転生前の日本と比べればだいぶマシだが、七月ともなれば湿気が増して蒸し暑い。
日差しは強まり、丈夫な生地は汗を含んでねっとりと重くなる分、不快感が増す。
女学校が無事夏休みに入り、凛は一日中劇場に入り浸っていた。
お披露目公演も終盤を迎え、藤吉の出勤は、開場時間に合わせるようになっていた。
いくら車で出勤するとはいえ、こう暑いと体力も消費する。元から小柄な藤吉は食も細く、だいぶ痩せたように見えて、凛は気がかりだった。
父が行方知れずのままだから、凛の家族は祖父である藤吉しかいないのだ。もし祖父がいなくなってしまったら……と不安に駆られるとき、凛は二十八歳の転生前の自分ではなく、この世界では十六歳の娘でしかないのだと、実感するのだった。
藤吉が出勤すると、音もなく忍が歩み寄り、淡々と報告が行われる。相変わらず凛は聞いたこともない話題が上がこともあり、必ず同席するようにしていた。
「困ったことになりました」
普段であればその日の太客の確認やら、チケットの売れ行きやら、次回以降の企画の進捗、といった内容の報告がほとんどなのに、その日の忍は明らかに青い顔で開口一番そう言った。
朝から同じ部屋にいたというのに、全くそんな様子を見せていなかった。予想外のひと言に凛が驚いていると、
「東雲大臣が急遽観劇したいということで、チケットを手配しろという連絡がありました」
「いつだ?」
「それが今日の夜とのことで」
「席はあるのか?」
「なんとかします。ですが……」
忍は一瞬言い淀んでから、
「観劇だけではなく、風紀の確認のためにいらっしゃる、と仰っておりまして」
思わず凛も顔を顰めていた。
「というのは建前で、恐らく増税の通告と、他に何か弱みを探しにいらっしゃるのかと」
「まあ、そうじゃろうな」
「グッズ販売も、もし見咎められたら面倒かもしれません」
忍はそう言ったけれど、特に打開案があるわけではなかった。
今更「今日だけグッズ販売をやめます」というわけにもいかない。
だからと言って、客が殺到する乱れ打ちみたいなあの空間を見られたら、大臣からは小言では済まないだろう。最悪、グッズにも税をかけられてしまうかもしれない。
「まあなるようになるじゃろ」
藤吉はそう言って、大量の在庫はせめて倉庫に隠しておくようにと指示した。
凛は売り場の係員とともに、ブロマイドなどの詰まった段ボールを運んだ。
だいぶ売れているから、在庫が少なくなっていて助かった。大臣の来館が一週間早ければ、とても隠しておける量ではなかっただろう。
きっかり開演五分前に劇場前にハリヤーが横付けされ、軍服に身を包んだ東雲大臣が降りてきた。
前後左右に同じく軍服姿の従者を連れていた。着ている服のデザインや色は同じなのに、ネイビーの生地に映えるゴールドの飾緒とエポレットが大臣の軍服には輝いており、権威の強さを表している。
「お待ちしておりました、東雲様」
劇場の外まで出迎えにいった忍が深々と頭を垂れる。凛も慌てて後についていき倣った。
「これはこれは。随分盛況な様子ですな」
歳は五十手前だろうか。髪には白いものが混ざっているが、真っ直ぐに伸びた背筋、無駄な肉どころか、鍛え上げられていると感じられる身体は分厚く、まるで元ラグビー選手だと言われても納得できそうな体つきをしていた。
「ありがとうございます。どうぞ、早速お席へご案内いたします」
先導して歩き始めた忍は、受付でいったん足を止めた。
音もなく歩み寄ってきた藤吉が、穏やかな笑みを浮かべて話しかける。
「ようこそいらっしゃいました。今回、お付きの方のお席はご用意しておりませんが、よろしいですかな」
「結構です。後方に立たせてもらえますか」
「かしこまりました」
「終演後、お時間をいただきたい」
東雲が何の前触れもなくそう告げた。藤吉は動揺する様子を見せず、鷹揚に頷く。
「承知しました。松本を迎えにいかせますので、お席でお待ちください」
そう言って藤吉は、忍に席まで案内するように伝える。
凛が慌てて後を追おうとすると、ぐいと強い力で腕を引かれた。
「お前は行かないでよい」
「え、でも……」
「支配人は決して媚びないのだ。忍に任せておけ」
誰にも聞き取れないほどの小声で囁いた藤吉の顔を真っ直ぐに見つめて、凛は小さく頷いた。
終演後、他の観客が客席を立ち混雑する前に、忍は東雲をホワイエへと連れ出した。
「狭くて申し訳ないですが」と断って、控室に従者ともども連れていく。
五畳ほどしかない狭い空間は、屈強な男たち五人によって随分と息苦しく感じた。応接セットに東雲をすすめ、向かいに藤吉が座る。
「いや、新しいトップスターはさすがですな」
東雲はにんまりと笑みを浮かべた。
「以前にも拝見したことがありますが、その時より随分と腕を上げられたようだ」
慇懃にそう述べた東雲は、ちらりと横に控える従者の一人を見遣った。
「ありがとうございます」と、藤吉をはじめ三人が頭を垂れた瞬間、すかさずその従者の懐から一枚の封書が出てくる。
東雲はそれを受け取り、そのまま藤吉に差し出した。
「領主様からのお達しです」
無言で中身を開けた藤吉は、表情を変えずに小さく頷いた。書かれていたのは、先日先触れで書かれていた通り、次回公演分からチケットにかかる税金を二十パーセントに引き上げるという内容だった。
「さて、次の発売はいつでしたかな」
「この公演が終わって一週間後ですね。千秋楽のあと、次の公演のための稽古に入りますから」
「なるほど。では、そのようにお願いします」
それだけ言うと東雲は立ち上がる。扉の近くにいた凛がドアノブに手をかけたとき
「随分と儲かっていらっしゃるようだと報告しておきますよ。お孫さんは、可愛らしい顔でずいぶんと派手好きなようだ」
下卑た笑いを含んだ声が響いて、咄嗟に眉を顰めそうになる。
無意識のうちに表情をつくり、「ありがとうございました」と頭を下げた。ぴかぴかと輝く革靴を踏みつけたい衝動に駆られたが、どんなにムカつく客の前でも微笑んでやり過ごしてきた転生前の経験が生きた。
悠然と微笑む凛を一瞥した東雲は、そのまま何も言わずに控室を出て行った。
ホワイエは、まだ興奮冷めやらぬ観客で賑わっていた。グッズを買い求める客や、感想を語り合う客のざわめきが満ちている。せめぎ合う観客を掻き分けるように道を作り、忍が大臣一行を屋外へ案内していった。
ぞろぞろと出ていく一際大きな体躯の集団を見送りながら、凛の胸には言いようのない不快感と嫌な予感が広がっていた。