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第二章⑨

 結局藤吉の意識は戻らず、そのまま車で病院に運ばれた。

 処置室に運ばれたきり、しばらく出てこない。

 礼央も車に乗って、付き添ってくれた。


「明日も稽古ですよね。早く帰って休んでください」

「帰れるわけねえだろ、この状況で」

「でも……」

「いいんだよ。帰ったって気になってどうせ寝れねえし」


 礼央はそう言うと、廊下のベンチに腰掛けた。その横をぽんぽんと叩く。


「ほら、お前も座れ」


 そう言われても凛が黙って処置室の扉を眺めていると、


「ったく」


 礼央が強く凛の手首を引いた。凛の身体はあっけなくバランスを崩し、たたらを踏むように前に大きく傾く。

 礼央はその身体を支え、抱き込むようにしてベンチに座らせた。


「なっ……」


 半ば強引ともいえるその態度に凛が言葉を失っていると、


「こうでもしねえと言うこと聞かないだろ、お前は」

「そんなこと」

「お前まで倒れたら困るんだよ」

「でも……っ」


 それでもまた立ちあがろうとする凛の肩を、礼央は強く引き寄せた。そのまま自分の肩に凛の頭をもたれるようにする。


「ちょっと寝とけ。何かあったらすぐに起こしてやるから」


 布越しに頬に触れる礼央のぬくもりに、泣きはらした瞼が重力に逆らえずおりていく。不安でいっぱいなはずなのに、意識はあっという間に闇に落ちていった。




「ん……」


 ごつごつとした感触に違和感を覚えて目を開ける。

 薄暗い視界に一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる。

 ぱちぱちと目を瞬かせて、焦点が合い始めると同時に、自分が病院の廊下にいたことを思い出した。

 目線を落とせば、飛び込んできたのは自分のものではない長い足で。凛は慌てて体を起こした。


「起きたのか?」

「す、すみません」


 上半身を倒し、どうやら礼央に膝枕してもらった状態で寝ていたらしい。飛び起きて髪を抑える凛を見た礼央は、特に怒りもせず目を擦った。


「私、結構寝てました……?」

「いや二時間くらいじゃないか?」


 まだ外は宵闇に包まれている。それでもちょっと休もうと思っただけなのに、思っていた以上にたっぷり睡眠を取ってしまったようだ。


「容態は落ち着いているらしい。あとは本人の体力次第だと」

「そうですか……」


 凛は藤吉が眠っているはずの扉をじっと見つめた。小さく息をついたところで、自分の膝に重みを感じた。

 先ほどまでの凛がしていたように、今度は礼央が凛の膝のうえに頭を乗せて上半身を倒している。


「え……」

「俺も寝る」

「ちょ、それなら寮に帰ってください。明日も稽古なんですから」

「あ? だから寝るんだろ」

「ここで寝なくても……!」


 しかも膝枕で寝るなんて、身体が凝り固まってしまうに決まっている。


「いいんだよ。別に。仮眠取れれば」

「でも……!」

「つべこべ言ってる暇があるなら寝かせろ」


 そう言って、礼央は目を閉じてしまった。薄暗いなかでも、束になったような長いまつ毛がよく見えた。

 すぐに、すうすうと一定の寝息が聞こえてくる。本当に寝てしまったのか。凛は呆気に取られて固まった。

 礼央は腕を組んだままだが、きちんと休まるのだろうか。膝の上でわずかにみじろぎすると、髪が口元にかかった。

 凛はそっとその髪を払って、ため息をつく。

 しかし結局、しばらく礼央の顔を観察していたのだった。


 明け方になると、処置室からベッドに寝かされたまま藤吉が出てきた。目は覚めていないが、容態が落ち着いているため病室に移すのだという。


 凛と礼央は病室まで移動し、その部屋の前のソファに腰掛けた。


「あの、もう大丈夫ですので、本当に戻ってください。そんなに眠れないと思いますけど、まだ仮眠取るくらいの時間はありますよね?」

「いいっつってんだろ」

「だめです。多分、支配人もそういうと思うので……」


 ぎゅっと拳を握って深く頭を下げると、頭上で大きくため息が聞こえてくる。


「……わかった」


 苦々しく、けれど確かに礼央がそう言って、凛は弾かれたように顔を上げた。


「なんかあったらすぐに寮に連絡しろよ。起こしていいから」

「はい。あの、礼央さん」


 凛はまっすぐに礼央を見つめた。澄んだ瞳を向けられると、緊張で知らずと頬がほてる。


「付き添っていただいてありがとうございました。その、心強かったです」


 ふっと礼央が笑みを浮かべた。


「もっと甘えることを覚えろよ」

「あ、車呼びます」

「いい。自分で呼べる」


 そういうと、礼央はひらひらと手を振って、廊下を歩き去っていった。


 凛は一人廊下のソファに座り、ぎゅっと膝を抱えた。

 不安は募るばかりだが、少しだけ、頼るひとがいる心強さも感じた夜だった。


 日が上り始め、病院の廊下は日中と変わらないほど明るくなった。

 病室に入り、ぼんやりとベッド横に座り込んでいると、息を切らせた忍が現れた。

 どうやら礼央が連絡をしてくれたらしい。


 医師の説明によると、峠は越したが、意識が戻るかどうかは本人の体力次第だという。この世界の医療は、前世ほど発達はしていない。

 病気の原因ははっきりとわからないようだった。しかし突然意識を失ったということは、脳梗塞のような症状なのかもしれない。

 だからと言って何ができるわけでもなく、凛は顔を手で覆った。


「大丈夫ですか」


 泣いたうえにさほど寝ていないからだろうか、まるで土気色の顔をした凛を忍が気遣う。


「すみません、取り乱してしまって……。早く目を覚ましてくれるといいんですけど」

「そうですね。とにかく今は支配人を信じましょう」


 凛は力なく頷いた。

 結局、それしか出来ることはなかった。



 本番を控えた今、ただ病室で付き添っているわけにもいかず、忍と凛はそれぞれ通常通り出勤した。


 藤吉が倒れたことは伏せておくことにして、二人は昨日までとかわらず業務にあたった。『オリバーとマリア』の初日までもう間がない。そろそろ舞台での稽古が始まる頃だった。


 凛は続々と届き始めたグッズを検品してはロビーに運び入れた。

 今回は公演プログラムの写真と同時にブロマイド用の写真も撮影したので、最初から売れるだけ売るつもりだった。

 あとはゲネプロ中にレヴューの写真を撮り、それは公演中日から追加で売り出す予定にしていた。最初は、レヴューがあることを伏せてあるからだ。


 実に三十年ぶりのレヴュー復活を、ネタバレなしで華々しく飾りたかった。そのために初日は新聞記者も大勢招待していた。大々的にレヴューを紹介してもらおうと藤吉が手配していたのだ。

 だが――。


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