南蛮帝国、皇帝執務室――。
「陛下!」
執事が慌ただしく駆け込んできた。
アルグリット四世は、眉をひそめる。
「騒がしいぞ! 何用だ!」
最近ずっと苛立っていた彼は、つい怒鳴り散らしてしまう。
執事は一瞬たじろいだが、すぐに冷静に報告した。
「申し訳ありません、陛下。ジパングより特使が参りました。急ぎの用件とのことです。」
「ジパングの特使?」
アルグリットは眉を上げた。
「雪姫殿下か?」
期待を込めた声で問う。
「いえ、公爵備前之守という方です。」
「……」
アルグリットの顔から一瞬で期待の色が消える。
「すぐに案内せよ。」
落胆した声で命じる。
執事は深く一礼し、すぐに部屋を出ていった。
やがて、威厳ある足取りで初老の貴族が執務室へと現れた。
背筋は真っ直ぐに伸び、髭はきちんと整えられた、いかにも格式高い老紳士――ジパング王国の重鎮、公爵備前之守である。
彼は一礼すると、落ち着いた口調で話し始めた。
「お初にお目にかかります。公爵備前之守です。取り急ぎ、お伝えしたい件がございます。」
アルグリットは、わずかに警戒しながらも、ゆっくりと頷いた。
「我が国に何か、また落ち度でも……?」
思わず悪い想像をしてしまう。
ジパングとの関係が悪化するのは絶対に避けたい。
だが、公爵は静かに首を横に振ると、丁寧に書状を差し出した。
「こちらが、壱姫女王陛下からの親書でございます。」
アルグリットは書類を受け取り、目を走らせる。
だが、次の瞬間、彼の表情は複雑なものへと変わった。
――南蛮帝国皇帝アルグリット四世に、ジパング第3王女・雪姫との婚約を打診する。
「……これは、一体?」
思わず問い返してしまう。
公爵は、落ち着いたまま答えた。
「書かれている通りでございます。壱姫女王陛下は、皇帝陛下と雪姫様との婚約を望んでおります。」
「しかし、確か壱姫女王は、政略結婚を嫌われていると聞きます。どういうお心変わりなのでしょうか?」
アルグリットの疑問はもっともだった。
あの壱姫女王が、まさか自ら政略結婚を持ちかけてくるとは――!
「たしかに、その通りなのですが……。」
公爵は、静かに微笑んだ。
「あのように破天荒な方ですが、妹君のことを大切に思われる方でもあるのです。」
「……申し訳ないが、仰る意味がよく分からない。」
アルグリットは眉をひそめた。
壱姫の性格は十分承知している。
彼女が単なる外交のために妹を嫁がせるとは思えない。
すると、公爵は少し声を落として言った。
「これは、ここだけの話ですが――この婚約は、雪姫様ご自身が望まれているのです。」
「――――は?」
アルグリットは、思わず声を詰まらせた。
「し、失礼、雪姫殿下が望まれている……? それは本当ですか?」
信じられない。
あの雪乃が……自ら望んでいる……?
公爵は、にこやかに頷いた。
「もちろん、雪姫様ご自身の口からはおっしゃっていません。しかし、私は長年、雪姫様にお仕えしてまいりました。多少煙たがられておりますが、『爺』と呼ばれながらも、私は誰よりも雪姫様のお気持ちを知っているつもりです。」
「ですので――早急にご検討をお願いいたします。」
アルグリットは、一瞬言葉を失った。
しかし、すぐに真剣な表情に変わり、深く頷いた。
「……う、うむ。両国家にとっても良き話。早急に検討し、返答しよう。」
公爵は満足そうに一礼すると、そのまま退室した。
アルグリットは執務室に一人残り、再び書類に目を落とした。
「……本当に、雪乃が……?」
信じられない。
だが、公爵がここまで言うのなら――。
アルグリットは書類を何度も何度も読み返す。
「……よしっ!!!」
彼は、思わず拳を握りしめ、勢いよく立ち上がった。
「これは……これは……!!」
先ほどまでの憂鬱などどこへやら。
彼の心は、まるで晴天のように晴れ渡った。
――やっと、また雪乃と話す機会が訪れる。
彼女が本当に自分を想ってくれているのなら……
いや、たとえそうでなくとも、この婚約は間違いなく新たな一歩となるはずだ。
「ふふ……ふははははっ!!!」
思わず、皇帝としての威厳を忘れて笑い声を上げてしまう。
これを聞いた側近たちは、彼の執務室の外で震え上がったという。
「陛下が、陛下が久しぶりに機嫌が良さそうだ……!!」
「何があったんだ……!?」
――こうして、南蛮帝国皇帝アルグリット四世の憂鬱は、一瞬にして吹き飛んだのだった。