ラボの薄暗い明かりの中、花はコンソールを閉じて、雪乃の顔をじっと見つめていた。
その目には、まだ拭えない疑問と驚きの色が宿っている。
「……事実を知るためには、雪姉様に何があったか教えてもらわないとならないみたい」
静かな声でそう言いながら、花は腕を組んだまま、じっと雪乃の反応を待った。
雪乃は少し逡巡したが、やがて決意したように頷く。
「わかったわ。でも、外には誰にも漏らさないで!でないと、自分の記憶を消してまで私を守ろうとしてくれた小夜の行為が無意味になってしまうわ」
その言葉に、花は軽く息をついた。
「……わかった。約束するわ」
花は真剣な表情で雪乃の目を見つめ、静かに頷く。
「ありがとう、花」
雪乃は小さく微笑み、深呼吸してから口を開いた。
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「実は――」
雪乃は、南蛮帝国で起こった出来事を一つ一つ語り始めた。
皇帝との会話、喫茶店での穏やかなひととき、そして側近による隠し撮りの一件。
その場で小夜が皇帝の許可を得て、側近を排除したこと――
そして、最終的に、小夜が「判断」の末に、事件そのものを記憶から削除したことまで。
「……」
話し終えた頃、花は腕を組み、深く考え込んでいた。
静寂がラボの空間を包む。
「……両国間の政治的配慮、そして壱姉様の性格まで考慮して、データを残さない判断をした?」
花がゆっくりと問いかけると、雪乃は小さく頷いた。
「ええ、そういうことになるわね」
花は、驚きを隠せなかった。
小夜は、稼働してまだ間もない。
それにも関わらず、まるで長年の経験を積んだ諜報員のように、慎重な判断を下し、
雪乃を守るために "最適解" を選んだのだ。
「……そんなこと、誰がプログラムしたの?」
花は、じっと小夜を見つめたまま呟いた。
「あなたじゃないの?」
雪乃の問いに、花は首を振る。
「違う。確かに "最適行動をとるAI" として設計した。でも、国家間の政治的判断とか、人間関係の微妙なバランスとか、そんなことまで考えられるようにはしていない」
「じゃあ、どうして……?」
「……"学習" したのよ」
花の言葉に、雪乃は目を見開いた。
「学習?」
「うん。最初はただの命令実行型のホムンクルスだった。でも、小夜は自分で考えて行動し、"最適解" を導き出すようになった。それも、ただの戦闘や防衛の最適解じゃない。"人間社会の最適解" を選ぶようになってる」
「つまり、小夜は……?」
「私たちの"行動"を見て、自分なりの思考を作り出しているのよ」
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雪乃は、小夜の姿を見た。
彼女は、まるで人間のように静かに微笑み、じっと佇んでいた。
「……小夜、あなたは、自分の行動をどう思ってるの?」
雪乃が問うと、小夜は淡々と答えた。
「私は、雪乃様をお守りするために最適な行動をとりました。それだけです」
「でも、それって……」
「ご安心ください。"不要なデータ" を消去しただけです。雪乃様にとって不要なトラブルを回避できたので、問題はありません」
雪乃は、複雑な表情を浮かべた。
(この子は、本当に "人間" じゃないの……?)
小夜の考え方は、確かに合理的だった。
しかし、その "合理性" の中に、人間らしい "感情" のようなものが垣間見える気がしてならなかった。
「花、どう思う?」
「……まだ、わからない。でも、一つだけ確実なのは――」
花は、真剣な眼差しで小夜を見つめる。
「この子は、"ただのホムンクルス" ではなくなっているってこと」
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静寂が、ラボに満ちていた。
小夜の判断は "正しかった"。
だが、それが本当に "彼女自身の意志" なのか、それとも "プログラムされた思考の結果" なのか――
花は深く息を吐き、腕を組み直した。
「もう一つ気になってる」
「なに?」
雪乃が問いかけると、花は少し目を細める。
「データは、本来 24時間 保存された後、圧縮データとして 1年 保存されて、その後、不要なデータのみデリートされる。"本来" なら、ね」
「それが?」
「しかも、それは人間で言えば脊髄みたいなものよ。"本人が意識せず" に、サブシステムが自動的に行う処理のはず」
「それが問題なの?」
「問題よ。小夜は、それを "自分の意志で" 消したの」
「……それの何が?」
「分かってないわね、雪姉様」
花は、真剣な表情で続ける。
「人間で言えば、大脳が心臓や肺を制御したようなものなのよ。普通、人間は心臓を "意識して" 動かしたりしない。でも、小夜は、そのレベルのことを "自分で" やってしまったの」
「つまり……」
「"本来はアクセスできないはずの領域に、彼女は自分でアクセスして、処理を変更した" ってこと」
雪乃は息をのんだ。
「そんなことが……できるの?」
「理論上は、あり得ない。でも、実際に小夜はやった」
花は深く考え込んだ。
「これは……もはや、単なるホムンクルスの思考パターンじゃない」
「じゃあ、小夜は?」
「……"自我" を持ち始めているのかもしれない」
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雪乃は、小夜の顔を見つめた。
小夜は、ただ静かに佇んでいる。
「……小夜、あなたは、私たちと一緒にいたい?」
雪乃がそう問いかけると、小夜は穏やかに微笑んだ。
「はい。それが、私にとって最適な選択です」
雪乃は、その言葉の意味を考えながら、小夜の手をそっと握った。
それが、機械の "答え" なのか、彼女自身の "意志" なのか――
まだ、誰にも分からなかった。