呟いた。
「どうか、壱姉様が……事態をさらにややこしくしませんように……。」
その場の全員が、壱姫の影響力と、次に何が起こるかという不安を胸に、沈黙の中で思いを巡らせていた――。
夜が出口へ向かおうとしたその時、不意に立ち止まり、雪乃の方を振り返った。
「雪乃様、ところで、壱姫様がおっしゃっていた『3本目の足』とは、どこにあるのですか?位置が分からないと折れません。」
その真顔の質問に、店内の空気が一瞬止まった。
「……夜ちゃん……」雪乃は顔を覆いながらため息をつき、必死に笑いをこらえた。
月はその場で声を出して笑い出す。
「ぷっ、ちょっと待って!夜、それ譬喩だから!真に受けないで!」
雪乃もなんとか冷静さを取り戻しながら慌てて説明を始める。
「そうよ!『3本目の足』っていうのは比喩的な表現だから、そんなもの実際にはないの!」
夜は真剣な表情のまま首をかしげる。
「……では、どうやって3本目を折るのですか?」
「だから!」雪乃は思わず声を上げた。
「そもそも本当に折っちゃダメなの!怪我させたりしたらそれこそ問題になるから!」
「でも壱姫様が……」
月が肩をすくめながら笑いを抑えた声で割り込む。
「いやいや、壱姫様も適当に言っただけだから!夜、マジでやらなくていいの!絶対ダメ!」
花も苦笑しながら小さく呟いた。
「夜ちゃんって、真面目すぎるから、こういう時ホント困るのよね……。」
雪乃は深呼吸して気を落ち着けると、優しく夜に向かって言った。
「とにかく、相手を見張るだけで十分だから。暴力沙汰は絶対に避けてね。約束してくれる?」
夜は一瞬考えた後、小さく頷いた。
「……分かりました。壱姫様の命令の範囲内で、最善を尽くします。」
雪乃はほっとした表情で微笑みながら、夜を見送る。
「お願いね、夜ちゃん。」
夜が店を出た後、月は椅子に座り込んで笑いながら肩を震わせた。
「ほんっと、夜ちゃんって天然すぎる……!あの真剣な顔で『3本目の足』とか、反則だわ……。」
雪乃も苦笑しながら紅茶をすすり、ぽつりと呟いた。
「ほんとに平和なんだか、そうじゃないんだか……壱姉様が絡むと、なんでもややこしくなるわね……。」
突然、花がぽつりと呟いた。
「両足の間のあれが3本目かしら?」
店内が一瞬凍りつく。
「花!」雪乃が即座に声を上げ、顔を赤くして叫んだ。
月は椅子に座り込んだまま、笑いを抑えられずに机を叩きながら爆笑する。
「ちょ、花!その発想どこから来たのよ!やめてよ、もう!」
花は首を傾げ、無邪気に言葉を続けた。
「でも、壱姉様がそういう意味で言った可能性もゼロではないでしょ?夜ちゃんが理解しやすいように例えたとか……。」
「ないから!」雪乃が頭を抱えながら強く否定する。
「壱姉様がそんな下品なことを考えるわけないでしょう!」
月は笑いすぎて涙を浮かべながら、肩を震わせた。
「でもさ……それ、夜ちゃんが真に受けて、壱姉様に報告したらどうする?『3本目を折れと言うから探しました』とか言って!」
その想像に、雪乃も思わず口元を押さえるが、笑いを堪えきれない。
「もう、ほんとにやめてよ……夜ちゃんが混乱するだけじゃない!」
花はしれっとした表情で紅茶を飲みながら、ぽつりと付け加えた。
「でも、夜ちゃんが報告したら、壱姉様はきっと笑うと思うわ。」
「そういう問題じゃないの!」
雪乃は完全に振り回されながらも、壱姉様の不在がもたらした妙な平和と、この店のいつもの賑やかさに、少しだけほっとするのだった――。
花の爆弾発言で店内がざわつく中、月が顔を真っ赤にしながら、小声で呟いた。
「あれに骨ないし……。」
その一言で、雪乃は完全に固まり、目を大きく見開いて月を見た。
「月!」
月は自分の言葉に気づいたのか、さらに顔を赤くして慌てる。
「違うの!そういう意味じゃなくて!ただ事実を言っただけで!」
「いやいや、どう考えてもその事実を言う必要はないでしょう!」雪乃は額に手を当て、深いため息をついた。
月の赤い顔を見ていた花が、無邪気に首を傾げる。
「確かに、骨はないけど……月、どうしてそんなこと知ってるの?」
「知識として知ってるだけで、別に体験談とかじゃないから!」月は机に突っ伏して声を張り上げる。
その様子を見て、雪乃は肩を落としながら呟いた。
「本当にこの店、大丈夫かしら……壱姉様がいない間に店の品位が地に落ちそう……。」
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「壱姉様がいたらいたで、もっと混沌とすると思うけどね。」月が机から顔を上げ、弱々しく笑う。
「確かに。」雪乃と月の言葉に、花も軽く頷きながら、再び紅茶を口に運ぶのだった――。
雪の庭 店内
花が何気なく言った言葉に、月と雪乃は一瞬時が止まったように固まり、すぐさま声を上げた。
「骨がなくても海綿体を断裂すれば、折ったことになるのでは?」
「もう、花!」雪乃が勢いよく声を上げる。
月は顔を真っ赤にして椅子から立ち上がり、慌てて花を止めようとする。
「なんでそんなこと言うの!?花!その発想どこから来たの!?」
花は不思議そうに首を傾げ、冷静に答える。
「ただ、理論的に考えただけよ?夜が実行する際に、明確な指示が必要じゃない?」
「だから!そもそも実行させちゃダメなんだってば!」月は声を荒げながら、頭を抱える。
雪乃も額に手を当て、深いため息をついた。
「花、夜ちゃんは命令に忠実すぎるの。そんな変な理論を吹き込んだら、本当にやりかねないのよ。」
夜がその会話をじっと聞きながら、静かに尋ねる。
「雪乃様、では具体的に、どう行動すべきか再度ご指示をいただけますか?」
「夜ちゃん!もうハウゼンさんを見張るだけでいいから!断絶とか折るとか、そういうのは一切禁止!」雪乃は慌てて指示を改めた。
「了解しました、雪乃様。対象には接触せず、見張るだけに専念いたします。」夜は深々と頭を下げた。
その様子を見て、月はまた椅子に座り直し、疲れた表情で呟く。
「ほんと、壱姉様がいない間に店の平和が消え去りそう……。」
雪乃は、月に軽く微笑みながら同意する。
「でも、壱姉様が戻ったらもっと大変になると思うわ……。」
花はその二人を眺めながら、またも不穏なことを口にしようとしたが、月がそれを止めるために急いで制止した。
「花!もう何も言わないで!」
店内はなんとか平静を取り戻したものの、雪乃たちにはまだ遠い未来の嵐が見えているようだった――。