夕方、稽古を終えた礼央が洋館を訪ねてくるのと、凛が仕事を終えて帰るのは、ほぼ同時だった。
使用人に毎日鍵を開けておいてもらうようにしたので、どちらかが先に保管庫にいて、灯りがついていれば相手が先に来ているのだと思い、真っ暗であれば自分の方が早かったのだな、と思いながら灯りをつけた。
ある日、藤吉が覗きにやってきて、「礼央も夕飯を食べて帰ったらどうだ?」と誘った。
最初は「寮に戻れば夕飯があるから」と固辞していた礼央だったが、藤吉のしつこいまでの誘いを断れるわけもなく、気づけば三人で夕飯を食べることになった。
広いダイニングの大きなテーブル。上座に藤吉が座り、それを挟むような形で礼央と凛が向かい合う。
いったいなぜこんなことに……? と思いながら、凛は用意されたナプキンを広げた。
前菜、サラダ、メイン……と順番に料理が運ばれてくる。最初はナイフとフォークの使い方に苦労したものだが、今ではすっかりお手のものだ。礼央は意外にもなんの躊躇いもなくナイフとフォークを使いこなしていた。
椅子に座っても姿勢が良いので、食べる姿が美しい。
「稽古は順調か?」
藤吉が礼央に訊ねる。
「はい。今は芝居を深めているところです」
「そうか。お前と愁は相性がよさそうだな」
礼央は一瞬首を傾げた。
「ずっと一緒に組ませてきたのは支配人でしょう
「そうだよ。バランスが良いと思ったんだ。人として」
そう言うと、礼央の眉がぴくりと動いた。グラスに注がれた水を一口煽る。
「それは、俺に足りないところを愁が補うからですか」
「もちろんそうじゃ。だが、愁に足りないところは、お前が補っている。そういう関係なんだよ。トップと二番手は」
「春と雨はそういう関係には見えませんね」
「あいつらはトップと二番手じゃない。三、四、五番手は三人官女でいいんだ」
はい、と礼央は小さく頷いたが、残念ながら凛には意味がよくわからなかった。
ただ春たち三人には、これから先もトップスターになる道は開かれていないのだ、とわかった。
調べて知ったが、トップスターは大体十年、長ければ二十年にわたりその座を務めている。
もし礼央が十年で退くならともかく、二十年いたら、現在番手についている彼らはとっくに薹が立ってしまい、次のトップにはさらにその下の世代がなるのだろう。
藤吉は、礼央に二十年トップを努めよと言っているのだ。
まだ子役のうちに自分の推したい子を見つけないと、夢は叶わないかもしれない、と凛は思った。実際今、劇団に所属している役者たちの中から、礼央以上になりそうな逸材を見つけるのは難しい。
「凛。お前も後を継ぎたいなら、見る目を養いなさい。きちんと礼央をみて、思ったことは伝えるように」
藤吉がそう言った瞬間、礼央の鋭い視線が凛を射抜いた。まるで「お前に何がわかるんだ」と言わんばかりのその目線に、凛のなかの何かに火がつく。
もちろん凛は専門家じゃない。自分が訓練を受けたわけではない。でもそれは、藤吉も忍も同じはずだ。
凛だって、前世で多くの舞台を観てきたつもりだ。ほとんど推しが出ている作品だったけれど、その分ひとつの演目を何度も繰り返し観たし、役替えがあればすべてをコンプリートすべく何パターンも観た。
そして毎回、同じように新鮮さを味わった。それは海音颯太が、いつも新鮮に、どんな役でも演じられるカメレオン俳優だったからだ。同じ顔をしているとはいえ、礼央の実力はまだ知らないけれど、ひとりの役者を見続ける自信はあった。
「わかりました」
凛がはっきりと返事をすると、礼央の目が細められた。
抑えきれなかったらしい短い息の音が響く。それはまるで嘲笑するような響きを秘めていて、凛はいっそう「絶対に目を養ってやる」と決意を新たにしたのだった。
「凛、出来たぞ」
ある日、満面の笑みを浮かべて劇場事務所に入ってきた藤吉は、腕にカゴを抱えていた。
慌てて駆け寄って受け取る。中を覗き込んで――
「え、もう出来たんですか⁉︎」
凛は思わず声を上げていた。
細身のペンライトと、キャップのような部品がいくつか中に入っていた。中身を取り出してみると、キャップはそれぞれ色がついていて、その色が、仕込まれたセロファンの色と一致しているらしい。
何もつけずにスイッチを入れれば白いライトが灯り、キャップをつけると色が変化する。
「すごい……! 完璧です」
事務所内の電気を消し、カーテンも閉めて暗くした室内で試していると、仕事をしていた社員たちも皆、興味津々で近寄ってくる。
「え、これを客席で使うんですか?」
「そうなんです。レヴューの時に振ってもらおうと思って」
「へえ。よく考えましたね」
「確かに、自分の色が光っていたら嬉しいかもですね」
「全部紫にならなきゃいいけど」
「確かに……でもまあ、紫が多い分には、ね」
同僚たちは、キャップを付け替えてはいろんな色を試している。その様子を満足げに見ていた凛へ、藤吉が口を開いた。
「で、これはどうやって売るんじゃ? 色ごとにするのかセット販売か……」
そう聞かれて、凛は迷いなく答える。
「どちらも用意しようと思います。全色セットだと少し安くなるようにして。本体と単色の組み合わせをメインで販売しつつ、色替え用のキャップだけでも販売したいと思います」
「なんと……随分手間じゃが」
「でも途中で推し変する人、絶対いると思うんですよね。あー、つまり、元々礼央さんのファンだったけど、お芝居見たら愁さんのこと好きになっちゃった、みたいなことって有り得ると思うんです。せっかく付け替えられるんですから、キャップだけでも売っていたら、すぐに緑を買い足せるじゃないですか」
「確かにのう」
「なので、全色セットを一番お得にして、次を単色、一番割高なのを、色替えキャップのみにしたらどうかと」
「なるほど。忍はどう思う?」
「いいんじゃないでしょうか」
話を振られた忍もあっさり頷いてくれて、販売方法については決まった。あとは原価と相談して、実際の価格を決めることになる。また凛と電卓の睨めっこが始まったのだった。
忍と藤吉の許可を貰い、凛も稽古場を頻繁に覗くようになった。
稽古場は役者の暮らす寮の敷地内にある。体育館みたいなだだっ広い空間に、平台で仮のセットが組まれていた。
入り口を入ると、手前に着替えるための小部屋があった。そこを通り過ぎると、演技スペースが見えるように俳優の待機場所として机と椅子が並んでいて、その先頭に演出家の席が配置されていた。
藤吉はいつも最後列の席に座っているらしい。長机に椅子が置かれているだけだったが、その隣が凛の場所、ということになった。
忍は稽古場に顔を出すことはあっても、座ってゆっくり稽古を見ることはないらしい。
仮のセットで、衣装やメイクもなく稽古着姿の役者が芝居をしていると、よりはっきりと出来がわかるものだな、と凛は実感していた。
本番の舞台では照明や音響も相まってごまかされる実力が、如実に現れるのは恐ろしい。特に女形なと、衣装もメイクもない状態で、なりきって芝居をするのだから、すごいなあと思う。
そして、礼央はさすがだった。マイクを通さなくてもはっきりと通る声、感情の伝わるセリフ、殺陣のシーンの身のこなしは軽やかだ。やはりトップスターに選ばれるだけのことはある……と凛は思うのだった。だが。