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第二章⑥

 と、その時だ。

 人気のない室内の通路をカツカツと音を立てて歩くひとがいる。

 凛はえっ? と訝しんだ。

 掃除はとっくに終わっている時間だから、使用人たちはこの部屋には訪れない。

 祖父にしては歩き方が軽快すぎた。

 誰だろう、と息を詰める。そっと書架の隙間から顔を覗かせると、そこにいたのは礼央だった。


「え……?」


 思わず声が漏れる。それに気づいたのか、礼央の視線がゆっくりと凛を捉えた。

 切長の瞳が一瞬見開かれて、やがて口元にいつもの笑みが上る。


「なんだ、お前も勉強か」


 本にかけた手を下ろして、礼央が近づいてきた。


「ええ、まあ……」


 そう言って顔を逸らす凛にはそれ以上何も言わず、礼央は凛が見ていたプログラムを眺めている。


「なるほど。レヴューの資料を見ていたのか」

「……はい」


 この前指摘された通りのことをしている自分に気恥ずかしさを覚えて、凛は目を伏せた。


「俺も一応、勉強をしにきた」


 支配人は自分から申し出たぞ、と礼央は付け加え、それから小さなメモ帳を取り出した。

 見せてくれたので覗き込むと、人の名前が書かれている。その中に一つ知った名前があって、「もしかして、歴代トップスターの名前ですか?」

「そうだ。先々代になるともうわからないからな。インタビューで、どんなトップになりたいか、とか聞かれるんだよ」

「へえ……」

「あと何の演目を再演したいですか、とかな。聞かれてもわかんねえし」


 だからと言って適当な答えを返すつもりはないらしい。


「えらいですね、きちんと勉強するなんて」


 そう言うと、礼央はふんと鼻で笑った。


「別に偉くはねえだろ。ただ調べるだけなんだから」


 そう言いながらも、礼央は書架から早速何やら探し出して、読み始めた。凛もそれに倣って、また別のプログラムを取り出す。

 上演した演目やレヴューを調べてはメモし、今度はその台本を探しては読み漁った。



「失礼します……。ひゃっ!」


 二人は遅くまで熱中し資料室に入り浸っていた。明かりの消し忘れかと疑った使用人が覗きにきて、微動だにしない人影に気づき、悲鳴を上げた声で我に返る。


「ど、どうしたの?」


 凛が慌てて声の主に訊ねると、二十代中頃の使用人が「申し訳ありません、お化けが出たのやと思いまして」と目に涙を浮かべている。


「ごめんなさい。つい熱中してしまって」

「なんだよ。うるせえな」


 使用人を宥める凛のもとへやってきた礼央が、胡乱げな表情で二人を見下ろす。


「礼央さん、なんて事言うんですか。時間を忘れた私たちが悪いんですから」

「はあ? 知らねえよ」

「いえ、お二人は悪くなかです。失礼いたしました」


 ふと、聞き覚えのある独特のイントネーションに気づいて、凛は「もしかして、木崎さんの奥さん?」と訊ねた。

 すると涙が引っ込んだ目が大きく見開かれる。


「そうです。いつも主人がお世話になっております」


 そう言って深々と頭を下げられた。


「木崎って……照明の?」


 礼央も聞き覚えがあったらしい。


「そうです。この前、奥さんがうちで働いてくれていると聞いて」

「へえ」


 興味なさそうに首を竦めた礼央をジト目で見ると、ふんっと鼻で笑われた。


「結婚してると思わなかったから聞いただけだ。じゃあな、俺は帰る」


 礼央はそう言うと、手にしていたパンフレットを棚に戻し、資料室を出て行った。

 凛も慌てて片付け始める。


「別にまだいらっしゃるなら大丈夫ですが……」

「ううん。あんまり遅くなっても明日に響くから。呼びに来てくれてありがとう」

「とんでもないです。え……っと」

「木崎雪と申します」

「雪さんは、通いなのよね? 大丈夫? こんなに遅くなってしまって」

「はい。ちょうど戸締りしたら出るところでしたので」

「気をつけて帰ってね」

「ありがとうございます。夫が途中まで迎えに来てくれますから」

「そうなんだ。じゃあ良かった」


 話しながら戯曲やパンフレットを棚に戻し、雪と二人揃って資料室を出た。


「鍵は私が戻しておくから」

「ですが……」

「大丈夫。自分で開けたんだから、戻せるわ」

「では申し訳ありませんが、お願いします」


 そう言ってお辞儀をし、去っていく雪を見送る。

 確かに、雪はまだ二十歳になったかならないか、といった年齢に見えた。

 比較的結婚が早い社会とはいえ、ずいぶん若い夫婦だが、訛りが似ているから同郷なのかもしれない。

 セロファンのお礼がてら、今度木崎に聞いてみようと思う凛だった。


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