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第56話 ジパングの特使

南蛮帝国、皇帝執務室――。


「陛下!」


執事が慌ただしく駆け込んできた。

アルグリット四世は、眉をひそめる。


「騒がしいぞ! 何用だ!」


最近ずっと苛立っていた彼は、つい怒鳴り散らしてしまう。

執事は一瞬たじろいだが、すぐに冷静に報告した。


「申し訳ありません、陛下。ジパングより特使が参りました。急ぎの用件とのことです。」


「ジパングの特使?」

アルグリットは眉を上げた。


「雪姫殿下か?」

期待を込めた声で問う。


「いえ、公爵備前之守という方です。」


「……」

アルグリットの顔から一瞬で期待の色が消える。


「すぐに案内せよ。」

落胆した声で命じる。


執事は深く一礼し、すぐに部屋を出ていった。


やがて、威厳ある足取りで初老の貴族が執務室へと現れた。

背筋は真っ直ぐに伸び、髭はきちんと整えられた、いかにも格式高い老紳士――ジパング王国の重鎮、公爵備前之守である。


彼は一礼すると、落ち着いた口調で話し始めた。


「お初にお目にかかります。公爵備前之守です。取り急ぎ、お伝えしたい件がございます。」


アルグリットは、わずかに警戒しながらも、ゆっくりと頷いた。


「我が国に何か、また落ち度でも……?」


思わず悪い想像をしてしまう。

ジパングとの関係が悪化するのは絶対に避けたい。

だが、公爵は静かに首を横に振ると、丁寧に書状を差し出した。


「こちらが、壱姫女王陛下からの親書でございます。」


アルグリットは書類を受け取り、目を走らせる。

だが、次の瞬間、彼の表情は複雑なものへと変わった。


――南蛮帝国皇帝アルグリット四世に、ジパング第3王女・雪姫との婚約を打診する。


「……これは、一体?」


思わず問い返してしまう。


公爵は、落ち着いたまま答えた。


「書かれている通りでございます。壱姫女王陛下は、皇帝陛下と雪姫様との婚約を望んでおります。」


「しかし、確か壱姫女王は、政略結婚を嫌われていると聞きます。どういうお心変わりなのでしょうか?」


アルグリットの疑問はもっともだった。

あの壱姫女王が、まさか自ら政略結婚を持ちかけてくるとは――!


「たしかに、その通りなのですが……。」

公爵は、静かに微笑んだ。


「あのように破天荒な方ですが、妹君のことを大切に思われる方でもあるのです。」


「……申し訳ないが、仰る意味がよく分からない。」


アルグリットは眉をひそめた。

壱姫の性格は十分承知している。

彼女が単なる外交のために妹を嫁がせるとは思えない。


すると、公爵は少し声を落として言った。


「これは、ここだけの話ですが――この婚約は、雪姫様ご自身が望まれているのです。」


「――――は?」


アルグリットは、思わず声を詰まらせた。


「し、失礼、雪姫殿下が望まれている……? それは本当ですか?」


信じられない。

あの雪乃が……自ら望んでいる……?


公爵は、にこやかに頷いた。


「もちろん、雪姫様ご自身の口からはおっしゃっていません。しかし、私は長年、雪姫様にお仕えしてまいりました。多少煙たがられておりますが、『爺』と呼ばれながらも、私は誰よりも雪姫様のお気持ちを知っているつもりです。」


「ですので――早急にご検討をお願いいたします。」


アルグリットは、一瞬言葉を失った。

しかし、すぐに真剣な表情に変わり、深く頷いた。


「……う、うむ。両国家にとっても良き話。早急に検討し、返答しよう。」


公爵は満足そうに一礼すると、そのまま退室した。


アルグリットは執務室に一人残り、再び書類に目を落とした。


「……本当に、雪乃が……?」


信じられない。

だが、公爵がここまで言うのなら――。


アルグリットは書類を何度も何度も読み返す。


「……よしっ!!!」


彼は、思わず拳を握りしめ、勢いよく立ち上がった。


「これは……これは……!!」


先ほどまでの憂鬱などどこへやら。

彼の心は、まるで晴天のように晴れ渡った。


――やっと、また雪乃と話す機会が訪れる。


彼女が本当に自分を想ってくれているのなら……

いや、たとえそうでなくとも、この婚約は間違いなく新たな一歩となるはずだ。


「ふふ……ふははははっ!!!」


思わず、皇帝としての威厳を忘れて笑い声を上げてしまう。

これを聞いた側近たちは、彼の執務室の外で震え上がったという。


「陛下が、陛下が久しぶりに機嫌が良さそうだ……!!」

「何があったんだ……!?」


――こうして、南蛮帝国皇帝アルグリット四世の憂鬱は、一瞬にして吹き飛んだのだった。



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