ジパング王都の午後。
陽射しに照らされた石畳を、落ち着いた足取りで歩く一人の女性がいた。
黒髪をゆるくまとめ、凛とした気品を湛えたその人は――雪乃。
異国ラルベニアで人気を博す
「ここは……場所はいいけど広すぎるわね」
彼女は店舗前に掲げられた『空き物件』の札を見上げ、小さく唸った。
「満席になったら対応しきれないし、スタッフを雇うのも面倒だし……。私は、お客様と静かに向き合えるお店がいいの」
そう呟きながら、雪乃は次々と物件を見て回る。だが、理想に叶う店はなかなか見つからない。
「小ぢんまりした、落ち着ける場所……港のほうも候補かしら」
そう考えていたところ、ふと視界に馴染みある看板が目に入った。
――《喫茶・夕影》
「あ、師匠のお店……」
懐かしさと少しの安心感に誘われるように、雪乃は足を止め、静かに扉を押した。
カラン、と柔らかな鈴の音が響く。
「こんにちは、師匠。紅茶、お願いします」
カウンターの奥から顔を出したのは、落ち着いた雰囲気を纏った女性――夕霧。
雪乃の師匠であり、ジパングでも指折りの茶藝の使い手である。
「やだ、雪乃じゃない。珍しいじゃないの、どうしたの?」
夕霧は柔らかく目を細め、笑顔で紅茶の準備を始めながら尋ねた。
雪乃はカウンター席に腰を下ろし、頬杖をついて答える。
「決めました。ジパングにお店、出すことにしました」
「まあ!」
ティーポットの手がぴたりと止まり、夕霧の瞳が見開かれる。
「それは素敵な決断じゃない。……で? 今日はその報告をしに来てくれたのかしら?」
「まぁ……ついでですけどね」
「ついでって?」
「店舗探してる途中なんです。ちょうど近くを通りかかったので」
夕霧はくすくすと笑った。
「ふふ、じゃあよかった。物件なら紹介できるわよ?この街じゃ、それなりに顔が利くから」
「ほんとですか?助かります」
「もちろん。で、希望は?」
「この《夕影》より、もう少し小さなお店がいいです」
「えっ?」
ティーカップを置いた夕霧が、ぽかんとした顔で聞き返す。
「うちより狭いって……《夕影》はせいぜい20人入るかどうかの小店よ?それより小さかったら、まるで隠れ家じゃない」
雪乃は微笑んで、言葉を継いだ。
「それでいいんです。私は、一人ひとりのお客様を丁寧にもてなしたいんです。……だから、目の届く範囲で、落ち着いた空間がいい」
夕霧はその言葉に静かに目を伏せ、ティーカップを差し出しながら、少し涙ぐんだような微笑を浮かべた。
「……成長したのね、雪乃。もう立派に、ひとり立ちしてる。ほんとうに、うれしいわ」
「……ありがとうございます」
(……本音を言えば、ラルベニアのお店が忙しすぎて懲りたんですけど……師匠には言えません)
そんな内心を抱えながらも、雪乃は紅茶をひと口啜った。
口いっぱいに広がる香りは、かつて弟子だった頃と何ひとつ変わらない、優しい味だった。
こうして、ジパングでの新たな店舗の第一歩が、静かに踏み出されたのだった。