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第二章④

 公演を終え、ホワイエから客がいなくなると藤吉は自宅に帰り、忍と凛は劇場事務所に戻る。

 忍はまだ事務所のデスクで仕事を続け、凛はその日に頂いた物を整理したところで、先に帰宅することが多かった。


 なんとなくメンカラライトの相談を切り出しにくく、明日改めることにして凛は先に事務所を出た。

 夜遅いということもあり、役者を送ったあとの車が待っていてくれて、凛はいつもそれに乗らせてもらっていた。楽屋口まで降りると、外がまだ騒がしい。


 どうしたのだろう、と近づいて、そこに礼央が立っていることに気づいた。

 どうやら二台しかない送迎車が出払ってしまい、戻ってくるのを待っているようだ。

 となると自分が帰れるのは、さらにその後になる。しばらくかかりそうだなと思い、凛は少し離れたところで待っていることにした。

 それともいったん事務所に戻ろうか。考えながらエレベーターホールへと踵を返そうとした瞬間、切れ長の瞳と目があってしまった。


「お、お疲れさまです」


 目が合えば、無視はできない。咄嗟に頭を下げると意外なことに「お疲れ」と低い声が返ってきた。

 そのまま背を向けるのも不自然だと思い、仕方なく凛は少しだけ礼央に近寄った。


「車、まだ戻ってこないんですか」

「ああ。なんか今日は春も雨も急いで帰るっつって、さっさと出て行った」

「そうなんですか」


 凛はその後、言葉を見つけることができなかった。会話が何一つ思い浮かばない。

 世間話で場を繋ぐことなんて、前世ではいくらでもあったはずなのに。


 仕方なく黙り込んだ凛の隣で、礼央が小さく息を吐いた。


「レヴューショーを提案したの、お前なんだってな」


 咄嗟に息を呑んだ。考えてみれば当たり前だ。新たに歌や振り付けを覚えなければならない当人たちに言わず、企画が通るわけがない。いきなり負担を増やされて、怒っているだろうか。そう不安を覚えていると、


「素人にしてはいい考えなんじゃねえの」


 え……と呟いたはずの声は、音にならなかった。

 予想外の言葉に、凛は目を瞬かせ、ぽかんと礼央を見上げた。


「なんだよ」

「あ、いえ。すみません……」

「音楽家も振付家も気合いが入ってて、新曲を五曲は作るんだってやる気になってた」

「五、五曲もですか?」

「ああ。俺のソロが二曲、愁のソロが一曲、春雨昴の三人で一曲、あと全員で歌う曲が最後に一曲だと。春たちの曲より、全員で二曲歌う方が、良いような気がするけどな」


 そう言いながらも、礼央はどこか嬉しそうだ。


「どんな曲が良いか聞かれたから、バラードとアップテンポ一曲ずつと言っておいた。春たちの曲はどうせ騒がしいだろうが、愁はきっと歌い上げるつもりだろ」

「確かに、それならバランスが良さそうですね」


 本人たちの希望を聞いて作られる曲。そう考えると、どんな曲ができるのだろう。楽しみだな、と純粋にファンとして初日を待ち焦がれていた時の気持ちが蘇ってきた。


 たとえ歌っているのが颯太でなかったとしても、舞台上でキラキラと輝く姿を見るのが好きだったな、と思い出す。


「昔はレヴューが中心だったらしいぞ。星屑は」

「そう、なんですね……」

「なんだ、やっぱり勉強したわけじゃなかったんだな」


 ふん、と馬鹿にするように礼央は笑った。

 確かにその通りだが、言い方にカチンときて反論しようとすると、目が合った。礼央の目尻が柔らかく下がって、嘲笑うどころか、微笑むような表情に、凛の息は一瞬止まった。


「支配人には、きちんと劇団の歴史を学べって言われたけど、あんまり言うこと聞いてなかったからな、俺も」

「そんなこと、言われたんですか」

「ああ。入団したときにな。俺はあの人に拾われたようなもんだから」

「祖父に、ですか……?」

 訊ねると、礼央は無言で頷いた。

「ああ。親が死んで、売られそうになってたところを拾ってもらった。最初は下働きさせるつもりだったらしいんだが、歌わせてみたら筋がよかったんだと」


 初めて聞く話だった。凛が初めて礼央を目にしたとき、すでにスターになる逸材に見えた。


「きちんとオーディションを経て入ったわけじゃないから、その分ちゃんと勉強しろって言われたんだが、どこからどう手をつけていいかわからねえ。劇団員には、子どもの頃から親に連れられて観劇してた奴も多いが、俺が拾われたときはもう十四だったし」


 確かに劇団員、それも番手が上に来るような人は皆、幼い頃から厳しいレッスンを積むと聞く。しかし十四歳で始めてここまで上り詰めると言うのは、逆に凄いことなのではないだろうか。


「家に……歴代の資料がありますよ。台本とかパンフレットとか」


 劇場の保管庫は衣装や小道具でいっぱいだから、紙の資料はほとんど藤吉が家に運んで保管していたはずだ。


「へえ」


 と言っても、凛もさほど詳しいわけではない。時々、観劇した公演の台本を引っ張り出してきて読むくらいだった。あくまで趣味の一環で、仕事のため勉強のため、に見たことはなかった。


「祖父に伝えておきましょうか?」

「あ?」

「礼央さんが資料を見たいと言っていたって」

「ああ……。いや、いい。自分で言う」

「そうですか」


 また沈黙が落ちた。


「お前もした方がいいんじゃねえの? 勉強」


 今度こそ、にやりと意地悪な笑みを向けられて、思わず膨れる。

 言い返そうとしたその時、「お待たせして申し訳ありません!」と運転手が楽屋口に飛び込んできた。待っていたのが礼央だと気づいて、運転手はただでさえ悪かった顔色がいっそう顔面蒼白になってしまう。

 礼央は何も言わず、楽屋口を出ようとしている。


「お疲れさまでした」


 見送るために凛が頭を下げると、くるりと振り返った礼央が「あ?」と不機嫌そうな声を上げた。


「お前も乗るんだろ」

「え?」

「帰るんじゃねえの?」

「あ、帰ります、けど……」

「じゃあ乗ればいいだろ。寮に寄るくらい、大したロスじゃねえし」


 そう言われて、凛は目を瞬かせた。

 だってまさか、トップスター様――それもこんな俺様な方と、同じ車に乗るなんて、考えてもみなかった。


「よ、宜しいんですか……?」

「何言ってんだお前」


 礼央はそう言うと、さっさと楽屋口を出てしまう。凛は慌てて後を追った。


 出待ちをしていたファンが、車道の向こうから車を見ている。街灯がわずかに照らしているだけとはいえ、長身の男性が出てきて礼央だとすぐにわかったのだろう。甲高い歓声が上がった。運転手が後部座席のドアを開けて、素早く礼央が乗り込む。


 凛は助手席に乗り込んだ。

 それを見た礼央が、小さくため息を吐く。いや、さすがにファンがこれだけ見てる前で隣には座れないだろう。


 運転手は、緩やかに発車させ、車は夜の闇のなかを無音で滑り出していった。

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